第8話 独占宣言はカクテル言葉で
雨音だけが支配する店内で、ギルバート様の呼吸が荒くなるのが分かった。
彼は『新しい夜明け』を楽しむアレクセイ様と、それを静かに見守る私を見て、何かが切れたようだった。
「……嫌だ」
子供のような拒絶の言葉。
ギルバート様が、バンとカウンターを叩いた。
「嫌だ! 認めない! エレノア、君は俺の婚約者だったんだ! 俺が間違っていたなら、正せばいい! 償いなら何でもする! だから……!」
彼は椅子を蹴るように立ち上がり、カウンター越しに手を伸ばしてきた。
その目は焦点が合っておらず、ただ私の腕を掴もうと宙を泳ぐ。
「戻ってきてくれ! 君がいないと、俺は……!」
危ない。
私は反射的に身を引こうとした。
だが、それよりも早く、横から伸びてきた影がギルバート様の手首を掴むことはなかった。
代わりに、私の手首が、優しく、しかし強引に引かれた。
「……え?」
世界が半回転する。
気づけば、私はカウンターから身を乗り出したアレクセイ様の胸元近くに引き寄せられていた。
私の左手は、彼の手のひらの中にすっぽりと収まっている。
「さ、宰相……閣下……?」
「触れるな」
アレクセイ様の声は、凍えるほど低かった。
ギルバート様に向けられたその瞳は、氷河のように冷徹で、絶対的な拒絶を湛えていた。
「その汚れた手で、私の酒に触れるつもりか?」
酒、と言った。
けれど、彼が握っているのは私の手だ。
「か、閣下、これは俺たち個人の問題で……」
「個人? 笑わせるな」
アレクセイ様は鼻で笑い、私の手を離そうとしなかった。
むしろ、指を絡め、逃げられないように強く握り込む。
彼の体温が、指先からドクドクと伝わってくる。熱い。
「彼女の作る酒も、彼女が作り出すこの空間も、そして彼女自身も。……すべて、私が予約済みだ」
「よ、予約……?」
「そうだ。君のような『過去の遺物』が割り込む隙間など、この店のどこにもない」
アレクセイ様は、呆然とするギルバート様の前で、私の手の甲をゆっくりと持ち上げた。
長い睫毛が伏せられる。
そして、熱い唇が、私の肌に落とされた。
ちゅ、という微かな音が、雨音の合間に響く。
「……っ!?」
私は悲鳴を上げそうになり、喉の奥で飲み込んだ。
顔が一気に沸騰する。
これは、その、いくらなんでも演技にしては──!
アレクセイ様は顔を上げ、挑戦的な笑みをギルバート様に向けた。
「理解したか? 彼女のカクテルは、私だけのものだ。……これ以上、私の愉悦を邪魔するなら、騎士団の予算編成を見直さねばならなくなるが?」
トドメの一撃だった。
権力と、男としての格の違い。そして何より、目の前で見せつけられた圧倒的な親密さ。
ギルバート様は顔面蒼白になり、唇を震わせた。
伸ばしかけた手は宙を彷徨い、やがて力なく下ろされた。
「……あ……」
彼は何かを言おうとして、言葉を失い、よろめきながら後ずさった。
完敗だ。
誰の目にも、勝負はついていた。
「……下がれ」
アレクセイ様の短い命令。
ギルバート様は、もはや私を見ることもできず、逃げるように背を向けた。
その背中は、店に入ってきた時よりもさらに小さく、惨めに見えた。
店内に、再び静寂が戻る。
心臓の音が、うるさいほど耳元で鳴っている。
「……あの、アレクセイ様」
私は震える声で呼びかけた。
手は、まだ握られたままだ。
「……少々、やりすぎではありませんか?」
「そうか? 害虫にはこれくらいで丁度いい」
彼は悪びれもせず、いつもの涼しい顔に戻っている。
だが、私を捕まえている手は緩めない。
「それに、嘘は言っていないつもりだが」
「へ……?」
「予約済み、と言っただろう」
彼は空いている方の手で、飲み干したグラスを指差した。
そこには、まだ一滴の紫色の滴が残っていた。
「おかわりだ。……『キール・ロワイヤル』を頼む」
私は息を呑んだ。
バーテンダーとして、そのカクテル言葉を知らないはずがない。
シャンパンとカシスで作る、宝石のようなカクテル。
その意味は──『最高のめぐり逢い』。
「……かしこまりました」
私はようやく解放された手で、熱くなった頬を隠すように俯いた。
この方は、どこまで本気なのだろう。
少なくとも、今の私には、それを「ただの酔狂」と笑い飛ばす余裕は残っていなかった。




