第7話 思い出のワインと、拒絶のグラス
しとしとと降る雨音が、店内のBGM代わりになっていた。
今夜の『ノクターン』は静かだ。
カウンターには二人の男。
端には、いつものように優雅に本を読みながらグラスを傾けるアレクセイ様。
そして私の正面には、亡霊のようにやつれたギルバート様。
彼はここ数日、私の出した「苦い酒」を黙々と飲み続けていたが、今夜はどうやら様子が違うようだった。
空になったグラスを強く握りしめ、何かを堪えるように俯いている。
「……エレノア」
「ご注文でしょうか」
私が事務的に尋ねると、彼は顔を上げた。
その瞳には、熱病のような光が宿っていた。
「頼む。作ってくれないか。……あの夜、君が置いていったワインを」
その言葉に、グラスを拭く手が止まる。
アレクセイ様がページをめくる音が、やけに大きく響いた。
「あのワインの味が、忘れられないんだ。今の家の……喧騒と罵倒の中で、あの味だけが、俺の心の支えなんだ」
彼はカウンター越しに身を乗り出した。
「材料なら何でも揃える。金も払う。だから、お願いだ。もう一度、あの『奇跡の雫』を俺に飲ませてくれ」
必死な懇願だった。
かつて騎士団長として胸を張っていた男の影はない。
ただ、失われた過去の幻影にすがる、哀れな男がいるだけだ。
私は静かに首を横に振った。
「お断りします」
「な、なぜだ! 君が作ったものだろう!?」
「ええ。ですが、あれは二度と作れません」
私は新しいグラスを手に取り、照明にかざした。
「錬金術による醸造は、術者の精神状態が味に影響を与えます。あのワインには、当時の私の……貴方への『絶縁』の意志と、家を捨てる『覚悟』が込められていました」
そう。あれは美しい味などではない。
私の悲しみと怒りが結晶化した、別れの味だ。
それを「忘れられない」と懇願するなんて、皮肉が過ぎる。
「それに、お客様。思い出というものは、美化されるものです。今、同じレシピで作ったとしても、貴方はきっと失望なさるでしょう」
「そんなことはない! 俺は、君の……!」
愛している、と言いかけた口を、彼はパクパクと動かして閉じた。
私の目が、あまりにも冷ややかだったからだろう。
今さら、そんな言葉が届くとでも思っているのだろうか。
「私の手元には、もうあの日の感情はありません。あるのは、新しいお酒への探求心だけ」
私は彼の前から離れ、シェイカーを手に取った。
視線の先には、アレクセイ様がいる。
彼は本を閉じ、面白そうに私を見ていた。
「マスター。私は、過去の残り香よりも、未来の味が知りたいな」
「心得ております」
私は微笑み、シェイカーに氷を入れた。
注ぐのは、ウォッカと、数種類のフレッシュフルーツ。そして、錬金術で精製した「夜明けの光」のイメージ。
シャカッ、シャカッ。
軽快なリズムが店内に響く。
ギルバート様が、呆然とそれを見つめている。
彼のために振ることは、もう二度とないシェイカーの音。
カクテルグラスに注がれた液体は、底の方が濃い紫色で、上に行くにつれて鮮やかなオレンジ色へとグラデーションを描いていた。
「『新しい夜明け(オーロラ)』です。……混ぜながら、変化をお楽しみください」
アレクセイ様の前に置く。
彼はグラスを持ち上げ、その色彩を愛でた後、一口飲んだ。
「……素晴らしい。最初は冷たく澄んでいるのに、後味が驚くほど温かい」
「夜が明けていく空を表現しました。……過去を振り返る必要などない、という願いを込めて」
アレクセイ様がニヤリと笑う。
その言葉が誰に向けられたものか、この場の全員が理解していた。
ギルバート様は、出されたカクテルと、それを楽しむアレクセイ様、そして満足げな私を交互に見た。
そこには、彼が入り込む隙間など一ミリもない。
「俺は……」
彼の声が震える。
「俺は、もう……君の『今』には、いないんだな」
それは質問ではなく、絶望的な確認だった。
私は何も答えない。
ただ、新しいグラスを磨き始める。
雨音だけが、やけに冷たく響いていた。
決定的な亀裂は、もう誰の目にも明らかだった。




