第6話 氷の宰相の不機嫌
国政とは、終わりなき泥かきのようなものだ。
愚かな貴族の尻拭い、隣国との神経戦、そして騎士団の不手際。
「……宰相閣下、本日の会議はまだ……」
「中止だ。後は君たちで適当に処理しておけ」
私は執務室を出て、従者にコートを投げつけさせた。
本来なら深夜まで残業コースだが、今日は帰る。
虫の居所が悪いからだ。
原因は分かっている。
昨日、私の聖域に迷い込んだ、薄汚い野良犬のせいだ。
* * *
路地裏の扉を開ける。
カラン、と心地よいベルの音が、張り詰めた神経を緩ませる。
「いらっしゃいませ。……お早いですわね」
カウンターの中、銀髪の女神が微笑んでいた。
エレノア。
その涼やかな声を聞くだけで、一日の疲労の半分が霧散する。
「今日は大事な用事があってね」
私はコートを掛け、カウンターへと進む。
座ったのはいつもの定位置──ではなく、その一つ隣。
昨日、あの元婚約者が座っていた席の、すぐ真横だ。
エレノアが怪訝そうに小首を傾げる。
私は何も言わず、ただ目で合図を送った。
『いつもの(・・・)』を頼む、と。
彼女は小さく頷き、準備を始める。
シェイカーを振る所作、氷を扱う指先。すべてが洗練されており、無駄がない。
美しい。
その才能を見抜けず、あろうことか追放した騎士団長の眼球は、飾りか何かだったのだろうか。
カラン、コロン。
噂をすれば、だ。
ドアが開き、昨日と同じ湿気た顔をした男が入ってきた。
ギルバート・ライオット。
私の顔を見て一瞬怯んだが、それでも図太く私の隣──本来私が座るはずだった席──に腰を下ろした。
「……マスター。今日も、例のやつを」
ギルバートが呻くように注文する。
エレノアは無表情で、昨日と同じあのどす黒い液体──彼女曰く『断罪の種』──を出し、ついでに私の前にもグラスを置いた。
スノースタイル(グラスの縁に砂糖をつけたもの)のカクテルだ。
中身は、生クリームとカカオリキュール、そして錬金術で純度を高めた特製ブランデー。
名は『雪解けの口づけ』。
極上の甘さと、脳を溶かすようなコク。
私が甘党であることは、国家機密レベルの秘密だが、彼女だけは初日でそれを見抜いた。
「……ふう」
グラスを傾け、甘美な液体を流し込む。
至福だ。
隣で苦い薬草酒を飲んで顔をしかめている男など、視界に入れる価値もない。
「エレノア、聞いてくれ。今日、城で宰相閣下に呼び止められて……あの方の目は氷のようだった。俺は、何も悪いことはしていないはずなのに」
ギルバートが未練がましく話しかける。
……ほう?
私がいつ君を呼び止めたかな。廊下ですれ違いざまに、ゴミを見る目で一瞥しただけだが。
自意識過剰も甚だしい。
エレノアが困ったように視線を彷徨わせる。
私はグラスを置き、ゆっくりと口を開いた。
「マスター。このカカオの焙煎具合、昨日より深くないか?」
低い声で、空間を支配する。
ギルバートがビクリと肩を震わせた。
「……お気づきになりますか? 今日は湿気が多いので、香りが立ちにくいかと、少し強めに火を入れましたの」
「正解だ。この重厚さが、雨の日には丁度いい。……君の調整は、常に完璧だな」
私はギルバートを無視し、エレノアだけに微笑みかける。
二人の間に流れる、技術と信頼で結ばれた空気。
そこには、過去の感傷が入る余地などない。
「あ、あの……」
ギルバートが会話に入ろうとする。
私は彼を見ずに、独り言のように呟いた。
「良い酒には、良い飲み手が必要だ。味も分からず、ただ酔えればいいという輩には、泥水がお似合いだろう」
ギルバートの顔が赤く染まる。
だが、言い返すことはできない。
彼が飲んでいるのは、エレノアが「泥水代わり」に出した苦い酒なのだから。
「……っ」
彼は悔しげに唇を噛み、残りの酒を煽ると、逃げるように席を立った。
また明日来る、と言い残して。
扉が閉まる。
店内に、再び静寂と甘い香りが戻ってきた。
「……性格が悪いですわよ、お客様」
エレノアが呆れたように、けれど楽しげに言う。
私は残りのカクテルを飲み干し、口元の砂糖を舐め取った。
「害虫駆除も、客の務めだろう?」
彼女の瞳が、柔らかく私を映す。
この視線は、私だけのものだ。
誰にも──特にあの過去の亡霊には、指一本触れさせない。
私は空になったグラスを差し出した。
「おかわりだ。……もっと甘くてもいい」




