第5話 元婚約者はカウンターの隅で
店内の気温が、氷点下まで下がった気がした。
「エレノア……! 生きて、いたのか……!」
ギルバート様がカウンターにすがりつくように身を乗り出す。
その目は充血し、涙で潤んでいた。
感動の再会、と呼ぶには、彼は薄汚すぎたし、私は冷めすぎていた。
「お客様。その名前は捨てました。今はただのエレノアです」
私は氷をピックで砕く手を止めずに答える。
視界の端で、アレクセイ様がグラスを置く手つきがわずかに強くなるのが見えた。
背後のテーブル席にいる重鎮たちも、会話を止めてこちらを凝視している。
獲物を狙う猛獣の群れに、無防備な草食動物が迷い込んだ構図だ。
当のギルバート様は、自分の背中に突き刺さる殺気に気づいてすらいない。
それほどまでに、彼は追い詰められているらしかった。
「すまない、俺は……俺は、間違っていたんだ」
彼は一番端の席に崩れ落ちるように座った。
頭を抱え、絞り出すような声で独白を始める。
「アメリアは……あいつは、悪魔だ。毎日新しいドレスを買えと叫び、気に入らなければ皿を投げつける。騎士団の予算にまで手をつけようとして……」
知ったことではない。
私は無言でグラスを拭き続ける。
あなたが選んだ「真実の愛」の結末でしょう?
それを私に聞かせて、どうしてほしいというの。
「家は借金まみれだ。父上も母上も、お前がいた頃は良かったと嘆いている。俺も……お前が淹れてくれた茶が、造ってくれたワインが、狂おしいほど恋しい」
彼は顔を上げ、すがるような目で私を見た。
「あのワインをくれ。あの夜、お前が置いていった『奇跡の雫』を。あれを飲めば、この悪夢のような現実を忘れられるんだ」
……ああ、なるほど。
彼は私を見ているのではない。
私という「都合の良い過去」を通して、安らぎを求めているだけだ。
私は小さく息を吐き、カウンターの下から一本のボトルを取り出した。
彼が望む甘美なワインではない。
薬草を限界まで煮詰め、アルコール度数を高めた、毒のように苦いリキュールだ。
「あいにく、あのワインは非売品です。今の貴方にお出しできるのは、こちらだけ」
氷も入れず、ストレートでグラスに注ぐ。
黒に近い深緑色の液体が、とろりと揺れる。
「……これは?」
「『断罪の種』。……いえ、ただの薬草酒ですわ。良薬は口に苦し、と申します」
お帰りください、という無言のメッセージだ。
普通の神経なら、一口飲んで吐き出し、激怒して帰るだろう。
そうすれば、出入り禁止にする口実もできる。
ギルバート様は震える手でグラスを掴み、一気に煽った。
「ぐっ……ぅううう!?」
喉を押さえ、彼はむせ返る。
強烈な苦味と、焼き尽くすようなアルコールの刺激。
涙目で咳き込む彼を、私は冷ややかに見下ろした。
さあ、怒鳴りなさい。「こんなものが飲めるか」と。
「……苦い」
彼はぜえぜえと息をしながら、空になったグラスを見つめた。
「苦くて……痛い。だが、頭の中のモヤが晴れたようだ」
予想外の反応に、私は眉をひそめる。
彼は歪んだ笑みを浮かべ、私を見た。
「これが、俺への罰か。……いいだろう。この苦味が、俺の犯した罪の味だというなら、甘んじて受けよう」
……は?
何を勝手に悲劇の主人公ぶっているの。
ただの嫌がらせよ、それ。
「明日も来る。この味が、俺には必要な気がするんだ」
彼はカウンターに銀貨を数枚──明らかに足りないが、今の彼には全財産なのだろう──叩きつけ、千鳥足で店を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
私は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
厄介なことになった。
Mっ気に目覚めさせてどうするの、私。
「……おい」
低い声が掛かる。
アレクセイ様だ。
彼は不機嫌さを隠そうともせず、空になった自分のグラスを指先で弾いた。
「随分と、あの男に構うのだな」
「追い出す手間を惜しんだだけですわ」
「……ふん。酒が不味くなった」
彼はスツールから立ち上がると、無言で私を見下ろした。
その瞳の奥には、嫉妬とも独占欲ともつかない、暗い炎が見え隠れしていた。
「明日は、私の隣の席は空けておけ」
それだけ言い捨てて、彼もまた店を去っていく。
残されたのは、微妙な空気と、二人の男の残り香。
マリィがおずおずと顔を出す。
「店長……なんか、モテモテっすね?」
「塩を撒いておきなさい、マリィ。たっぷりとね」
私は深いため息と共に、シェイカーを強く握りしめた。




