第4話 噂の隠れ家と、招かれざる客の影
開店から数週間。
『Bar ノクターン』は、奇妙な進化を遂げていた。
「……それで、また南の砦で補給物資の横流しがあったとか」
「まったく、騎士団の管理体制はどうなっているんだ。上が惚けていると下まで腐る」
「まあまあ。今は忘れましょう、将軍」
カウンターに並ぶのは、仕立ての良いスーツや軍服を着崩した男たち。
彼らは国の心臓部を担う重鎮たちだ。
……たぶん。
私は彼らの肩書きを聞かないし、彼らも名乗らない。
ただ、漏れ聞こえる愚痴のスケールが「国家予算」や「国境警備」レベルなだけだ。
その中心にいるのは、最初の客であるアレクセイ様だ。
彼は今日もいつもの席──カウンターの端、私の作業が一番よく見える特等席に座り、琥珀色の液体を揺らしている。
「マスター。追加を頼む」
「かしこまりました」
私は微笑み、手元に魔力を集める。
今日のオーダーは、錬金術で樽の香りを三重に強化した『深森のハイボール』。
深い森の中で深呼吸をするような、ウッディな香りが特徴だ。
アレクセイ様が連れてきたこの客たちは、皆一様に疲れ切っている。
だが、この店でグラスを傾けている時だけは、眉間の皺が消えるのだ。
「それにしても……例の騎士団長、またやらかしたそうだな」
恰幅の良い初老の男性──仲間から「御隠居」と呼ばれているが、恐らく財務関係のトップだろう──が、ナッツを齧りながら呟いた。
私の手が、グラスを拭く動きを一瞬だけ止める。
騎士団長。ギルバート様のことだ。
「ああ。婚約破棄騒動の後、新しい婚約者の尻に敷かれて精細を欠いているとか」
「夜会での醜聞も広まっているしな。冤罪で追い出した令嬢が、実は家の事務仕事を全てこなしていたという話も聞く」
「馬鹿な男だ。逃がした魚は大きすぎたな」
男たちが嘲笑混じりにグラスを合わせる。
私は表情を鉄壁の無愛想に固定し、新しい氷を砕いた。
どうやら、私のいない実家と騎士団は、予想通りに回らなくなっているらしい。
ざまあみろ、と叫び出したいのを堪え、私は静かに口を開く。
「お客様。他人の不幸を肴にするのは、悪酔いのもとですわ」
「おっと、すまない。マスターの酒が美味すぎて、つい口が軽くなった」
アレクセイ様が、くつくつと喉の奥で笑った。
その視線が「君のことだろう?」と言いたげに私を射抜く。
この方は、どこまで察しているのやら。
平和だ。
外の世界がどれほど嵐でも、この重厚な扉の内側だけは、優雅で穏やかな時間が流れている。
私が守りたかったのは、この静寂だ。
カラン、コロン。
不意に、ドアベルが鳴った。
客たちの会話が途切れる。
この店は一見の客が迷い込むような場所ではない。
誰かが紹介したのか、それとも──。
「……いらっしゃいませ」
私は条件反射で声をかけ、そして息を呑んだ。
そこに立っていたのは、幽霊のような男だった。
無精髭が伸び、目の下にはどす黒い隈。
かつて太陽のように輝いていた金髪は脂ぎって乱れ、白い騎士服には染みがついている。
店内の空気が、一瞬で凍りついた。
カウンターの重鎮たちが、不快そうに眉をひそめる。
彼らは知っているのだ。この男が誰なのかを。
「……酒を」
男はふらつく足取りで、空いている席へ向かおうとする。
その視線が、カウンターの中にいる私と交差した。
青い瞳が、大きく見開かれる。
「……エレ、ノア?」
しわがれた声が、名前を呼んだ。
ギルバート・ライオット。
かつて私を断罪し、修道院へ送ろうとした元婚約者。
マリィが奥から飛び出してきて、私の前に立ちはだかろうとするのを、私は手で制した。
私は逃げない。
ここは私の店だ。
そして彼は、今はただの「招かれざる客」に過ぎない。
私はゆっくりと、彼に向かって一礼した。
貴族としてではなく、バーテンダーとして。
「いらっしゃいませ、お客様。……ひどい顔色ですこと」
アレクセイ様がグラスを置く音が、静寂の中で銃声のように響いた。




