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夜に咲く悪役令嬢、錬金術のカクテルで元婚約者を優雅に断罪する  作者: 九葉(くずは)


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第3話 迷い込んだ黒豹と、カクテル・ギムレット

 開店から三日が過ぎた。

 外はバケツをひっくり返したような土砂降りだ。

 路地裏の石畳を叩く雨音が、地下にあるこの店の中まで響いている。


 客は、今日もゼロだ。

 店員のマリィはカウンターの隅で、船を漕ぎながら居眠りをしている。

 私は丁寧に磨き上げたグラスを光にかざし、曇りひとつないことを確認して棚に戻した。


 静かだ。

 かつての婚約者の隣で、愛想笑いを張り付かせていた夜会とは大違い。

 この孤独すら、今の私には心地よい。


 カラン、コロン。


 不意に、ドアベルが鳴った。

 風の音と共に、湿った冷気が流れ込んでくる。

 マリィがビクッと体を震わせて飛び起きた。


「い、いらっしゃいませぇ!」


 現れたのは、一人の男だった。

 黒いロングコートはずぶ濡れで、肩から滴る水が床に染みを作っている。

 濡れた黒髪が額に張り付き、その隙間から覗く瞳は、鋭いが酷く暗い。

 まるで、手負いの黒豹のようだ。


 男は無言のまま、重い足取りでカウンターの中央に座った。

 顔色が悪い。青白いというより、土気色に近い。目の下には深い隈。

 極度の疲労と、慢性の不眠。それに伴う激しい頭痛。

 医者でなくとも、バーテンダーなら一目で分かる。


「……何か、適当に頼む」


 声は低く、掠れていた。

 選ぶ気力さえ残っていないらしい。

 メニューを出す必要はなさそうだ。


「かしこまりました」


 私は短く答え、彼から視線を外した。

 弱っている人間に、過度な関心を示すのはマナー違反だ。


 彼に必要なのは、甘い慰めではない。

 泥のように重い思考を断ち切り、ひとときの安息を与える鋭い一撃だ。


 私は氷をアイスピックで砕く。

 カーン、カーン、と硬質な音が店内に響く。男がわずかに眉を動かすが、不快そうではない。


 選んだのはジンと、ライムジュース。

 シェイカーに材料と氷を放り込む。

 ここからが、私の仕事だ。


 シェイカーを構える。指先から魔力を流し込む。


「──錬成。対象、ライム果汁。効能増幅、疲労因子の分解」


 通常のカクテルではない。

 錬金術によって、ライムに含まれるクエン酸と香気成分を極限まで活性化させ、さらに「清涼」の概念を魔力で上書きする。

 頭痛薬よりも即効性のある、飲む治療薬。


 シャカッ、シャカッ、シャカッ。


 リズミカルにシェイカーを振る。

 中の氷が踊り、液体が急速に冷やされていく。

 男がぼんやりと私の手元を見つめている。


 カクテルグラスに、淡い若草色の液体を注ぐ。

 最後に薄く切ったライムを飾り付ける。


「ギムレットです」


 スッ、とグラスを差し出す。

 余計な言葉は添えない。


 男は怪訝そうにグラスを見つめ、それからゆっくりと持ち上げた。

 一口、口に含む。


「……っ」


 男の目が、カッと見開かれた。

 驚愕。そして恍惚。

 ライムの鋭い酸味とジンの苦味が、錆びついた神経を貫き、クリアにしていく感覚。

 錬金術による急速な血行促進が、冷え切った体に熱を戻していく。


 彼は一気に半分ほど飲み、深く、長く息を吐いた。


「……信じられないな」


 男がポツリと漏らす。

 その顔からは、先ほどまでの死相が消え、理知的な光が戻っていた。


「ここ数日、頭の中に霧がかかっていたのが、嘘のように晴れた。……君は、何を入れたんだ?」

「愛情、と申し上げたいところですが。ただのライムとジンですわ」

「嘘をつけ。こんな鋭い味は、王城の晩餐会でも味わったことがない」


 王城。

 その言葉にピクリとしたが、私は表情を崩さずにグラスを拭き続けた。

 上等な生地のコート。洗練された所作。やはり、それなりの身分の人なのだろう。

 だが、今の私には「一人の疲れた客」でしかない。


「お気に召しましたか?」

「ああ。……救われた気分だ」


 男は残りの酒を飲み干すと、懐から一枚の硬貨を取り出し、カウンターに置いた。

 カチリ、と高い音がする。

 銀貨ではない。金貨だ。

 この一杯の値段の、軽く百倍はある。


「お釣りは……」

「とっておけ。その技術への対価だ」


 男は立ち上がった。

 背筋が伸び、入ってきた時とは別人のような威厳を纏っている。

 彼は出口で一度だけ振り返り、私を真っ直ぐに見た。


「また来る。……名前は?」

「エレノアと申します」

「エレノア。……覚えておく」


 扉が閉まる。

 再び静寂が戻った店内には、金貨の輝きと、微かなライムの香りだけが残されていた。


「す、すっげえ……店長、あのおっかない人、誰だったんだ?」


 マリィが怯えながら近寄ってくる。

 私は金貨を拾い上げ、小さく微笑んだ。


「さあ。ただの、酒好きの紳士でしょうね」


 雨はまだ降り続いている。

 けれど、私の心は晴れやかだった。

 私の酒は、この世界でも通用する。

 それを確信できただけで、今夜は十分だ。

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