第2話 錬金術師はシェイカーを振る
翌朝、差し込む陽光と埃っぽさで目を覚ました私は、現状を改めて認識して溜息をついた。
ここは王都の掃き溜め、裏路地の廃倉庫。
そして私は、家も婚約者も捨てた元伯爵令嬢だ。
「……さて、まずは掃除ね」
ドレスの裾をたくし上げ、腰紐で縛る。
室内を見渡す。蜘蛛の巣、割れた木箱、何かの糞。
貴族令嬢なら悲鳴を上げて気絶する惨状だが、私は腕まくりをして錬金術用のチョークを取り出した。
床に簡易的な魔法陣を描く。
本来、錬金術は物質の構成要素を理解し、再構築する学問だ。
だが、私の使い方は少し違う。
「──構成把握。対象、無機物の塵芥。分離と集積」
指先から微かな魔力を流す。
部屋中の埃がふわりと浮き上がり、一つの塊となってゴミ箱へと吸い込まれていった。
続けて、壊れたカウンターの天板に手を触れる。
「修復」
バキバキに割れていた木材が、軋む音を立てて繋がっていく。
新品同様とはいかないが、年季の入ったアンティーク風には仕上がった。
「ふう……これだけで魔力の三割を持っていかれるなんて」
額の汗を拭う。
私は戦闘向きの魔力を持っていない。繊細な制御は得意だが、出力は並以下だ。
このペースで改装していたら、店が開く前に私が干からびてしまう。
人手がいる。
それも、この薄汚い裏路地に慣れていて、口の堅い人間が。
* * *
買い出しのために裏路地を歩いていると、視線を感じた。
ゴミ捨て場の陰、古びた木箱の隙間から、ギラギラした瞳がこちらを覗いている。
茶色のボサボサ髪に、煤けた頬。
十代半ばくらいの少女だ。痩せっぽちだが、その目は死んでいない。
私は立ち止まり、抱えていた紙袋から焼き立てのパンを取り出した。
「欲しい?」
「……タダなら」
少女は警戒心丸出しで、低い声を返す。
私は小さく笑って、パンを放ってやった。
彼女は野良猫のような俊敏さでそれを空中で掴み取り、一瞬で半分を貪り食う。
「タダより高いものはない、という言葉を知っていて?」
「……何をさせたいんだよ。変なことなら、噛みつくぞ」
「人聞きが悪いわね。仕事よ。掃除と、荷運び。給金は出せないけれど、屋根と食事、それに温かいベッドなら用意できるわ」
少女の手が止まる。
彼女はパンの残りを大事そうに懐にしまうと、私を値踏みするように見上げた。
「……あんた、貴族だろ? そんな恰好して、言葉遣いも綺麗だし」
「元、よ。今はただの店主」
「ふーん。……あたしはマリィ。力仕事なら自信あるよ」
利害は一致したようだ。
こうして私は、最初の一人を手に入れた。
* * *
マリィの働きぶりは予想以上だった。
重い酒樽を軽々と運び、水回りの配管も器用に直してみせた。裏路地で生き抜く知恵なのだろう。
数日後、廃墟同然だった倉庫は、見違えるような空間に生まれ変わっていた。
壁は落ち着いたダークブラウンに塗り直し、照明は魔石ランプの光量を絞って薄暗く。
カウンターの奥には、私が持ち出した数少ない資産である、美しいグラスたちが並んでいる。
「すげえ……本当に店になっちまった」
マリィが感嘆の声を漏らす。
私はカウンターの内側に立ち、真鍮のシェイカーを手に取った。
ここからが本番だ。
「マリィ、見ていて」
私は未熟成の、安物の蒸留酒をシェイカーに注ぐ。
そこに数種類のハーブと、果実の皮を加える。
通常なら、ここから数ヶ月、あるいは数年寝かせて香りを移し、角を取る工程が必要だ。
だが、私にはこれがある。
シェイカー全体を包むように手を添え、魔力を集中させる。
「──時間短縮。成分抽出、及び、分子結合の最適化」
カッ、と掌の中で淡い紫色の光が脈打つ。
魔力が急速に吸い上げられていく感覚。頭の芯が少し痺れる。
数秒後、光が収まると同時に、芳醇な香りがふわりと漂った。
シェイカーの蓋を開け、グラスに注ぐ。
透明だった液体は、深みのある黄金色に変わっていた。
「な、なんだよそれ!? 魔法!?」
「錬金術よ。……飲んでみて」
マリィがおっかなびっくりグラスに口をつける。
瞬間、彼女の目が丸くなった。
「うっわ、美味っ! なんだこれ、甘いのにスッキリしてて、喉が熱くなって……」
「『黄昏の果実酒』。本来なら三年漬け込むところを、五秒で仕上げたわ」
私はカウンターに肘をつき、息を吐いた。
成功だ。前世の知識と、この世界の魔法の融合。
これなら、どんな高い舌を持つ客でも唸らせることができる。
ただし、問題はコストだ。
たった一杯作っただけで、軽い立ち眩みがする。
一晩に提供できるのは、せいぜい十杯か二十杯が限度だろう。
「薄利多売は無理ね。……一杯あたりの値段を、相場の十倍にしましょう」
「じゅ、十倍!? ボッタクリだろ!」
「適正価格よ。これには私の命(魔力)が削られているのだから」
メニュー表に美しい筆記体で品書きを加えていく。
種類は少なく、けれど最高品質を。
ターゲットは、金と暇を持て余し、けれど心に渇きを覚えている大人たち。
店の名前は決めてあった。
静かな夜に、心安らぐ曲を奏でるように。
「看板を出すわ。『Bar ノクターン』。……開店よ」
* * *
そして迎えた開店初日の夜。
客は、一人も来なかった。
まあ、当然だ。宣伝もしていないし、看板も目立たない路地裏なのだから。
静まり返った店内で、私とマリィはカウンターに並んで座り、賄いのクリームシチューを食べていた。
野菜の切れ端と硬い肉を煮込んだだけのものだが、湯気が心に沁みる。
「……暇だな、店長」
「静かでいいじゃない。騒がしいのは嫌いよ」
私はスプーンを運びながら、店内を眺める。
磨き上げられたグラスが、ランプの光を受けて星のように瞬いている。
外からは雨音が聞こえ始めた。
断罪された夜の喧騒が、遠い過去のように思える。
もう、誰かの顔色を窺って生きる必要はない。
売上はゼロだが、不思議と不安はなかった。
この酒の味を知れば、客は必ず来る。
そして一度来れば、二度と離れられなくなる。
「いい店ね」
「自分で言うなよ」
マリィが呆れたように笑い、私もつられて微笑んだ。
氷が解けるような、カランという音が心の中で響く。
準備は整った。
さあ、どなたでもいらっしゃい。
最高の一杯と、とびきりの安らぎを用意して待っているわ。




