最終話 悪役令嬢は夜に咲く
嵐が去った後の空気は、澄み渡っているものだ。
裏路地の隠れ家『Bar ノクターン』にも、穏やかな日常が戻ってきていた。
「店長ー、また氷がなくなりましたよー」
「はいはい、今作りますわ」
開店前の準備中、マリィの元気な声が響く。
私は製氷機代わりの銀の容器に手をかざし、錬金術を発動させた。
以前は数回使うだけで目眩がしていた魔力操作も、日々の営業のおかげか、随分と板についてきた。
「そういえば店長、聞きました? あの騎士団長サマの話」
マリィが氷を砕きながら、世間話のように切り出した。
「ええ。……北の辺境砦へ、魔獣討伐部隊長として赴任したそうね」
それは、実質的な左遷だ。
けれど、誰かに命じられたわけではなく、彼自身が志願したという。
華やかな王都の地位も、社交界も捨てて、泥と血に塗れる最前線へ。
それが、彼なりの「禊」であり、再出発なのだろう。
もう、同情も未練もない。
ただ、遠い空の下で彼が騎士としての誇りを取り戻せることを、一人の他人として願うだけだ。
「せいぜい、あっちでモテるといいなー。ここの敷居は二度と跨がせないけど」
「ふふ、手厳しいわね」
カラン、コロン。
心地よいベルの音が、開店時刻を告げた。
一番客が入ってくる。
黒いロングコートを翻し、いつもの不機嫌そうな、けれど瞳の奥だけは笑っている男性。
「いらっしゃいませ、アレクセイ様」
「……ああ」
彼は慣れた足取りでカウンターへ向かう。
そして当然のように、私の作業が一番よく見える特等席──かつて元婚約者から奪い取った席──に腰を下ろした。
「静かになったな」
「おかげさまで。……貴方が手を回してくださったのでしょう?」
私が水を向けると、彼は肩をすくめた。
「彼が泣きついてきたのでね。『自分を鍛え直したい』と。まあ、王都の空気より、北の寒風の方が頭を冷やすには丁度いいだろう」
さらりと言ってのけるが、その裏でどれだけの調整が行われたのか。
私がギルバート様と顔を合わせずに済むよう、最短で辞令を出してくれたのだ。
「ありがとうございます。……助かりました」
「礼には及ばない。言っただろう? 私の『予約』を邪魔する害虫は駆除すると」
予約。
その言葉に、私の心臓がトクリと跳ねた。
あの日、雨の中で彼が私の手に落とした口づけの熱が、蘇ってくるようだ。
アレクセイ様は頬杖をつき、楽しげに私を見上げている。
「それで? 私の席だけでなく、君自身の予約状況はどうなっているのかな、マスター」
それは、冗談めかしているようで、逃げ道を塞ぐような問いかけだった。
以前の私なら、「またご冗談を」とかわしていただろう。
けれど、今の私はもう、自分の感情から逃げたりはしない。
私はカウンターの下から、特別なボトルを取り出した。
この日のために、密かに試作していたものだ。
「……私の予約表は、今のところ白紙ですわ」
私はシェイカーに材料を入れる。
ホワイトラム、パルフェタムール、そして錬金術で抽出した「月光」のエッセンス。
「ですが、常連様への特別優待枠なら、空いております」
シャカッ、シャカッ。
シェイカーを振る音が、心音と重なる。
彼の視線が、私の指先を、表情を、熱っぽく追いかけているのを感じる。
カクテルグラスに注がれたのは、乳白色に紫が溶け込んだ、妖艶な液体。
最後に、食用花を一輪、浮かべる。
「お待たせいたしました」
グラスを滑らせる。
アレクセイ様が眉を上げた。
「これは?」
「『月下美人』。……花言葉は、『ただ一度だけ会いたくて』」
それは、夜にしか咲かない儚い花。
日陰の存在として生きることを選んだ私。
けれど、その夜に会いに来てくれる人がいるなら、私は何度でも咲くことができる。
アレクセイ様はグラスを手に取り、香りを楽しむように目を細めた。
そして、満足げに微笑む。
「一度だけでは足りないな。……私は、毎晩でも通うつもりだぞ」
「ふふ。それは困りましたわ。準備が大変ですもの」
私は微笑み返し、自分の分の小さなグラスにも酒を注いだ。
アレクセイ様がグラスを掲げる。
「乾杯しよう。君の新しい門出と……我々の夜に」
「ええ。乾杯」
チン、と澄んだ音が響く。
窓の外は、もう夜の闇に包まれている。
かつて断罪され、居場所を失った令嬢はもういない。
ここにいるのは、バーテンダーのエレノア。
愛する店と、大切な常連客に囲まれた、幸せな女主人だ。
夜はまだ始まったばかり。
私たちの物語も、きっとここからが本番なのだ。
「いらっしゃいませ。……夜はこれからですわ」
私は最高の笑顔で、彼にそう告げた。




