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淀む原風景

作者: 襖山諄也

「うわ、なっつかし」

「じいちゃんの家行くの、大樹(たいき)は何年ぶりだ? 五年くらい?」

「うん、そんくらいかな」

 思わず出た言葉に、父が返す。踏切を横断した先に、また踏切。これが祖父の家へ向かういつもの道だった。車体が線路の段差でぐわんぐわんと大きく揺れるが、それさえも強く印象に残っている。

 祖父の家へは、小学校中学年ほどまで毎年泊まりに行っていた。だが、高齢を理由にお泊りがなくなると、途端に行く機会を失った。祖父とは毎年会っていたが、どちらも祖父が車で地元まで来てくれていたのだ。

 そのため、この道を車で通ることが本当に懐かしい。助手席から望む景色に、強く感情を動かされる。奥の白みがかる山まで続く線路。くすんだガラスの中で回る理髪店の赤青白のサインポール。

「にしても、もうじいちゃんが亡くなってから三か月くらいか。それも早いもんだなあ」

「そうだねえ」

 遠巻きに霞む山々を眺める。

 祖父は今年の五月頃、一年ほどの闘病の末に静かに息を引き取った。闘病が始まったのは中学最後の部活の大会を終えたその頃だった。その後受験勉強に勤しまなければならず会える機会は激減したが、高校受験に成功したことを直接伝えられたのは一重に幸運であった。

 その上での今日。八月の焼かれるような外気温と、蒸すような湿気で通常なら着くまでにへとへとになっているだろう。その点、車の中こそクーラーが効いていて快適だが、ガラス越しに太陽光が照り付ける。こればかりはどうしようもないので、冷気を帯びた手のひらを当てて地肌を冷ます。

 祖父の家に泊まりに行っていたときも、毎年夏場真っ盛りだった。

 すでに亡くなって月日も経った今に、祖父の家に向かっている要件。それは、祖父の家の解体の最終確認だった。すでに祖父の家自体はなくなっているのだ。

「よし、そろそろだ」

 住宅街へと入り、周囲は家屋が立ち並ぶようになる。

「駐車場ってどこかにあるんだっけ?」

「一度この通りの先に行って、コインパーキングのとこに止めてかな。そこから歩いて戻ってくるかんじ」

 その時、横目に祖父の家へと通じていく小道が目に入った。

「そうそう、ここだったここだった」

 懐かしさに胸が高鳴るのを感じる。

「家の前の水路で、笹船作ってよく流してたなあ」

「そうなの?」

 父は聞いた覚えがないようで、語尾を高くして答える。それ前に言ったじゃん、と返す。

「あと、昼ご飯は必ず料理を作るっていうのもいつもやってたなあ」

「そうだったの?」

「手伝うくらいね。ってか、それも前言ってたと思うけど」

「え? 本当?」

「本当本当」

 通りの先へ行くと、スーパーやホームセンターが両脇に揃う道路へと出た。

「よし、じゃああそこに停めるか」

 父がハンドルを回し、駐車場に車を収める。そこから道路を渡り、家の方へと歩いて戻ってくる。

「大樹はどうする? 俺は最終確認でじいちゃんの家のとこ行かなくちゃいけないけど」

「あとで行こうかな。ここらへん見ていてもいい?」

「分かった。どこらへんいる?」

「それじゃあ──」

 真っ先に思いつくのは、一つしかない。

「清両寺。あそこで待ってる」

「了解」

 父は先の方へ歩いて行った。

 清両寺とは、よくここへ祖父に連れてこられてお参りをしたお寺だ。歴史ありそうな山門をくぐると一番にあるご神木。奥には古そうな本堂が見え、境内には大きな岩があった。そんなことを覚えている。他にも、隣接する林の手前にいくつもお堂が並んでいたはずだ。

 記憶のままの姿を思い描きながら、山門を正面に据えて立つ。

 茅葺の屋根には苔がぶちのように染みているさまが見え、門に使われている木材は長年雨風を耐え忍んできた証とも言える脱色が見て取れた。

 門の下を通り、日の当たるところへ入る。一瞬の日陰に残像が視界に浮き出たが、再び日の当たる場所へ出ると嘘のように消える。

 境内に入ったその時、一陣の風が優しく頬を撫でていった。真夏のために熱気を帯びた風は心地よいものではなかったが、それと同時に澄んだ高音が耳に響いた。その音の下をふと探す。

 入って左側、杉林が影を落とすお堂たち。参道らしき道とは平石を敷いた簡素で短いが、お堂自体は山門と同じ年代のように目に映る。

 その中の一つに、それを見つけた。両側を大きめのお堂に挟まれ、相対的に小さく見える祠。子育て地蔵尊、とのことらしい。参道の両脇にはためくのぼりに、赤地に白文字でそう書かれてある。中心に大きなお地蔵様、左右に控えるように小さなお地蔵様が一人ずつ。その全員が赤い帽子とよだれかけを身に付けている。

 網掛のような模様の屋根の軒先に、空のような水色の風鈴が風に揺れている。グラスの縁を氷が転がるような、涼やかな音を伴っている。

 こんなものもあったんだ。夏のお泊まりの時には必ずと言ってもいいほどこの寺に足を運んだが、初めて気が付いた。

 向き直って、視界一杯にお寺を捉える。清両寺は、見事に変わってしまっていた。

 入って正面の重く枝がしなるご神木はばっさりとなくなり、そこには切り株だけが残っている。奥に鎮座する本堂も割ったばかりの薪のような壁をしており、太陽光を受けて黒く光る瓦が屋根を覆っている。

 それだけではなかった。山門から伸びる歩道以外の場所を芝生が覆っている中、歩道から外れていながら島のように浮かぶ土の表面が露呈しているところがあった。そこには見覚えがある。わずかに沈むそこが、かつて大きな岩があった場所だった。

 ここへは祖父に連れられて手を合わせるようよく言われたものだった。今思うと普通は立ち並ぶお堂や祠に手を合わせるところだが、なぜこの岩へお参りをしていたのだろう。

 ともかく、それが今やもうない。変わってしまったお寺の様子に物寂しさが冷たく吹き付ける。たった一人だけの広い境内を持て余す。

 もうそろそろ祖父の家の方に向かわなくてはならない。しかし、清両寺の変貌にここまで動揺をするなら、祖父の家の跡を見たらどうなるのだろう。予め聞いていたとはいえ、その衝撃はどれほどのものなのか測り切れない。

 最後なんだし。せっかくだから。その気持ちでここへ来て変わり様を目の当たりにするくらいなら、元々来ない方がよかったかもしれない。勝手に来て勝手にショックを受ける自分を、どうしようもないやつとどこか冷めた視点から考えてしまう。

 次の瞬間、つい先ほどまで風に揺れていた風鈴の音がぴたりと止んだ。当たり前に鳴っていたものがふとなくなる。その不足感に辺りを見回すと、女の子の姿が視界に入った。

 先ほどまで鳴っていた風鈴の音を止めたのは彼女のようで、風鈴の短冊を握っている。

 目が合った。というより、その少女はすでにこちらを見つめていた。自分の存在を知らしめるために、敢えて風鈴の短冊を抑えたように思えた。



「こんにちは」

 視線が互いに交差すると、女の子は挨拶しつつ駆け寄ってきた。

 日の光を受けるその顔は可愛らしさと美しさの両方が感じられ、成長のまさにその過程にあるようだった。見たところ中学生ほどの年齢か。

 裾は海、胸元は空、首元は雲のように、青から白のなだらかなグラデーションが層を成して、ワンピースを形作る。

 見開いた黒い瞳は光を集めているように大きく、輝きを宿している。

 日の光を受けて真っ黒に光る短い髪。それがつむじの辺りで一つに束ねられ、先端一本一本が身を捩るように広がる。

「こんちは」

「ここらへんの人ですか?」

 肩ほどの高さから見上げるようにして問いかけられる。

「いや、県外から。ちょっとここらへんに用事があって」

「そうでしたか。では、昔はここに住んでたりとかは?」

「住んでたわけじゃないんだけど。ここの裏にじいちゃんの家があって、そこに夏に泊まりに来てたぐらい。でも、どうしてそれを?」

「昔あそこに岩があったところに立ってたので。その前に立ってるってことは、前に来た事あるのかなー、って勝手に思ってました。でも、それならご近所さんだ」

 その言葉を聞いて岩は確かにあったのだ、と心のどこかで安心した。

「名前、聞いてもいいですか?」

「笠間大樹って言います」

 改めて聞かれ、思わず丁寧口調で答える。

「え? なるほど、あなたが」

 その女の子は納得したような声を上げて、視線を自分に固定して離さない。

「もしかして前に会ってたりする? 記憶力あんましよくなくって。俺も名前聞いてもいい?」

水鏡(みずか)、って言います」

 聞き覚えがない。精一杯思い出そうとするが、そもそも名前も初めて聞いたものであれば、姿も見たことがない。思い出せず眉間に皺でも寄ったのか、彼女がすぐさま弁解する。

「ああ、いえ。私から会ったことはないです。それに、名前を耳にしたことがある程度で。じゃあ今日はおじいさんを訪ねてきたかんじですか?」

「ああ、いや。じいちゃんの家はもう取り壊されてて。その解体の最終確認についてきただけ」

「あ、それはすみません」

 手を振っていいよ、と答えるとしばしの沈黙がすり抜けていった。

「懐かしいですか?」

「うん、そうだね。でも、あそこにあった岩みたいに変わっちゃったものも多くて寂しいな。じいちゃんの家ももうないし」

 水鏡の質問に、率直な自分の気持ちを語る。

 すると、水鏡は一つ、不思議なことを聞いてきた。

「それなら、見に行きますか?」

 その言葉を聞いたとき、何を指しているのかが分からなかった。

「え? どこに?」

「おじいさんの家です」

 さも当然のように水鏡は言うが、その真意を測りかねて考え込む。

「取り壊される前のおじいさんの家にですよ」

 顔に出てしまっていたのか、水鏡が言葉を付け足す。それでも完全に理解したわけではない。だが、気にならないわけではなかった。

 最後なんだし、せっかくだから。

「まあ、行けるんなら行ってみたいけど……」

「行ってみたい、ですか」

 水鏡は、憂うように視線を下に落とした。自分で聞いておきながら、とも思ったが、それは一瞬であった。

「それじゃあ、早速行っちゃいましょうか」

 本当に行けてしまいそうな口ぶりで、水鏡が軽く答える。こっちですよ、と導かれるがままについていく。どうなるのか不安なところではあったが、好奇心が足取りを軽くしていたのは間違いない。

 だが、真っ先に向かいだした方向に早速疑念が湧く。

「林の中通ってくの? それなら一回お寺から出て回って行った方が──」

「いえいえ。こっちの方がいいんです。それに、一度出てから行くより早いでしょう?」

 水鏡は意にも介さないといった具合に木々の間を分け入って一歩を踏み出した。

 お寺の裏には杉林があった。幹の一本一本の間隔は狭く、高校生となった今ここを通って行くのには相当苦労するだろうことが容易に予想できた。

 そんな所狭しと並ぶ杉の木の間を水鏡が縫うように進んで行く。その後ろを、体を捻じらせながら、時に枝にぶつかりながら前へと進む。杉の落ち葉が堆積した地面はふかふかと柔らかいがために、繰り出す一歩が沈んで重い。

 ようやく木々の隙間から先の明かりが見えてきた時、前を進む水鏡との間が開いた。彼女は大きく一歩を踏み出したようだった。

「足元に気を付けて下さいね」

 差し出された手の下に、水路が走っている。手を取り、その上を大股の一歩で対岸へと渡る。

「はい、到着です」

 お寺の林を抜けて来たということは。わずかな思考の末、右の方を見やる。

 そこにあったのは、祖父の家だった。手すりもなく切り立った数段の階段を上ると寒冷地によくある二重玄関。元々は白かった外壁がくすみ、灰色とまではいかないもののグレーがかった白色。

 思い出通りの姿をそのままに、祖父の家があった。

「なんでじいちゃんの家が……?」

 祖父の家はつい最近、一か月ほど前から取り壊しが始まっていたはずだ。今日はその取り壊しの最終確認のために出向いたと父から確かに聞いている。

 そのはずが更地になっていることはおろか、祖父の家があの時のままの状態で残っている。

「ここにあった家は一か月前に取り壊されました」

 答えを求めて口にしたつもりではなかったが、隣に立つ水鏡が応じた。

「ここは、記憶の吹き溜まり。大樹さんの記憶を再現した場所」

 水鏡がそう言った。

「記憶の再現……」

 そう言われて周囲をぐるりと見回す。

 淡く輪郭を残す当時の思い出を映し出したように、景色と記憶が重なり合う。

 抜けて来た林はお寺への近道で、小さい頃に駆け回っていた。飛び越えた水路もドジョウ取りをして久しい。

「さっ、いろいろ見てみて下さい」

 手を広げ、行ってみるよう促される。

 その言葉に倣い、爪先立ちをしたり、しゃがんで見上げたり。表の路地から全体を俯瞰もすれば、水路の細い縁を摺り足で進んで間近から見つめることも。

 一周ぐるりと見回す。やはり、あの頃の祖父の家だ。

 いきなりのことに面食らってはいるが、これは思ってもみない好機だった。祖父が亡くなりお墓も地元のお寺となった今、ここと自分とをつなぎとめていたものはなくなってしまった。その最後となる今日、懐かしいものを見聞きして遠い昔の夢のように淡い思い出を確かにあったと意識に残したかったのだ。

 だが、現実はそのままの姿を保っているわけではなく、境内は大きく変わっていた。それを思うと祖父の家の変わり様を受け入れられるものか、と不安に思っていたところにこれだ。うれしくてたまらなかった。

 元の林を抜けた場所に戻ってくると、水鏡が待っていた。

「中はどうですか?」

「中? 入っていいの?」

「もちろん。ほら、どうぞ」

 聞いた質問に対して自信満々の回答が返ってくる。

 その言葉を聞き、インターホンの前に立つ。

 ピン、ポーン。押すと音が鳴り、指を離すとその音が伸びやかに尾を引く。

 その時、強烈な感情が心を揺さぶった。

 聞こえたのは、喉でくぐもった息を口で伸びやかに発するような低く穏やかな声。そして、パタパタと廊下を走る音。

 格子のようなドアの合間、くすんだデザインのガラスの奥に人影が見える。扉の持ち手に手が伸びたシルエットが見え、戸が横へ、ガタガタと揺れながら引かれていく。

「おお、大樹。いらっしゃい」

 祖父がそこにいた。



「記憶の反映される場所ですよ」

 肩の高さから水鏡の声が聞こえた。突然のことに面食らってしまい、立ち尽くしていたことを自覚する。

「場所だけじゃなくて人も?」

「はい、もちろんです。さ、入って入って」

 水鏡に背中を押され中に入ると、懐かしさに溢れる光景が広がっていた。

 土間と床の間の膝を持ち上げなければ上がれないほどの異様な開き。玄関脇の出窓に置かれた、二匹の金魚が泳ぐ水槽。ここから目に入る情報だけでも、あまりにも懐かしい。

 靴を脱ぎ、揃えたところで水鏡に声を掛けられる。

「それじゃあ、私はここで待ってますから」

「水鏡はいいの?」

「私が行っても大樹さんの邪魔になるし、いくら役目と言ってもプライベートを覗き見るわけにはいかないので。せっかくここへ来たんですし、昔の思い出に浸って下さい」

「別にいいのに」

「お構いなく。ほら、行ってらっしゃい」

 促されるままに玄関へと入り、靴を脱ぐ。

 家に上がってすぐの茶の間にまずは入る。すると、これまたどこを見ても懐かしさから目を逸らせないほど、郷愁を誘う景色が視界一杯を埋め尽くす。

 三分早く音が鳴りだす掛け時計。いつも何かしらの番組が流れているテレビ。その他にも、入ってきたクマバチを祖父が勇敢に退治したハエ叩き、水面を睨みつけるカワセミが描かれた水墨画の襖や、せんべいとバウムクーヘンでこんもりの菓子鉢までそのままだった。

「うわ、なっつかし」

 思わず口をついて懐古の言葉が出る。

 他の部屋はどうなっているんだろう。茶の間でゆったりとするのもいいが、まずは家全体がどうなっていたかを見ておきたい。

「じいちゃん」

「んん?」

 祖父に話しかける時には、まず呼んでから返事をもらってから話し始める。久々の祖父との会話でも、無意識のうちに気を付けていたことに気が付く。

「家の中、見て回って来てもいい?」

 何の気はなしに、茶の間をぐるりと見回しながら聞いたこと。だが、返事がない。

「部屋、見て来ていいー?」

 襖を開け、祖父に届くよう言い直す。

 なおも返事はない。台所側の襖が開けられていないにしても、聞こえているはずなのに。他の部屋へ行ったのか。

 ともかく、祖父なら許してくれるだろう。そう踏んで、茶の間から玄関側の廊下へ出る。

 まず向かったのが、風呂場だった。実物と記憶の照らし合わせがいらないほど、記憶のままの浴室だった。タイルを敷き詰めた床は、アナログの滑らかな連続性を感じさせるような濃淡に染まる、青や白の色をしていた。

 風呂に入る時には夏という季節もあってか、隣の畑からカエルの大合唱が丸聞こえだった。シャワーで頭を流し終え、手のひらで顔を拭うと聞こえ始めることがなぜだか印象に残っている。祖父は鬱陶しく思っていたようだったが、これが非日常を感じさせる一つの決め手で、毎年これを聞くと祖父の家に泊まりに来たのだ、と強く思うものとなっていた。

 次に向かったのは二階だった。それには階段を上っていく。これが小さい頃は怖くてたまらなかった。祖父の家の階段は奥の板がない階段だったのだ。そのため、昇れば昇るほど、階段の隙間から遠ざかっていく一階の床が見えるのだ。万が一足を滑らせてこの間から落ちてしまったら。それが怖く、下りる時は体ごと足を横に向けて、片足で一段ずつ降りていたことを覚えている。それが今は懐かしいと思えるほど、手すりを掴むことなくずんずんと上がっていく。

 二階には二部屋あり、そのうちの一部屋は夏のお泊りで寝た部屋だった。そこのドアを開けると、優しく陽の光が差し込んでいた。朝一番に浴びた陽光と変わらない柔らかな光が部屋を満たしている。さらに部屋の傍らには、三つ折りされた敷布団、薄手の掛け布団、小さめの枕が重ねられていた。今日は泊まりに来たのかと思ってしまうほどに、そのままの部屋だった。

 懐かしさに浸りながら、隣の部屋も見てみる。ドアノブを下げ、押し込む。そこで、違和感を覚えた。

 ぼやけていて何も見えない。

 寝泊りした部屋と同じく日差しが入ってきているようだが、部屋を覆う隠すようにドアの形のぼやけがあって部屋の先を見通すことができないのだ。

 自分の目を疑った。何か入ったのか、と目元を擦って顔を上げるも、ぼやけたままだった。

 この先はどうなっているのだろう。好奇心に駆られ、手を差し出す。

 指の腹をぼやけに当てる。だが、輪郭が判然としないために今本当に触っているのか、触れているのかが分からない。力を込めて押すが、中へは入れない。どうしようもできない。不可解な点は残るも、二階全てを見終えたので下へ降りる。

 台所へ行くと、祖父が夕食の支度をしていた。台所はお世辞にも綺麗とは言えなかった。汚れているというわけではないが、物で溢れかえっていたのだ。箸やスプーンは分かるが、ハンコに新聞、電話の子機や歯ブラシなど、およそ料理には使わないものでいっぱいだった。

 それぞれがあるべきところに置いた方が効率がいいと思えたのだが、祖父はこの配置が気に入っていたようだった。

 そこで祖父は小気味よく包丁をまな板に下ろしていた。その様子を、台所につながる廊下に立って真横から見つめる。

「おお、大樹」

 祖父も気付いて声を掛ける。

「何作ってんの?」

「キャベツの千切り。あとで大樹は盛り付け頼むな」

「はーい」

 祖父の作る食卓にはよく千切りキャベツが並んだ。それが店で出てくるような細切りで、見るたびに新鮮に驚いていたことを覚えている。

 その時、ふと祖父の手つきから目を離すとある物が目に入った。

 それと同時に祖父が思い出したように言う。

「おっと、そうだ。大樹の身長測んなくっちゃ」

 そう言うと祖父は包丁を置いて手を洗い、拭いてからある物を手に取った。竹定規と赤色のマジックペンだ。それは、ちょうど先ほど目に留まったものだった。

「うわ、懐かしいな。伸びてるかな」

 祖父の家へ来ると、決まって身長計測をしていた。冷蔵庫隣の柱に身を預ける。そこには、チラシ裏の無地の紙がセロハンテープでぺたぺたと張られていた。裏紙には横に引かれた棒線がいくつかあり、その隣には身長と年齢が書かれてある。

「はいはい、ちょっと立ってて……」

 祖父が竹定規を脇に挟み、マジックのペン先のキャップを取って後ろに付ける。

 頭上をマジックが過ぎていく。そう思っていた。

「おお、伸びたなあ」

 祖父がそう感慨深く言う。

 そこで、またしても奇妙なことを目の当たりにした。

 マジックが紙を擦りながら滑っていったのは、肩あたりだった。

 祖父の引く線が身体にのめり込むようにして描かれる。祖父が線の高さで手のひらを水平にし、往復させて自分の背丈と比べているが、その手が俺の身体を透かして伸びている。

 驚いて目を見張る。

 え、と何度も口に出るが、祖父は別段変わりない様子だった。

 祖父は床に竹定規を立てて上端に指を当て、それから定規を上へ移動させてその指に下端を合わせることを数度繰り返した。

「二、三、四と……だから、一四二センチってところか。うーん、伸びたなあ」

 よし、と棒線の隣にペン先を当てた。

「大樹、と。十……十いくつだっけ」

 動揺しながらも、言葉を探す。

「今年? 今年で十五──」

「そうか、十歳か。早いなあ」

 祖父はしみじみと呟いてから、うねる字を紙に書いた。

 答える隙も無く、祖父の会話が進む。こちらの回答など最初から聞いていないようだった。

 そして、今度は柱に顔を埋めるように真正面から向き合いながら、青色のマジックを滑らせた。

「ありゃ、大樹も伸びたけど俺も縮んでんなあ」

 柱から離れ、若干見上げる形で身長差に直面している。

「あの、じいちゃん──」

「いやあ、俺はこれから縮んでくだけだから。大樹がうらやましいよ」

 下に向けられた祖父の視線の先に、自分はいなかった。

「あ、大樹さん。もういいんですか?」

「いや、まだもう少しいたいんだけど、ちょっとね」

 二重玄関を出て階段を下り、水鏡の隣に並ぶ。

 水鏡は寺の裏林に生える笹の葉をちぎって、手持無沙汰そうに弄んでいた。

「あの、水鏡。なんかさっきからじいちゃんの様子が変というか、違和感があるっていうか。会話が噛み合わないんだけど」

「それは記憶の世界だからですね」

 水鏡が立ちあがって向き直る。

「おじいさんが会話を始めた時、何か目に入ったものはありませんでしたか?」

 竹定規と、赤のマジックペン。

「ああ、うん。あった」

「やっぱり。それは、エピソードとしての記憶が残っていたからです」

 水鏡は身振りを交えて語った。

「物が昔のままを保つように、ここでは人も記憶のままの姿で現れます。ですが、物と人とで決定的に異なることがあります。それが、エピソードとしての記憶を持っていること。物はあるなしという二極化した記憶しかありません。ですが、人はコミュニケーションの記憶を同時に持っています。何かのきっかけで想起した時、それがトリガーとなって映像が再生されるように世界に現れます。おそらく、大樹さんが見たのはそれでしょう。人とのエピソードは、記憶を持つ当人は介在ができないですから」

「えっと──」

「まあ要するに、おじいさんとの思い出が変わらずにそこにあったということです」

「なるほど……」

 噛み砕いた説明で全体像は理解したつもりだが、おそらく確認のためとして改めて聞かれても答えることはできないだろう。それほど様々なことが起こり過ぎていて、混乱していた。

「そういえば、他に何かおかしいと思うようなことはありませんでした?」

 水鏡に問いかけられ、何かあったかと首を傾げる。そこで、はっと一つ思い出した。

「あ、そうそう。二階の部屋に入ろうとしたら、ドアを開けた先がなんかもやっとしててさ。手を伸ばしても入れなくって」

「そのぼやけ、他のところにはありませんでしたか?」

「他のところ?」

 復唱に水鏡が頷き、頬に手を当てて再度考え込む。

「いや、ないかな。うん、ない」

「そうですか」

 水鏡はそう答えると、顎を下から拳で支えた。ないよな、と若干言葉に自信がなくなってきたところで、水鏡が続ける。

「それなら、家にある懐かしいものをじっくりと見てみて下さい。そうすれば、分かるはずです」

「何を?」

 水鏡は諦めたような、ぎこちない笑みを顔に張り付けた。

「記憶はどこまで行っても単なる記憶、ってことをです」



 祖父は夕飯の支度を終えてくつろいでいるところらしかった。

「おお、大樹。好きな番組見ていいよ」

 茶の間へ行くと、ブラウン管テレビが映像に伴ってガサガサと画面の奥で何かを擦るような音を発していた。画面を何の気はなしに見つめていたところに、そう言ってリモコンを手渡される。祖父はよくこうしてテレビの主導権を渡してくれた。祖父の家では出かける時と寝る時以外はテレビを点けたままだった。映像と音があれば何でもいいのかもしれない。ふとそう思った。

 一応リモコンを受け取りはしたが昔からテレビっ子というわけではないので、正直どこの番組でも変わらなかった。祖父の家に来たのなら、テレビを見て時間を過ごすより、いろいろなところを見て回りたい。泊まりに来るたびにそう思っていた。

 その時、ふと水鏡の言葉を思い出した。じっくりと見る。それが何を意味するのかを試してみようと思った。音声しか聞いていなかった、それも聞き流す程度だったテレビの画面を注視する。

 異変は、すぐに起こった。

 テレビの裏から湧いて出てくるように、ぼやけが集まってくる。二階の部屋で見たものと同じだ。そう思っているとその曇りはテレビの液晶を周囲から覆い、ついには画面全体を飲み込んでしまった。

 えっ、と驚きの言葉が口からついて出る。腰を浮かせてすぐに動ける体勢を咄嗟にとる。だが、ぼやけは画面を覆ったきり他のものへ波及することなく、液晶に留まっていた。そして、環境音のように祖父の家に溶け込んでいたテレビの音声はぼやけが蔓延すると同時に、耳に入らなくなっていた。渡された後すぐにテーブルに置いていたリモコンを手に取り、チャンネルを忙しなく切り替える。だが、どこも同じだった。もやが被さって何も見えない。分からない。

 どういうことかが分からず、他のものはどうかと目を向ける。

 一番に目に入ったのは、長押なげしに掛けられた古時計だった。一目見たところ、これにはおかしな点はない。テレビだけなのか。そう思ったついでに、と時間を確認しようとする。

 目を細めた矢先、隠すように文字盤をくすみが囲った。時刻が分からないどころか、どんな装飾をしていたかすら思い出せない。ただ白のような銀のような、曖昧な色がぼやけ越しに確認できた。

 これはおかしい。一度部屋を見回す。今度は注視ではなく、俯瞰する程度で。

 すると、ぼやけがどこからともなくやってくるのは収まるようだった。先ほどのテレビにも覆っていたもやは消えている。

 だが、やはり何かを一点に見つめていると曇りは次第に対象を隠していく。そのようだった。

 水鏡の言っていた、他のところに現れるぼやけ。これに違いない、と思って一度外へと出る。

「水鏡、なんかぼやけが……」

「ああ、見てみたんですね」

 水鏡がしゃがんだまま、顔だけ上げて応じる。水路の下流に、また一つ笹船が流れて行った。

「ねえ、あのぼやけって……?」

 そう聞かずにはいられなかった。すると、水鏡は立ち上がって向き直り、じっとこちらを見つめた。

「あれは、大樹さんの記憶に残らないものを覆い隠すんです」

 そう言うと、一拍の間を置いてから彼女は続けた。

「二階の部屋がぼやけのせいで入れない、って言ってましたよね? それは記憶を映し出すこの場所では、思い出にない場所はどうやっても実体として浮かび上がらせられないからなんです。だから、その部屋には入ったことがないか、部屋の中を忘れてしまったかってところですかね」

 淡々と水鏡が言う。そうだ、あの部屋は存在こそ知っていたものの、入ったことはない。彼女の言う通りだった。

「じゃあ、その──部屋の中のものをじっと見つめた時に、ぼやけが出てくるのはなんで? 覚えているはずなんだけど」

 重ねて問いかけると、水鏡はそうですね、と一瞬黙り込んでからそれじゃあ、と言って聞き返した。

「例えば、部屋で見たものでぼやけが出てきたものに何がありましたか?」

「テレビ、とか」

「じゃあテレビで。大樹さんがおじいさんの家でまじまじと番組を視聴したこと、今振り返ってみてありますか?」

 手のひらを頬に当てて考え込もうとするが、その必要はなかった。それほど、祖父の家で注意を割いて真剣にテレビを見たことはない。

「うーん、ないな……」

「なるほど。じゃあ、他にぼやけてたものはありました?」

「掛け時計にもぼやけがこう、バッ、って」

 その異様さを言葉だけでなく身振りで伝えようとするが、どうしても滑稽さが前面に押し出される。だが、水鏡には意思が通じているらしく、一切笑うことなく応じる。

「それもです。おそらく大樹さんは時計があるということは覚えていますが、それがどんなだったかを詳しくは覚えてはいないからですね」

「そういえば、ぼやけがかかっても色は分かったんだけど、これは色味は覚えていたからってこと?」

「そういうことになります。ともかく、有り体に言えば細部までの記憶に残っていない、ということです」

 優し気な口ぶりに反して、内容は冷徹なものだった。

「ここは記憶の世界。大樹さん自身の記憶を反映する場所。そう言いました。私は脚色も、卑下もしていません。本当に、ただ単に記憶が張り付けられた場所なんです。だから、記憶に残っている以外は何物もないんです。ある程度のことは覚えてはいても、時が経れば細かいところは忘れてしまう。あったということは覚えていても、どんなかは思い出せない。いずれは風化し、ぼやけに覆われてしまう」

 頭の中で反響する水鏡の言葉に呼応するように思案に暮れていると、彼女が口を開く。

「あの、大樹さん」

 その言葉は、実に残酷なものだった。

「おじいさんの顔、じっくりと見ていないですよね?」



「おお、大樹。家の前いたのか」

 家から出てきた。

「また何かがトリガーになったみたいですね」

 水鏡が言う。

 二重玄関の扉を開け、階段をゆっくりと下って隣に並ぶ。その顔を見ることはできなかった。

「なに? 笹船の折り方? もちろん。まず、笹の葉を一枚とって──」

 どうやらエピソードとしての記憶の再生が始まったきっかけは、笹の葉がちらっと目に入ったことのようだった。

 腕が延び、一枚の葉を掴む。枝がしなって中々ちぎれないのを、手首を捻ってぶちりと取り上げる。笹が反動で上に揺れ、ガサガサと葉が擦れ合う音がする。

「んで、そしたら──」

 言葉が続かない。不思議に思い、隣を見る。

「これも、です」

 背後から水鏡の声がする。振り返る必要はなかった。彼女の言う意味が目の前に差し出された手に現れている。

 笹の葉を折る手つき。それが、ぼやけに覆われていて、何をしているかが一切分からない。

「これは……覚えていないから?」

「はい、そうなります」

 問いかけると、水鏡がすぐに答える。声色から感情は読み取れなかった。

 隣から何かを言われているようで口を動かしているが、それも聞こえない。

「よし。できた。じゃあ、流してみようか」

 人影がしゃがみ込み、笹舟を水路へ下ろす。

「あ、転覆しちった。でも大樹のはいいかんじだ。ほら、どんどん進んでく。あー、でもあそこから流れ速くなっからな。いけるか、いけるか、ああー……ま、しょうがないな。じゃあ、家ん中入ろう。もう夕飯できてっから」

 その姿が自分をすり抜け、水路の途中まで小走りで過ぎていく。

 そして、虚空に手を伸ばして部屋へと戻っていった。

「……忘れてたなあ。笹船の折り方。長らく作ってないもんなあ」

 こぼすように口にする。

 小さい頃、祖父の家に泊まりに行くたびに決まってしていたことがあった。それが、笹船を作って隣の水路に流していくことだった。

 水路脇に生える笹の葉を取れば、あとは折るだけで手軽に作ることができる。そして、それを流すのがまた面白かった。

 折り方が悪ければ、水流に揉まれ分解されてしまう。白波が立つ流れの強いところにうっかり入ってしまったら、綺麗に折れたとしても遭えなく転覆。

 それを乗り越え、通りの下の暗がりを抜けた先の下流へと逞しく下っていった時。流れ全てが味方になってくれたようで、笹船が見えなくなっても川をぼんやりと見つめた。それが大好きだった。

 だが、今やその折り方すらすっかり忘れ、なきものとなってしまっていた。

 寂しいことはもちろんなのだが、妙に納得する心持ちも確かにある。祖父との思い出は心の内のどこかにあって、それは日常とは隔離された特別なものと思っていた。だが、それは記憶という特性上何ら変わりはなく、同じように思い出しもすれば、忘れもする。至極当たり前のことが、これだけは違うと思い続けてきた。しかし、ただ単に信じ続けてきただけなのかもしれない。

 すると、水鏡が自分の隣へひょいと移動し、笹の葉をちぎる。

「まず、片方の端をちょっと折って。ほら、大樹さんも」

 促され、一枚の葉っぱをもいで取る。青々とした立派な笹の葉だ。

「そして、切れ目を縦に均等に二つ入れます。ちょっと深めの方が後々やりやすいですよ」

 指先で紙を破るように切れ込みを入れる。葉は重なっていて厚いが、繊維に従っているため、ぴりっと簡単に切れる。

「そしたら、三つの山ができましたよね? その端っこの二つの山のうちどちらかを、もう一方の山の重なる間に挟み込みます……あ、真ん中の山の上で。そうそう」

 固まってひそひそと話し合い、笹船の作り方を教わる。

「で、もう片方も同じようにやったら……はい、完成」

 水鏡の方が一足先に出来上がった。それに続き、自分の笹船も完成する。

「そうだったなあ。こんな作り方してたなあ……」

 感慨深くそう口にする。言われたら思い出す。しかし、覚えていたら祖父の器用な手捌きを見れていたのだろう。そう思うと機会をみすみす逃したような、もったいなさに駆られる。

 船底のカーブは浅く、舟は舟でも波には耐えられなさそうなフォルムをしていた。

「久々だから、不格好な船に仕上がっちゃったな……」

「まあ、これで折り方は分かったんですから、次からですよ」

 水鏡は最後まで手に舟を乗せて、水路に笹船を流した。水鏡の船は、白波の立つ急な流れに飲み込まれ、転覆してしまった。水鏡はそれを見ても特段表情を動かすことはしなかった。

「大樹さんは今はショックを受けているかもしれないですけど、やっぱり忘れるものは忘れてしまうんです」

 水鏡がそう前置いたので、彼女の顔に視線を向ける。水鏡は目の前を流れる水路をじっと見つめていたために、目は合わない。

「私が大樹さんをここへ誘ったことも、偶然のことじゃないんです。私は記憶に固執する人をここへ呼び、記憶のありのままの姿を見せる。そして、記憶がいかに不安定なもので、縋って人生を歩んでいくには頼りないかを示す役割があるんです」

 嫌な役回りですよ、と水鏡がこぼす。ここまでやってのけていたことで水鏡が何か別の場所に生きる人とは思っていたが、的中していた。同時に、その背景を聞いて一つ単純な質問が浮かんだ。

「他の人はどんな反応をしてたの?」

「まあ、様々です。ここをきっかけに前を向いて歩いて行く人もいれば、記憶のままの場所を見て感激する人もいますし。失敗して、その人が記憶に閉じこもりそうになることもあります。だから、それで言うと大樹さんはショック療法みたいになっちゃいましたね。すみません」

「うん……今は混乱してるけど、そのままってわけにはいかないよな。俺も変わっていかなくちゃなあ」

 水鏡は適当な言葉が見つからないのか、黙りこくった。だが、すぐに立ち上がって誰に向けて話しているわけでもないようなことを口にした。

「どんなに大切な記憶でもいずれ記憶から風化する時が来るかもしれないし、自分の中で曲解されてしまうことが起きないとは言えません。だから、これで納得できるかは分からないですけど」

 彼女はようやくこちらを向いた。

「記憶なんて、そんなもんです。それが記憶の摂理なんです。それに──」

 不自然な一拍の間に、水の流れを見つめていた視線を持ち上げる。水鏡は、どこか不満げな表情をしていた。口への字に結び、大きな瞳を彼女の意思で細めているように見えた。

「今はそうだとは思えないかもしれないですけど、実は記憶の不確かさは大樹さんがここへ来る前から現れているんですよ」

「すでに?」

 聞き返すも、ぷいと目を逸らして水路に流れる水を見つめた。

「さあ。それよりもほら。大樹さんも流さないと」

「うん? ああ──」

 その言葉に従うように、しゃがみ込もうとする。

 次の瞬間、水鏡が声を上げた。

「あっ、待って。誰か来てる」

 水鏡がいきなり立ち上がった。流れて行った笹船の行方などそれどころではないと言いたげに、林の方を一点に見つめている。

「誰か?」

「大樹さん、こっち」

 咄嗟に呼ばれ、反応する間もなく腕を掴まれて林の中へ引き込まれていく。来る時は鬱蒼と枝が交差する中をどうにかこうにか避けてきたものを、なぜか帰る今は木々がぶつかることなく、一瞬のうちに背後に消えていく。

「何かあったの──」

「時間切れです。私、こうして記憶のありのままを見せてしまうのは本当に億劫で、嫌な役目なんて思うこともいっぱいありましたけど」

 前を走る水鏡が振り返って微笑む。

「やっぱり、子の成長に勝る喜びはないですね」

 すると、前の方に光が見えた。林の終わりが近づいているようだった。水鏡が光の先を見つめ、独り言のように呟く。

「もしここへまた来ることがあったら……あったら、ですよ。その時は思い出は思い出す程度にして、行ったことのない場所にも行ってみてください。約束ですよ」



 はっと顔を上げる。

 林を抜けてすぐ、そこから祖父の家、台所、水鏡、茶の間、笹船、と今まで見聞きして感じてきたことは万華鏡で覗いていただけのような、間延びした風景が心に残る。

 いつの間にか合掌していたようだった。合わせていた手を解き、ここがどこかを確認する。

 目の前に、子育て地蔵尊。そう書かれた木札があった。後ろを右、左と忙しなく振り返る。木札と同じ文字が、赤地の布に白く印字されていた。

 そうだ。父とともに来て、このお寺へ来るのもほぼ最後となるだろう。そう思ってお参りをしたんだった。だが、それは昔あそこにあった岩の前で──

「おお、大樹。ここいたのか」

 呼び掛けられ、声の下を振り向くと父がいた。

「確認もこれで終わったし、大樹もじいちゃんちの跡見てから帰ろう。おっと、懐かしいなあ。ここのお地蔵さんも」

 父が自分のすぐ横を通って、子育て地蔵尊の前にしゃがみ込み、手を合わせる。

「こうして俺も大樹も、親父に連れられてここへよくお参りに来たなあ」

 懐かし気に口にする。だが、その言葉には違和感があった。

「え? ここに? あそこにあった岩じゃないの?」

「岩じゃないよ。そっちじゃなくて子育て地蔵尊。だってほら、子育て、でしょ?」

 記憶なんて、そんなもんです。彼女の言葉が頭をよぎる。

 水鏡。水鏡はどこに行ったのだろう。

 思い出したように再び周囲を見渡すが、姿はない。確かに林を抜けて来たときは前を歩いていたはずだ。先に境内へ来ているはずなのだが──

「ほら大樹、そろそろ駐車料金が加算されちゃうから。早くじいちゃんの家のところ行って見て来よう」

「……はあい」

 せめて何か最後に言葉を交わして別れたかった。だが、広い境内なので探している時間もなさそうだ。それに、続々と境内へ人が入ってくる。ある意味、ここで一人になって物思いに耽れていたのは幸運な偶然だったのかもしれない。物寂しさなどここには無関係と思えるほど多くの人々が集まってきた。

 名残惜しさを中途半端に抱えたまま、山門をくぐって境内を後にする。最後に、後ろ髪を引かれる思いで振り返る。

 その時、空色のワンピースが子育て地蔵堂の裏にひらりと翻って隠れたようなものが見えた気がした。思わず立ち止まり、目を凝らす。

 だが、そこに人影はない。その代わりのように、撫でるような風が境内の方から吹き、すり抜けていった。

 涼やかな音が境内に響く。そうだ、この音が鳴っていた。

「おーい、大樹ー」

「今行くー」

 その時、ふとポケットに違和感を覚えた。手を突っ込み、それを取り出す。

 少しだけ逡巡したのち、ポケットの中で広がった部分を、折った跡を参考にして乱れを直す。ちぎれたところがなくて幸いだ。青く大きな葉を選んでいてよかった。

 お寺脇、細く浅い水路にしゃがみ込み、手ごと沈めて船を浮かばせる。白波立つ流れの中、一艘の船が道路下の暗がりに入った。

 立ち上がってちらと下流を見やる。そして、早歩きで父の隣に並んで祖父の家のあった方へと歩き出す。

「笹船?」

「そうそう。懐かしくなっちゃって」

 最後まで振り返りながら清両寺を後にして、すでに更地となった祖父の家の跡へ向かう。

 風鈴の澄んだ高音が、耳に反響して離れなかった。

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