透明なドアを叩いた日
気持ちが悪くて会社を早退しかった。引き継ぎをしていたら、普通に退勤時間になってしまい、明日は休んでろ、と上司に言われ、有給を取った。
有給を取ったとて、特に何かする訳でもない。
気持ちが悪いのが治らなくてベッドで一晩寝ると、大分体調が良くなった。
この分なら、病院には行かなくて済みそうだ。
朝食を食べ、朝のニュースを適当に流し見していると、唐突に、今日は会社に行かなくてもいいことを思い出した。
どうしようか、迷う。部屋の掃除をしてもいいし、カフェで一息ついてもいい、その後服屋に行って服も買いたい。
考えれば、考えるほど、やりたいことが山のように出てきた。
よし、全部やろう。
朝日を浴びて背伸びをしながら、俺は身支度を整え始めた。
休日の外出を楽しんだ後、何気なく、いつもとは違う道を行ってみた。
住宅街の狭間にある小さな道だ。路地裏を散策するのは楽しかったが、行った先が行き止まりだった。
少し落胆して引き返そうとする俺の前にそれは現れた。
半透明のドアだ。
行き止まりの壁に突然出現した。元からあった訳じゃないのは俺がよく知っている。
半透明のドアは家のドアによく似ている。普通のドアだ。ただ、半透明な部分が特別なだけで。
オカルトじみたこの状況に戸惑いを隠せない。
しばらく、そのドアを見つめる。
意を決してドアノブに触れてみた。
「…触れる」
そのままゆっくりノブを回した。
ギィ、と音を立てて、ドアが開かれた。
開けてみると、そこは何の変哲もない公園だった。
異世界とか、魔法の世界とか、どこか違う惑星とか、そんなものを期待していたので少々落胆したが、この分なら危険なことはないだろうと俺は中に入って行った。
公園に備わっている木々の梢が爽やかで、 何個か遊具が設置されている。
まだ日は高いが、人はいない。もしかしたら、平日なのかもしれない。
それにしてもどこか見覚えがあるような…。
ベンチに座って辺りを見渡していると、男の子が1人公園に入ってきた。
1人寂しくブランコを漕いでいる。やがてこっちに来た。
「おじさん、なんでここにいんの?」
俺ももう、おじさんって呼ばれる年かぁと思いながら、返事した。
「そういう日だったんだよ」
少年は遠慮がちに尋ねた。
「おじさん、今日ね、家に誰もいなくて、だから来たんだ。おじさんの予定がないなら、一緒に遊ぼうよ」
返事に迷っていると、少年は泣きそうな顔で、やっぱりダメ、と呟いた。
俺はそれに慌てて答える。
「全然大丈夫だよ。こんなおじさんで良かったら一緒に遊んでよ」
少年は満面の笑みで、やったー!と笑った。
それにしても、この少年、見覚えがあるような…。
俺と少年は公園で色んなことをして遊んだ。
鉄棒で逆上がりをしたり(年だから一回しか成功しなかった、少年はグルグルまるで扇風機のように回っていた)、ブランコを漕いだり、ジャングルジムでどっちが高く登れるか競争したりした。
まるで童心に返ったかのように楽しく、俺たちは飽きもせず遊んでいた。
少し疲れて、ベンチに座る。
自販機で水を買って少年に渡した。
「ありがとう!」
少年はゴクゴク水を飲む。
それを横目に見ながら、やっぱりどこか既視感を覚える。
俺は尋ねた。
「俺の名前は、杉田千智っていうんだ。君の名前は?」
少年はハキハキと答えた。
「俺の名前は間宮裕一だよ!」
その言葉に俺は目を開く。一気に記憶が蘇った。間宮裕一は、俺が小学生だったときの友達だ。なのに、突然、何の挨拶も連絡もなしに引っ越してしまった。
その年の夏は、妙に灰色がかっていた。
しばらく寂しかったのをよく覚えている。
もう一度、少年の顔をよく見た。やっぱり間宮だった。
間宮は1番最初に仲良くなった友達だった。毎日のように遊んでいた。
なんで、間宮が1人で公園に来たのか、親はどうしているのか、なんで急に転校することになったのか、聞きたい事は山のようにあったけど、全部飲むこんだ。
今が、とても楽しいから。
それから日暮れまで飽きもせず、間宮と2人で遊んだ。たまに、間宮から俺の話題が飛び出す。
「あいつ、めっちゃいい奴なんだぜ」
俺は恥ずかしくて、間宮の顔を見れなかった。
夕暮れ、間宮がそろそろ帰らなくちゃと寂しげに声を上げる。
俺は引き止められなかった。
間宮が俺の顔を見上げる。
「バイバイ、おじさん、今日はありがとう」
「こっちこそ、楽しかったよ」
間宮は公園を去った。
俺は1人残された。
間宮の後を追う訳ではないけど、俺も公園を出た。
懐かしい街並みがそこには広がっていた。まだ新しかった店のショウウィンドウ、よく行っていた図書館、ゲームセンター、駅前の広場はいつも遊ぶ時の集合場所だった。
フラフラ、道を歩く。
お腹が空いて、コンビニに入った。まだ物価高じゃないから、全てが安く見えて新鮮だった。
おにぎりとお茶を買い、現金で支払う。
そのまま、よく行っていた持ち込みOKのカラオケ屋に入った。
懐かしい曲ばかりが、ランキングに載っている。
おにぎりをお茶で流してから、それを歌った。
いつまでも歌っていた。
懐かしさで全ての心が満たされる。
だけど、その時間ももう終わりだ。
時計は、朝の四時を示していた。
カラオケ屋を出る。公園に戻った。
俺の前に、半透明のドアが現れる。
ドアノブを掴むと同時に、ふと、このままここに居たい気持ちに駆られる。
そうできたらどれほど良かったことだろう。
朝の光が町を照らしていた。
最後に風に揺れる公園の木々を眺めた。
ドアの先に広がっていたのは、子供の頃の街だった。
あの頃の思い出が強烈に俺の頭の中に蘇る。校庭でしたどろんこサッカー、放課後の駄菓子屋での買い食い、間宮とゲーセンでUFOキャッチャーをしたこと。
ドアを潜った。
ドアの先は、いつもの俺の部屋が広がっていた。
少し物が散らかっていて、なんとなく気楽で、それだけが心地いい、そんな場所へ帰ってきた。
俺は小さく、ただいまと呟いた。
もちろん返事はない。
部屋は静まり返っていたが、この世界も朝の四時だったらしく、郵便配達のバイクの音や、小鳥の囀り、車の駆動音がする。
俺はゆっくりシャワーを浴びて、分厚いカーテンを閉めて、ベッドに潜り込んだ。
眠りに落ちるとき、あの不思議な出来事が頭にふわりと浮かんだ。
やがてそれも溶解して、俺は深い眠りに落ちた。