第三話:祈りは、まだ名を持たない
塔からの脱出劇は、まだ胸の内で熱を帯びていた。息は荒く、薄い痛みが足に残る。それでも私とユレインは夜の薄闇へ踏み出した。
王都アストリアの外れには、人々が近寄らない森がある。白環宗の地図には小さく〈禁苑〉とだけ書かれていた。高位の巫女でさえ足を踏み入れないというその名が、いまはむしろ心強い壁になる。
ひとまず追っ手の気配はない。けれど油断できる距離でもない。私は荒い呼吸を整えながら、森の入口で一度だけ振り返った。塔の尖端は遠く、夜霧に霞んでいる。
「ここなら白環の目は届かない。――今のところは、だが」
ユレインが低く告げる。深い声は落ち着いているのに、語尾にだけ微かな緊張が滲んでいた。
森に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。街路の石のにおいは消え、湿った苔と枯葉の匂いが肺を満たす。踏みしめた落ち葉がぱり、と小さく音を立て、冷たい夜気が頬を撫でた。
胸もと――薬指の《朧環》が小さく脈を打つ。熱ではなく、鼓動に似た微弱な震え。
「朧環が?」
「気づくのが早いね。禁苑は昔、祈りの残り香が集まる場所だったと記録にある。君の輪が呼び水になっているのかもしれない。」
ユレインは視線だけで周囲を探りながら言った。その横顔は学者の静けさを保ちながらも、灯のない森を見据える鋭さを帯びている。
「……追われるだけじゃ、終わらせない。ここで何か見つけられるなら――」
言いかけて、私は口を閉じた。言葉にするには重すぎる願いだった。けれど《朧環》の震えは、私を否定しなかった。
枝葉の間から月が顔を覗かせる。淡い光が獣道のような細い地面を照らし、まるで『こちらへ』と手招きをしているみたいだった。
「月が道案内とは、出来過ぎだね」ユレインが小さく笑う。「行こう。祈りが隠れているなら、その先だ」
私はうなずき、月の道を踏み出した。深い森が静かに口を開け、夜の匂いがさらに濃くなる。遠くで梟が短く鳴いた。
足音、匂い、冷気。すべてが私に語りかける――ここにはまだ、名を呼ばれていない祈りが眠っている、と。
月の淡光をたどって林を潜ると、足裏の感触がふいに変わった。湿った落ち葉の柔らかさが途切れ、乾いた赤土が靴底をきしませる。夜露の匂いが薄れ、石の冷たい匂いが鼻先をかすめる——森の奥に、隠された円形の空き地が口を開けていた。
中心に横たわる肩ほどの石碑。苔むし、割れ、文字は掠れている。それでも視線は吸い寄せられた。
「祈祷碑だ」ユレインが声を潜めた。「公式な律が定まる前、人々はここに無名の願いを“置いた”。石は紙より長く記憶を抱く。雨が文字を奪っても、祈りの余熱は残るものだ」
私はしゃがみ込んで碑に触れた。氷のような冷たさが掌を貫き、胸の《朧環》が熱に変わる。糸のような銀の火花が走り、亀裂をなぞった。
砂がこぼれるような音。次の瞬間、石肌に光のフィルムが展開する——幼い子が両手を合わせ、若い巫女が寄り添う遠い昔の祭礼。月光が映写機のように揺れ、周囲の闇を淡く染めた。
耳の奥で、二人の声が重なる。
『どうか 明日も この子に 月を……』
母が子を包むような柔らかな囁きに、幼いハミングが重なり、風に散った。映像は消え、碑はただの石へ戻る。それでも胸の震えは止まらない。
「見えた?」
ユレインは静かに頷く。「君の朧環が残り香を照らした。忘れられた祈りは、文字より深く石に染み込むらしい」
私は立ち上がり、夜空を仰いだ。雲間の月は先ほどより白く冴え、《朧環》が胸で鼓動を刻む。遠くで木が軋む音。冷たい風が向きを変え、わずかな焦げ臭を運んできた——白環宗の気配か、それとも別の何かか。
祈りの道はまだ続く。私は首を上げ、月の道標を追って、さらなる闇へと足を踏み出した。
森は再び鬱蒼とした暗闇へ姿を変えた。だが胸の《朧環》は、月明かりの届かぬ奥へ迷いなく導いている。足元で枯れ枝が折れ、細い音が闇に吸い込まれた。
視界がわずかに揺れる。胸から喉へ熱が駆け上がり、眩暈のように世界が傾いた――次の瞬間、白い靄がすべてを覆った。
銀の霧。その中に、倒れかけた信仰塔――白環の塔によく似た影――が浮かぶ。塔の破片が宙で静止し、根元には三つの影。先ほど碑に映った母子と、顔を覆った巫女らしき影だ。
『祈りは まだ ここに在る』
囁きと同時に《朧環》が熱を放つ。指先から淡い銀の火花が走り、まだ石の冷気を吸った皮膚をじんと痺れさせた。膝がふらつき、呼吸が浅くなる。
「コレット!」
ユレインの声が霧を裂いて届く。肩を支えられた瞬間、幻は水面のように砕け、私は再び森の闇に立っていた。
掌を見つめる。白い霧の名残がまとわりつき、ゆっくりと霧散した。
「……見えたんだ。崩れた塔と、祈る影。あの巫女は誰?」
「塔? ここから見えるはずがない。――君の輪が無名の祈りを映したのだろう」
ユレインは碑を撫で、静かに言葉を継ぐ。
「石は紙より長く記憶を抱く。雨が文字を奪っても、祈りの余熱は消えない」
遠くで木が軋み、風向きが変わる。焦げ臭は薄れ、湿った土の匂いが濃くなった。
「影は『この先へ来い』と呼んでいる気がする」
「なら進もう。記録にも残らないものほど、私には魅力的だ」
青白い燐光石が獣道を照らす。《朧環》はそれに応えて脈動し、胸を内側から叩いた。
月のない森の底で、過去と未来が擦れ合う音がした。私はその微かなきしみを追い、さらに闇へと足を踏み出した。
獣道はやがて途切れた。森をさらに数百歩、息が白むほど歩いた先で、薄闇が唐突に開ける。胸の《朧環》の脈動が止まり、代わりにほのかな灯が視界に浮かんだ。木立の間に揺れる橙色の火。夜気が肌を刺し、頬がひりりと痛む。
近づくと、小ぶりの石造りの鳥居が現れた。注連縄は朽ち、傾いだまま土に沈んでいる。その下でひとりの人物が膝を折り、小皿の油に静かに火を灯していた。
旅装の外套、木彫りの仮面。狐を思わせる細い目と長い鼻梁——面の奥の視線が月光を映し、こちらをゆるやかに捉える。表情は見えないのに、不思議と恐怖より安堵がわずかに勝った。
「……こんばんわ、巡礼者よ」ユレインが穏やかに声をかける。「我々は祈りの痕を辿っている。導きに預かれるなら幸いだ」
仮面の人物は面を少し傾けた。油がぱちりと弾け、橙の火が揺れる。
「夜更けに塔の気を背負う者が来るとは、珍しきこと」中性的で澄んだ声。男女の区別もつかない。
胸元の《朧環》が青白い光を帯びると、仮面はそちらへわずかに視線を動かした。
「その輪、月の環……。忘れられた祈りの脈をまだ保っているのだね」
私は問う。
「あなたは、ここで何を?」
「見張りだよ。祈りが風化しきらぬよう、この火を絶やさぬ役目を負っている」
仮面は静かに立ち、外套を払った。月光が白面に当たり、狐の眉がわずかに歪む。
「君たちが探しているのは“名を持たない祈り”だろう。ならば、この先に小さな庵がある。祈り手はもう十指に届かぬほどだが、灯を守り続けている」
ユレインの目が細く光る。「祈跡庵……古い記録にしか残らない名か」
仮面は頷き背を向けた。「案内しよう。火を携え、月を従える君たちになら道は開く」
風が吹き、橙の炎がしゅっと伸びた。焦げ臭い匂いが再び鼻をかすめる。遠方で木が折れる鈍い音——白環の追手が森をわたっているのかもしれない。
私は仮面の後ろ姿を追い、ユレインと目を合わせる。彼は短く頷いた。
こうして私たちは、名もなき祈りを抱く庵へ向かった。月光が背を押し、仮面の火が前途を照らす。闇の森に小さな列がゆっくりと進んでいった。
仮面の巡礼者に導かれ、私たちは林を抜けた。低い石垣に囲まれた小さな集落――庵と呼ぶには質素過ぎるが、それでも月光に照らされた屋根瓦が静かに呼吸しているようだった。
庵の中央に据えられた石炉には、橙の火が絶え間なく灯っている。巡礼者が先ほどの皿火を移し替えたのだろう。暖かい灰の匂いが夜気をやわらげ、冷え切った指先がじんわりと解けていく。
藁屋根の戸が開き、年老いた祈り手が現れた。背は丸いが瞳は澄み、濁りのない声で私たちを迎える。
「遠き塔の下より来た者か。火を守る者が案内したのなら、ここは君らの夜宿だ」
庵に残る祈り手は八名。幼い子が二人、老いた夫婦が一組、あとは壮年の男女が数人。皆が小さな祠を囲み、静かに月へ礼を捧げていた。
私は戸口で一礼し、《朧環》に触れる。青白い脈は穏やかだ。ここでは名を持たない祈りがまだ息づいている。
囲炉裏の火で温められた粥が振る舞われた。柔らかな米の香りが鼻を擽り、空腹を思い出させる。口に含むと、ほのかな塩味と薪の薫りが舌に広がった。
「うまいな」ユレインが湯気越しに笑う。「食事の質は記録できない。だから覚えておくといい」
私は小さく笑い返す。記録司らしい冗談だ。
やがて祈り手たちが歌うような低い詠唱を始めた。言葉は崩れかけた古語だが、旋律は月光そのもののように静かで優しい。
その響きに合わせるように、《朧環》が淡い光を漏らす。胸の奥で誰かが囁いた。
『灯を絶やすな 月を曇らすな』
ツクヨミの声か、それとも庵に残る誰かの祈りか。わからない。それでも、温かかった。
外では梟が二声鳴いた。遠くで木を裂く音はもう届かない。追手は今夜ここまで辿り着かないだろう。
私は粥椀を置き、火の前で膝を抱えた。穏やかな眠気が眉を重くする。
「休め」ユレインが囁く。「夜明け前には出る。白環が追いつく前にね」
頷き、私は目を閉じた。月光が瞼を透かし、火の揺らぎが頬を撫でる。
名もなき祈りが胸に降り積もる夜。朧環の鼓動はゆるやかで、遠くの塔の影は夢の向こうへと薄れていった。