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第二話:応声の月


 塔の祭壇での異変――神が降り、神具が砕け、白環宗の儀式が崩壊した直後。コレットは、夜の王都をただひとり、走っていた。


 背後に迫る足音はまだない。だが、感覚が告げていた。「追ってくる」と。


 王都の石畳は月の光を受けて白く濡れ、ひやりとした感触が足元から伝わってくる。足を滑らせそうになるたびに胸が跳ねる。それでも彼女は止まらない。《朧環》が胸元で微かに震え、鈴のような音をたてながら、路地の闇に淡い導を刻んでいた。


 その光は呼吸のたびに小さく瞬き、まるで「こっちだよ」と囁いているかのようだった。


(ここを抜けたら……どこへ行けば……)


 白環宗の塔はもう遠く、見上げれば尖塔の影が夜空に沈んでいる。祈りの場は、もはや彼女にとって安らぎの象徴ではなかった。


 人の気配がする場所を避け、彼女は旧市街の裏路地へと足を踏み入れる。ひび割れた石壁に、どこかの家から漏れる古いランプのオイルのにおい。閉ざされた窓には埃が積もり、風に鳴る看板の鎖が、カラン、と鈍く不規則に鳴った。闇に沈んだその空間は、生きているようで、死んでいるようでもあった。


 濡れた靴音を忍ばせながら進むその背に、ふと影が重なる気配がした。


「……」


 反射的に身を翻し、暗がりに目を凝らす。だが、そこに誰の姿もない。

 ただ、冷たい風が衣を掠め、髪を揺らす。月はそこに在る。ただ、それだけなのに。


 次の瞬間、彼女の胸元で《朧環》がひときわ強く瞬いた。まるで、警鐘のように――あるいは、誰かが名を呼ぶように。かすかな音が耳に届いた気がした。「……コレット」


(……隠れなくちゃ)


 彼女は通りを離れ、古びた屋根の下へ身を潜める。膝を抱え、小さく呼吸を整えながら、もう一度祈る。頬を撫でる空気は冷たく、わずかに金属の匂いが混じっていた。


「ツクヨミさま……私、どこへ行けばいいの……」


 応えはない。とはいえ、微かに心が温もる。孤独のなかで、それだけが彼女を支えていた。


 王都の夜は静かだった。だが、その静寂こそが何より不気味で、息を詰まらせる。遠くで犬の吠える声がして、すぐに収まった。


 そして――影は、確かに近づいていた。 その足音はまだ音にならず、気配だけが濃くなっていた。重く、律動を持ち、彼女の背筋を這い上がるように忍び寄ってくる。


 誰かが、彼女の行方を知っている。誰かが、彼女の名を知っている。

 それはきっと、あの女――銀の刃を持つ巫女、ミリアム。


 

 しん、とした夜の王都。その路地を、コレットはひとり歩いていた。


 走るには、息が続かない。呼吸が荒くなると、それが追跡者に気づかれる気がして、彼女は歩調を抑えていた。しかし、心は落ち着かない。背後に感じる気配は、さっきよりも確かに濃く、重くなっていた。


 音にならない足音がある。

 振り返っても誰もいないのに、風が吹くたび、影の向きが変わる気がする。

 濡れた石畳が、わずかに靴底を吸い、キュッと湿った音を立てた。


(ツクヨミさま……)


 そう名を呼んだ瞬間、胸元の《朧環》が淡く、息をするように灯った。

 その光は彼女の鼓動に呼応するように、微かに脈打ち、香りが立つ。


 それは冷えた空気の中に溶ける、月桂と夜露の混じった匂い。遠い記憶の奥底に触れるような、優しく切ない香りだった。


 光は足元に、淡い銀の円環を描く。それはただの印ではなかった。

 まるで彼女の存在を、この世界に刻み直すように――儀式の名残のように、彼女を囲い守っていた。


「この光……護ってくれてるの?」


 囁く声に返事はない。だが、ふと感じる温もりが、たしかにそこに在る。

 その微かな鼓動が、彼女の足を再び前へと導いていく。


 塔の区域を離れた旧市街は、まるで廃墟のようだった。

 路地は複雑に折れ曲がり、壁には古い祈祷文の断片が煤けて残る。鉄製の看板が月光を反射し、揺れるたびに乾いた音を立てた。


 空気は湿って重く、地面から立ちのぼる微かな金属臭が、彼女の神経を逆撫でする。風が止み、音が吸い込まれた。


 そして、どこかで足音が止まった。


 耳の奥がじん、と鈍く痛む。鼓動が音になり、指先が震えた。

 静寂が濃くなりすぎると、それは世界を歪ませる。闇の中の想像が、真実にすり替わる。


 壁に背を預ける。ざらついた石肌と、かすかな苔の湿り気。息をひそめ、呼吸の音さえ怖くなる。


 その時だった。


 「……こちらへ」


 闇の奥、使われなくなった祈祷場の入口から、低く穏やかな声が響いた。


 男の声。


 怒りでも恐怖でもなく、まるで静かな湖に石を落としたような、深く澄んだ声だった。


 コレットは動けずにいた。だが、その声は続ける。


 「君の行く先に、夜がある。だが、夜を拒む者ばかりではない。

  月は、光を持ちながら、闇の手のひらでしか輝けぬものだ。」


 《朧環》が応えるように、前方を照らし、柔らかい光の帯が祈祷場へと伸びていく。

 胸元にぬくもりが戻る。まるで「恐れなくていい」と語るように。


 その時、再び足音。


 それは明確に、彼女を追い詰める者の足音だった。遠慮も迷いもなく、鋭く硬い。

 空気が裂け、背後の闇が色を変える。


 コレットは息を呑み、光の指し示すままに、祈祷場の扉へと足を踏み出した。



 古びた祈祷場の中は、意外なほど静謐だった。


 壁にかつての聖句が刻まれ、剥がれかけた金の装飾が微かに月光を反射している。天井は高く、窓はすべて閉ざされていた。埃の香りとともに、時間が止まったような空気が満ちている。


 コレットは、慎重にその場に足を踏み入れた。《朧環》が淡く輝き、内側の空間を優しく照らしている。


 その光の中心に、ひとりの男が立っていた。


 黒の旅装、銀縁の眼鏡。淡く月光を帯びた灰銀の髪が、静かに揺れている。手には古びた書簡を持ち、まるでこの祈祷場の主のように、そこに在った。


「追われているのだろう。だが、ここは一時の影だ。君を守る保証はない」


 その声には、警告でも同情でもなく、ただ事実だけが含まれていた。


 コレットは答えられずにいた。《朧環》が再び光を強めた。まるで、この男に敵意がないと伝えるかのように。


「……あなたは、誰?」


 男はゆっくりと顔を向けた。瞳は冷静で、どこか遠くを見るようだった。


「名はユレイン。記録の徒だった者。今はただの放浪者に過ぎない」


 その言葉に嘘はなかった。隠していることがあるのは明らかだったが、今は深く追及できなかった。


 彼の口調には、組織の理を深く知る者の響きがあった。コレットにはその意味がまだ分からない。


「君の持つそれ……《朧環》。久しい名だ。まさかまた、その輝きを目にするとは思わなかった」


 驚きは、表情には出ていなかった。ただ、その目の奥に、確かに感情が揺れた気配があった。


「どうして、名前を……?」


「昔、似たものを見た。君ほど強くはなかったが、祈りに呼ばれ、応じようとした少女がいた」


 沈黙が落ちる。コレットの胸元で、朧環がかすかに震えた。


「その子は……助からなかった。私は、何もできなかった」


 ユレインの声は低く、過去を思い出すように震えていた。


 コレットは口をつぐみ、ただ黙って立ち尽くした。


 外の気配が近づいていた。屋根を掠めるような風、路地に響く軽い金属音。


「時間がない。君に選択をさせよう」


 ユレインが、淡く手を差し出す。


「このまま捕らえられるか、あるいは、未知の夜に足を踏み出すか」


 その手は冷たくなかった。温もりに甘さはなく、覚悟だけが込められていた。


 それでも、コレットはその手を取った。



 王都の東区画――住民の少ない古倉庫街。


 コレットはユレインに導かれ、崩れかけた石の路地を抜けていた。足元に広がる石畳には夜露が光り、街灯の届かぬその道は、ただ《朧環》の淡い輝きだけが照らしていた。


 静けさはあまりに濃く、風の音さえ遠ざかっている。時折、どこかの古びた建材が軋む音だけが、夜の帳に響いた。


「このまま東門の外れに抜ける。そこからしばらくは追跡を振り切れるだろう」


 ユレインの声は抑えた調子だったが、確信を帯びていた。


「……どうして、そんなに道を知っているの?」


 問いかけに、彼は少しだけ口元を歪めた。


「元いた場所が、こういう“抜け道”に近い部署だったのさ」


 はぐらかすような口調に、コレットは深く問い返せなかった。


 《朧環》が、時折ぴたりと脈を止める。

 風が止む。


 そのたびに、背後にひやりとした気配が這い寄ってくる。

 空気が凍るように澱み、時間の流れが鈍くなる。

 足音は聞こえない。ただ、空気の層が裂けるような感覚があった。


 影。


 コレットは振り返らなかった。怖いからではない。

 振り返ることが――何かを確定させてしまいそうだったから。


「……来てる」


 彼女の呟きに、ユレインは頷いた。


「だろうな。あの気配は、抑えようがない」


 その言葉に、《朧環》がほのかに震えた。


 その瞬間――路地の先、東門近くの交差点にて、

 音もなく、黒衣の人影が降り立った。


 月光が、彼女だけを照らすように降り注ぐ。

 銀糸のような封護布が風もなく揺れ、黒の祈装が闇に溶ける。


「ようやく、見つけたわ。異呼者」


 その声は低く、氷の刃のような鋭さを帯びていた。


 ミリアム。


 黒衣の巫女。

 白環宗において“異端を討つ刃”として知られる存在。


 その眼差しは、夜よりも深く、命よりも静かだった。


 コレットの胸元で、《朧環》が熱を帯びた。

 ツクヨミの気配が、静かに応えようとしている。


 だが今は、まだ完全に呼べない。

 コレットの力は不安定で、《朧環》の光も、灯火のように小さく脈動していた。


 ユレインが、わずかに前へ出る。


「こちらの通路は封鎖される。反対側へ。急げ」


 その声に、コレットは躊躇いながらも頷いた。


 追撃者は、ひとり。

 それだけで、空気が鋭利に変わる。


 夜が息を潜める。

 街の音が遠ざかる。


 この路地は、すでに戦場だった。

 


 逃げ道は、もうほとんど残されていなかった。


 倉庫街の端、崩れかけた高架橋の下。月光すら届かぬ陰のなかで、コレットとユレインは息を殺して佇んでいた。


 その背後――ミリアムが歩み寄る足音が、硬質な石を叩くように響いてくる。


 どこまでも正確で、止まる気配もない。まるで、祈りの果てに訪れる裁きのように。


「もう逃げ場はないわ、異呼者。それに、その隣の男も……見覚えがある」


 ミリアムが指先を上げると、黒衣の袖が揺れ、封印文が刻まれた護符が露わになる。


「《裁断剣ディスティス》、顕現。」


 詠唱とともに、白金と紅の光が交差し、ミリアムの手に一振りの神剣が浮かび上がる。

 白環宗・審問位階の神器――異端を断罪する剣。


 ユレインは静かに目を伏せ、懐から一本の筆のような神具を抜き出した。


「封筆《黒封の筆》……久しぶりに使うな」


 筆先が空を裂き、黒き文字の連なりが宙に浮かぶ。 闇に描かれた呪文が、淡く光を帯びる。


 その瞬間、ミリアムが踏み込んだ。

「断罪の一閃――裁断!」


 剣が唸るように空気を割り、紅の刃が一直線に走る。


 「封断式・迷図環」

 

 ユレインの筆が結界の軌跡を描き、剣閃の軌道をわずかに逸らす。


 次の瞬間、ミリアムは姿を屈め、旋回しながら剣を逆手に返した。

 

「双環律刃――展開」


 二重の光輪が剣先から広がり、宙を滑るようにユレインへ迫る。


「仮記式・転写霧」

 

 筆が描いた封陣が爆ぜ、剣の軌道を一つ前の動作に“転写”して時間差をずらす。


 しかし、ミリアムの剣は止まらなかった。

 

「断律開封――」


 その詠唱とともに、《ディスティス》の刃が白く輝き、空間が裂けるほどの圧が広がった。


 ユレインは即座に筆を振り、「封結式・断陣回」を起動。


 だが、結界はひび割れ、守りきれずに肩口を裂かれた。


 血が落ちる。


「ぐっ……」


 ユレインが片膝をつき、筆を杖代わりに地を支える。

 その瞬間、《朧環》が強く脈動を始めた。


 ――お願い、もう一度……守って。


 コレットの胸元から、祈りが零れた。


 《朧環》が叫ぶように輝く。


 空が、割れた。


 雲が裂け、月が降る。

 否――月そのものを象った、神が降り立つ。


 影の衣を纏い、銀の髪を風に揺らす。

 中性的な美貌に、夜よりも深い眼差し。


 ツクヨミ。


「……呼んだのだね」


 その声は、塔で聞いたのと同じだった。


 コレットが崩れそうになる身体を、ツクヨミがそっと支える。

 

「もう大丈夫。夜は君の味方だ」


 月光が路地を満たし、《朧環》が完全な輝きを放つ。


 ツクヨミは振り返り、ミリアムを静かに見据えた。


「……やはり異神。しかも、完全顕現とは」


 ミリアムは《ディスティス》を構え直し、気配を殺す。

 

「異呼者。お前は祈りの名を借りた反逆者にすぎない。私が、それを証明してやる」


 だが、ツクヨミはその言葉に、まるで静かな夜の帳のような声で応じた。


「今は、戦う時ではない。夜は、逃れるためにある」


 その言葉と同時に、月の光が霧となって広がった。

 空間がねじれ、光と影が反転する。


 次の瞬間、コレットとユレインの姿は、霧の中へと消えた。


 ミリアムは霧を裂こうと剣を振るうが、月の残光はただ、静かにその剣を受け止めるばかりだった。


「逃げられた……けど、逃げ切れると思わないことね」


 その瞳に、確かな執念を宿して。


 夜が、静かに満ちていた。

 

 

 

  

 

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