第一話:月が落ちる音
この塔の最下層には、名前のない者たちが暮らしている。
選ばれなかった子供たち。祈りの資格を持たないとされた者たち。あるいは、神にすら気づかれずに生まれてきた、影のような命。
わたし、コレットもそのひとりだった。
朝の鐘が鳴る。高階層の巫女たちが祈祷に入る合図だ。
ここでは鐘の音も、祈りの声も、空気の震えのようにしか届かない。塔の中心にそびえる『信仰の環』は、白環宗の象徴。けれど、その環の光が差すのは、決まって高みにいる者たちだけだ。
塔の壁は冷たく、湿っている。上層からの光も熱もここには届かない。天を目指して建てられたはずのこの塔で、わたしたちは、地の底に押し込められていた。
わたしたち無位層の巫女は、祈る資格がない。
ただ、塔の掃除をし、祭壇に使う水を汲み、壊れた神具を運び、儀式で失われた命の片付けをする。それだけの日々。
“白環神に祈るには、選ばれし魂の記録が必要だ”と教わった。
高位巫女たちは、祈祷詩を唱え、契約された神具を持って白環神を降ろす。命を代価に奇跡を起こす、それが“正しい祈り”なのだと。
でも。
それでも、祈りたいと思ってしまうことがある。
夜になると、塔の最下層の片隅で、ひとり膝を抱える。
寝床の代わりに敷かれた古布の上。壁の染みの向こうにある空を想像しながら、わたしは目を閉じる。
白環神じゃなくていい。名前も、加護も、光もいらない。
ただ、この胸の奥からこぼれそうな想いを、どこかに——誰かに——届けたかった。
「……この声は、誰にも届かなくていい。ただ、夜を知るあなたにだけ」
そのときだった。
塔の高窓から、ひとすじの月光が差し込んだ。
白く、静かで、何にも触れないまま降りてきたその光が、わたしの足元に、そっと落ちた。
その光は、他のどんな神具の灯りよりも静かで、なのに、胸の奥にだけ熱を落とした。
まるで、それが応えのように——
中層、祈祷の環。
そこは白環宗の聖域。許可を得た巫女と神官以外、立ち入ることすら叶わぬ神聖な空間。
銀の床に環状の魔印が刻まれ、天井の光孔から淡い聖光が降りてくる。その中心に立つのは、中位巫女の一人。名をイリヤ。
彼女の手には銀印の環が握られていた。これは白環神〈ルミリス〉を召喚するための降臨補助具。魂と命を媒介とし、神性の一端を顕現させる力を持つ。
巫女たちが円陣を組む。
祈祷詩が唱えられるたび、空気が震える。光が、熱が、天から降りてくる。
「白環神ルミリスよ、その加護をこの地に——」
魔印が輝き、空間が一度だけ“無音”になる。
次の瞬間、イリヤの体を中心に、まばゆい光輪が弾けた。
奇跡が起きた。病に伏せた者が息を吹き返し、腐りかけた作物が瑞々しく蘇る。民衆は歓喜の声をあげる。
だが、イリヤは静かに膝をつき、そのまま、崩れるように倒れた。
光がすべて収束したあと、彼女はもう、動かなかった。
高位巫女が静かに宣言する。
「神に命を捧げるは、選ばれし者の本懐。彼女の魂は白環に帰す」
誰も涙を流さない。ただ、深く、静かに、祈祷を続ける。
その死は、祝福の中にあった。
……塔の通路。その遠くの壁陰に、わたしはいた。
祭壇に運ぶ水瓶を抱えたまま、足を止めていた。
あれが、“正しい祈り”。
命と引き換えに、奇跡を呼ぶ術。
でも、それは本当に……正しいの?
彼女は笑っていた。誰よりも清らかに、強く。
それでも、あの光の後に残ったのは、
ただ一つの、沈黙だった。
どうしてこんなに、怖いのだろう。胸の奥がひやりとして、言葉も出なかった。
昨夜の月光を、ふと思い出す。
白くて、静かで、何にも触れなかったけれど、あれだけは確かに——
心に、届いていた気がする。
名前も詩もなかったのに、どうして、あの光だけが……わたしを選んでくれた気がしたんだろう。
「……あれは、神じゃないの?」
わたしの胸の奥で、何かが小さく、揺れた。
夜が訪れる。
無位層の眠りの部屋は静まり返っていた。誰もが布の上で横たわり、目を閉じる。わたしも同じように横たわり、天井を見上げた。 目は閉じられなかった。
今日見た光景が、胸の奥に刺さったまま動かない。命を捧げる祈り。代償に応える神。 それが“正しい”のなら、わたしの祈りは、ただの戯れ言だ。
それでも——
「名前がないなら、わたしが呼ぶ。姿がないなら、光を想う。……あなたが“神”じゃなくても、この想いは祈りにしていいでしょうか——?」
天窓の向こう、遠い空に浮かぶ月は静かだった。
目を閉じた瞬間、わたしの意識は、深く沈んでいった。
* * *
そこは、音のない場所だった。
足音は響かない。
けれど、歩く感覚だけは確かにあった。
水面の上をゆっくりと進むような、柔らかな浮遊感。
空は夜だった。
けれど、星はない。
淡く揺らめく光の帯が、幾重にも重なり、世界を縫っていた。
天と地の境はなく、重力の向きすら曖昧。
空間そのものが、ゆっくりと回転しているような感覚に包まれる。
匂いはないのに、どこか懐かしい気配があった。
音はないのに、静けさの向こうで、月が“呼吸する音”のようなものが聴こえた。
——ここは、どこ?
私はなぜか知っている気がした。
知らないはずなのに、“魂だけが覚えている”場所。
前方に、社のようなものが見えた。
建物ではない。
それは、祈りの形そのものだった。
柱も壁もない。光と影と、意志の残滓だけで編まれた構造。
その中央に、白銀の輪が浮かんでいた。
——月読社。私はその社の名を知っている。なぜだろう。
名もなく、神の姿もない、ただ“祈られた記憶”だけが佇む場所。
銀白の環はゆっくりと空中で回転していた。
月光を封じ込めたような透明な輪。
その中心に、淡い紫の光が宿っていた。
手を伸ばすと、空気が止まった。
呼吸が浅くなり、世界がわたしの動きだけに合わせて静止する。
環の近くまで来たとき、鼓動が一度だけ、大きく鳴った。
それから、ゆっくりと——
触れた。
冷たかった。けれど、優しかった。氷のような静寂のなかに、心音だけが共鳴するような温もり。
胸の奥が熱を帯びる。何かが、わたしの内側に入り込んでくる。それは恐怖ではなく、受け入れたくなる感触だった。
「……あなたは、そこにいるの?」
返事はなかった。
でも、確かに“見られて”いた。
それも、目ではなく、“静けさ”で。
心に、月の光が差し込んだような気がした。
誰かが、そっと耳を澄ませてくれている。
この祈りに、名を与えようとしてくれている。
涙がこぼれた。
名前も知らない、姿もわからない。
それでも、わたしは——
「……ずっと、あなたに祈ってた」
その瞬間、環が強く光った。
音はなかった。
でも確かに、“祝福の光”が一輪の花のように、世界に咲いた。
影が揺れ、社全体が月光に包まれていく。
まるで、名を持たない神が、ほんの少しだけ微笑んだかのように。
* * *
目を開けたとき、胸の奥がまだ熱を持っていた。
わたしは無位層の寝室に戻っていた。誰も目覚めていない。静かな夜のまま。
ふと、手のひらに白い痕が残っているのを見つけた。環のような、淡い痕。
消えかけているのに、温もりだけは確かにあった。それは、ただの夢じゃないと告げていた。
窓から差す月光が、わずかに揺れている。
あの社は、現じゃない。確かに私の祈りは届いた。
この、名を持たぬ神に——。
朝の鐘が鳴った。
わたしたちは一斉に目を覚まし、いつも通りの所作で衣を整えた。けれど、世界は昨日とまったく同じには思えなかった。
夢の余韻が、まだ胸の奥で灯っている。 手のひらに浮かんでいた“環”の痕は、目を覚ますころには消えていたけれど——感覚だけは残っていた。
誰かに祈りを聞かれた感触。あの静けさの中に、確かに“応え”があった。
朝の祈祷を終え、花の水替えをしていたときだった。ふと指先が水に触れた瞬間、小さな光の粒が一つ、花弁から舞い上がったように見えた。
「……いま、光った?」
誰にも気づかれなかったらしい。見間違いかもしれない。でも、あれは——昨日の夢と、同じ色だった。
昼前、僧侶に呼ばれ、祈祷塔の掃除当番を申しつかった。塔に入るのは久しぶりだ。高位巫女の聖域であるそこは、無位層のわたしたちには遠い場所だったから。
塔の階段を一段のぼるたび、なぜか胸が重くなる。空気が薄いわけじゃない。ただ、足元がわずかに拒まれているような、妙な圧を感じた。
石の壁に手をついた瞬間、それは明確になった。白環神の聖印が彫られた箇所。
……光らなかった。
わたしが触れても、何の反応も起きなかった。横にいた中位巫女の一人が、ちらとこちらを見た。その目にあったのは、怯えか、軽蔑か、それとも——
「神気に触れぬ者が塔に入るなど、不吉ね」
ひとりごとのように呟いた彼女は、それ以上何も言わず去っていった。
掃除を終えた後、塔の隅に座り、そっと手を組んで祈ってみた。けれど、何も感じなかった。この場所では、わたしの祈りは届かない。白環宗の神具は、何も応えようとしない。
あの社で見た“輪”とはまるで違う。言葉がなくても、声にならなくても、ただ“願い”で触れることができた、あの存在とは。
——もしかして、わたしの祈りは、ここでは異物なのかもしれない。
祈祷塔の壁に、古くかすれた文様が彫られている一角があった。その模様に、何の気なしに手を触れた瞬間——
淡く、光った。
ほんのわずか。確かに、白銀の光が、指先から文様へと流れた。
「……今の、なに?」
近くにいた巫女が目を見開き、何も言わずに駆け出していった。彼女が向かったのは僧侶の詰所。
その日、部屋に戻っても、誰も話しかけてこなかった。目すら合わされなかった。
わたしの布団は、わずかに端に寄せられていた。理由は誰も言わない。 だが、その“静寂”がすべてを語っていた。
——白環神に届かぬ祈り。それは、この場所では“罪”と同じだ。
誰かが囁いていた。“異呼”という言葉を。 神に届かぬ祈り。異なる神を呼び出す祈り。
その夜、眠りにつく前、武装した巫女たちが姿を現した。
その後、わたしは白装束をまとわされ、ひとけのない回廊をただ歩かされていた。
両脇に控える僧侶たちは一言も発せず、ただ足音だけが石の床を鳴らす。
夢ではない。
でも、現実でもない気がした。
世界から、わたしだけ切り取られたような感覚。
足が止まる。
そこは祈祷塔の最深部。
階層の底、誰も知らない地下空間に設えられた“断罪の環”。
祭壇に立っていたのは、あの巫女だった。
白銀の短髪、片目に護符を貼った冷たい視線。
——ミリアム。
「……異呼の兆しにしては、ずいぶんと静かだな」
彼女の声は、淡々としていた。
それが余計に冷たかった。
何をしても、何を言っても、もう覆らないことが分かっていた。
神に祈りを届けなかった罪。
神に違う声を届けてしまった罪。
——この世界では、祈りとは“正しい神”に向けるべきもの。
わたしは知らずに“外”に届かせてしまった。
「これより、異呼者の魂を白環神へと還元する——」
誰かの声が響き、祭壇に白環の神具が配置される。
儀式が始まる。
その中心に、わたしは立たされていた。
だれか、たすけて——
そう祈りそうになって、やめた。
助けて、なんて、言いたくなかった。
ただ、心に浮かんだのは——
(……あなたに、会いたい)
小さな想いだった。
けれどそれは、真っ直ぐだった。
そのときだった。
空が、割れた。
祈祷塔の高窓から見えた夜空に、亀裂が走る。
そこから、金糸を引いたような光が降り始めた。
淡い蒼、冷たい銀、仄かな紫が混じり合い、夜空に咲く幻想の花。
月が、落ちてきた。
それは円環のかたちをし、空気も音も光もすべてを染めてゆく。
塔全体が“沈黙”に包まれたようだった。
環の中心に、ひとりの影が立っていた。
「我が名は月読。呼んだのは、きみか」
声が響いた。
やさしく、静かで、それでいてこの世界の誰のものでもない響き。
その存在を見た瞬間、胸が苦しくなった。
懐かしさと、寂しさと、月明かりの冷たさがいっぺんに押し寄せてくるような感覚。
「異呼——っ、神降だ! 神封具を用意しろ!」
白環宗の僧侶たちが叫ぶ。
ツクヨミと名乗った神のまなざしがゆっくりと向けられた瞬間、その声は凍ったように止まった。
「これは、信仰ではない。想起だ」
その言葉とともに、空間が震える。
わたしの胸の奥、魂の深部にまで染み渡るような声。
銀の光が足元に流れ、波紋のように広がった。
それがわたしの方へと伸びてきて、胸の奥に触れた——
ぱん、と。
音がした。
わたしの胸に、ひとつの輪が浮かび上がった。
銀白の月光をまとった、薄く、儚げな装飾。
それは、わたしの“祈り”がかたちを持ったもの。
——《朧環》
神器が生まれた瞬間、神具の儀式陣が崩れはじめた。
塔がきしみ、神性が乱れる。
ツクヨミがそっと手を伸ばし、わたしの手を取る。
「行こう。きみはここに縛られる者ではない」
そのときだった。
ミリアムが剣を引き、わたしたちを睨みつけながら低く吐き捨てた。
「異呼者……祈りの名を借りた反逆者。逃げても、必ず“証明”してみせる」
ツクヨミは何も答えず、ただ目を伏せて彼女を見つめた。
その視線だけで、ミリアムの足が一歩、止まった。
そして、月光がわたしたちを包んだ。
崩れゆく断罪の環。
塔内の神封陣が破れ、白環の僧侶たちが次々に退避を始める。
だが、その混乱の中心で、わたしたちは穏やかな光に守られていた。
空気が変わる。
重力さえゆるやかに歪む。
ツクヨミに導かれるまま、わたしは一歩踏み出した。
まるで月光そのものを歩いているようだった。
石段も、空間のゆがみも、風の音も、すべてが絹のようにやわらかく滑る。
塔の裏手、封印された旧道。
忘れられた扉が開き、夜の森の風が吹き込んできた。
草木の香りが、恐怖のすべてを洗い流してくれるようだった。
最後、ツクヨミは立ち止まり、わたしの背にそっと声を落とす。
「また、夜の静けさのなかで」
わたしは振り返らなかった。
ただ、月を背に受けながら——
あの塔を、世界を、置き去りにして走り去った。