本当の望み
◇ ◇ ◇
息を切らせながら、ミナムは廊下を道なりに走っていく。
早く行かなければと心は焦るが、足に疲れが貯まってしまい、動きは思いのほか鈍い。
思うようにならない体が、歯がゆくて仕方がなかった。
先の方に固く閉ざされた扉が見えてくる。
立派な鉄製の扉には百合らしき花が彫られており、無骨な印象を和らげていた。
(ここに姉さんがいるのか……)
急に訪れた非常事態に怯え、青ざめた顔で体を震わせるイザーミィの姿が頭に浮かぶ。
傷つけたい訳でも、怖がらせたい訳でもない。
目的のためとはいえ大切な――生き残った唯一の家族を追い詰めている自分が、腹立たしくもあり、悲しくもあった。
近くまでいくと、ミナムは扉にそっと手を当てる。
ナウムの部下から、イザーミィは自室の隠し部屋にいることも、部屋への行き方も聞いている。
この中へ入れば、間もなく姉と再会できる。
きっとここまでやった自分たちを、彼女は許してくれないだろう。
もう引くに引けない状況なのに、まだイザーミィに憎まれたくないと願う心があった。
ミナムは躊躇いがちに扉を押した。
扉に鍵はかかっていなかった。
ゆっくりと、もったいぶるように開いていく。
落ち着いた臙脂色の絨毯と、純白のカーテンから差し込む光が、真っ先に視界へ入ってきた。
部屋の隅には薬草を栽培した鉢が並べられ、瑞々しい緑が壁に彩りを添えている。
そして部屋の中央には、凛とした佇まいで正面を見据えるイザーミィの姿があった。
まさかここにいると思いもせず、ミナムはその場に立ち尽くす。
「ね、姉さん、どうしてここに?!」
予想とは違い、イザーミィは申し訳なさそうな微笑を浮かべた。
「騒ぎが起きたと分かった時、きっとミナムが来るんじゃないかって思ったのよ」
「じゃあ、姉さんは自分が狙われているのを知った上で、隠れずに俺を待っていたの?」
「ええ。どうしても貴女に会いたかったから」
イザーミィは深呼吸し、意を決したように眼差しを強めた。
「ナウムの屋敷で貴女と会った時に渡してくれた手紙……あそこに書いてあったことが、ミナムの望みなのね?」
柔らかい声で静かに問われ、ミナムは大きく頷く。
あの時イザーミィに伝えたのは、もう毒を作らないで欲しいこと。
そして、薬師として――自分が久遠の花となって生きること。
ここまで来た以上、もう迷いはない。
ミナムが揺らがぬ視線を投げかけていると、イザーミィはフッと顔を綻ばせて手招いた。
「ちょっとこっちに来てくれるかしら? ミナムに渡したい物があるの」
そう言うと、イザーミィは部屋の脇にある本棚へ近づいていく。
後に続こうと一歩踏み出してから、ミナムは立ち止まる。
このままついて行ってもいいのか?
俺の姉さんである前に、バルディグの王妃だ。国のことを考えるならば、毒を作ることは止められないはず。
もし、こちらを油断させて、何か仕掛けてくるとしたら――そんな考えが頭を過る。
大好きな姉を信じられない自分に気づいてしまい、胸が締め付けられた。
(姉さんと会えるのは、これが最後なのに……)
信じたいと願う心とは裏腹に、腰の短剣をいつでも抜けるように手を柄へ持っていく。
そして辺りの気配を伺いながら、慎重にイザーミィの方へと向かっていった。
イザーミィは無防備な背中をこちらに向けたまま、本棚から爪一つほどの分厚さがある本を数冊取り出す。
振り返ってミナムの顔をジッと見つめてから、イザーミィはそれを差し出した。
「ここに私が知っている限りの久遠の花の知識を書き記したわ。ミナムのこれからに役立てて」
「えっ……」
思いがけない話に、ミナムは目を激しく瞬かせる。
お互いに薬と毒の知識を持っているが、それぞれにしか伝わっていない知識もある。
イザーミィから記憶を奪えば、その知識は失われる――ロウジもある程度は知っているだろうが、彼も守り葉。知らないこともあるだろう。
いくつか久遠の花の知識が失われるかもしれない、という覚悟はしていた。
それだけに、イザーミィの書いた本はとてもありがたかった。
これを受け取らない理由はない。
ミナムは手を伸ばし、本を受け取った。
「……ありがとう、姉さん。大切にするよ」
小さく頷いてから、イザーミィは愛おしそうに目を細めた。
「実を言うとね、この国のために毒を作っていたのは確かだけれど……貴女に会ってこれを渡すことが、私の望みだったの」
「もしかして一族の人間がいると分かる毒を作っていたのは、それが目的?」
「そうよ。毒を作れば、ミナムが私を止めに来るだろうと思ってた。たとえ記憶を奪われることになっても、貴女に一目会いたかった。久遠の花の知識を譲りたかった……多くの人を苦しめることになると分かっていても」
言いながらイザーミィは本棚の隣にあった机の引き出しを開けると、中から何かを取り出す。
見覚えのある包み紙――それが前に渡した記憶を奪う薬なのだとすぐに分かった。
「前にこれを渡された時は、手元に本がなくて、誰が見ているか分からない状況だったから受け入れられなかったけれど……今なら心置きなく飲むことができるわ」
ゆっくりとした手つきで、イザーミィが包み紙を開いていく。
咄嗟に机へ本を置き、ミナムは前へ出ようとする。
けれど一歩踏み出して、足は動かなくなってしまった。
これを飲んでしまえば、久遠の花の知識だけでなく、自分たちが姉妹だったことも忘れてしまう。
離れていても確かにあった繋がりが、絶たれてしまう気がした。
まだ飲まないで欲しい、と言いそうになり、ミナムは無理に言葉を呑み込む。
一刻も早く、ナウムを足止めしているレオニードの元へ行きたい。
間違えてはいけない。これから一緒に生き続けたい人は、彼なのだから。
ミナムは微動だにせず、イザーミィの動向をただ見守ることしかできなかった。
イザーミィは上を仰ぎ、すべての薬を口の中へと送り込むと、固く口を閉ざす。
ごくり、と大きく喉が鳴った。
もう後戻りはできない。
頭では分かっていたのに、いざ目の当たりにしてしまうと激しく心が揺らぐ。
瞳が潤みかけていたミナムへ、イザーミィは腕を広げて近づいてくる。
そして昔へ戻ったように、優しく抱き締めてくれた。
「お願い……私の記憶が消えるまで、このままでいさせて」
バルディグの王妃ではなく、たった二人きりの家族として向き合ってくれている。
悲しくて胸は苦しくなるばかりなのに、イザーミィからその言葉を聞けて嬉しかった。
ミナムは「うん」と頷いてからそっと腕を回すと、イザーミィを抱き締め返した。
「俺のことを忘れてしまっても、姉さんが好きだって気持ちは変わらないから」
「ありがとう、私も貴女のことが好きよ。……できることなら、ここでずっとミナムと一緒に過ごしたかった」
耳元でそう囁くと、イザーミィは腕の力を強めた。
「ミナムだけに一族の使命をすべて背負わせてしまってごめんなさい。これから貴女がどれだけ苦しい思いをしても、助けてあげられない……それがすごく心残りだわ」
「心配しなくても大丈夫だよ。守り葉の熊オジサンもいるし、これから一緒に生きてくれる人もいるから――」
話の途中で、フフッ、とイザーミィが小さく笑う声がした。
「良かった、まだ生き残っていた人がいたのね。それに貴女にも大切な人がいるなんて……どんな人か見てみたかったわ」
元来た道を戻ればレオニードに会わせることはできるが、ナウムと死闘を繰り広げている姿を見せる訳にはいかない。
記憶を失う間際に、イザーミィに悲しい思いをさせたくなかった。
せめてレオニードがどんな人なのか伝えようと、ミナムは口を開きかける。と、
「ミナム、無事か?!」
懸命に走ってくる足音とともに、廊下から声が飛んでくる。
ミナムが頭を上げて視線を動かすと、切羽詰まった顔で息を切らせたレオニードが部屋に駆け込んできた。
ナウムの生死は分からないが、レオニードが勝ったからここへ来たのだろう。
彼が生きていてくれて良かった――ミナムの顔が思わず緩む。
ふと視線をイザーミィに戻すと、彼女は二人を見交した後、レオニードに向かってニコリと笑った。
「……どうかこの子のこと、よろしくお願いしますね」
言い終わった直後、急にイザーミィの体から力が抜け、こちらへ倒れ込んでくる。
ミナムは咄嗟に受け止めると、彼女の背中を揺すった。




