夜の酒場にて
◆ ◆ ◆
夕日が沈んだバルディグの空は、瞬く間に闇色のシーツを広げていった。
繁華街に軒を連ねる店々は明かりを灯し、窓から溢れる光で行き交う客を呼び込んでいく。
中でも老舗の宿屋に併設された酒場は、付近にある店で一番活気づいていた。夜は始まったばかりなのに、すでに席はすべて埋まっていた。
男たちの談笑が店内に溢れ、それを耳に入れてさらに気分は高揚し、彼らは新たな酒を口に流し込んでいく。
しかし食堂の角にあるテーブルに座る、短髪の赤毛の青年は例外だった。
出された酒と料理に手を付けず、ただジッとテーブル上で揺らめくロウソクの火を見つめていた。
「よう、兄ちゃん。せっかくの料理が冷めちまうぜ。どうしたんだよ?」
隣の席で仲間たちと盛り上がっていた中年の男が、赤毛の青年に話を振ってくる。
青年はわずかに困惑の色を浮かべ、「人を待っているんです」と低く小さな声で答えた。
男は「辛気くせぇヤツだな」とぼやいた後、急ににんまりと笑った。
「ひょっとして女でも待ってんのか? お前はオレほどじゃねーが、かなり男前だからな。相手に不自由しないだろ? どんな美人さんだ?」
青年の耳がぴくりと動き、鋭い目を細くする。
ずっと胸の内でくすぶっていた怒りが吹き出しそうになったが、息をついてどうにか抑え込むことができた。
「いえ、女性ではなくて――」
青年が答えようとした時、
「待たせて悪かったな。少し話に時間がかかっちまった」
長く立派なヒゲをたくわえた、白髪の老人が青年の向かい側の席へと座る。腰は少し曲がっているが、年の割に大柄な体躯だ。
隣で男は「何だ、じーさんか」と落胆した声をわざと出し、再び仲間の談笑の輪へと戻っていった。
老人は早速テーブルに並んでいた酒をあおり、少し冷めたスープや骨付き肉の香草焼を口に入れていく。
一気に料理の半分を食べてしまった後、一息ついて老人は青年に笑いかけた。
「お前さん、頼んでいた物は全部買えたのか?」
「ああ、俺のほうは問題ない。そっちの話はどうなったんだ?」
「そりゃあもう大変だったぞー。仕事するのにギルドへ登録しなきゃならんかったし、お目当ての仕事をさせてもらえるよう、お世話になる親方さんに何度も頭下げて頼み込んで……はあ、この老体にはこたえるな」
板へ水を流すように話す老人へ、青年は一瞬申し訳なさそうに目を細める。それから身を乗り出し、老人へ顔を近づけた。
「いつだ? いつから仕事ができるんだ?」
老人は「あんまりがっつくな」と苦笑すると、ごつい手で骨付き肉を掴んだ。
「明日から行けるぞ。詳しい話は後でしてやるから、今は酒と料理を楽しもうぜ」
気負うなと言いたいのだろうが、楽しむ気にはなれない。
青年は口を閉ざし、黙々と目の前の料理を食べ進めていった。
食事を終えて、青年と老人は根城にしている二階の部屋へと戻っていく。
そして二人は用心深く部屋を見渡し、異常がないかを確かめてから中に入って扉を閉めた。
完全に外から中が見えなくなった途端、老人は大きく背伸びをして曲がっていた腰を正すと、顎からベリベリと髭を外した。
「あー疲れた……老人のフリは長時間するもんじゃないな」
老人から一気に若返り、精悍ながら愛嬌のある顔と無精髭があらわになる。
何度この光景を目の当たりにしても、見慣れるものではない。
青年は心の中で感心してから、長息を吐き出した。
「よくここまで変われるものだな、ロウジ。元の面影が完全に消えている」
「当然だぜ、かなり年期入ってるからなあ。だがレオニード、お前さんも十分に変装できてるぜ」
そう言うとロウジはにっかり笑いながら、おどけて片目をつむった。
部屋の壁に掛かっていた鏡を、レオニードは横目でちらりと見る。
長かった銀髪は短く刈り上げられた上に赤く染められ、薄氷の瞳は暗い茶色へ、白い肌は浅黒いものへと変わっていた。見慣れぬ姿に今もまた緊張が走り、自分だと気づいて内心胸を撫で下ろす。
頭で分かっていても、鏡に映った姿が自分なのだという実感が沸かなかった。
ミナムを追ってバルディグの城下街へ向かう途中、ナウムたちに気付かれないよう変装しようとロウジに提案された。
それは至極もっともだと同意はしたが――まさかここまで髪を短く切り、こんなに赤々とした目立つ色に染められるとは思いもしなかった。
瞳の色も、肌の色も、ロウジが用意した薬で変えられてしまった。
色落としの薬を使えば元に戻るので安心はしている。ただ色がついた分だけ視界は暗く、たまに距離感が狂って物に当たりそうになっている。
どれだけ鏡を見ても、映る姿は別人だ。
これならナウムたちの目を誤魔化せるという自信が湧いてくる。しかし、
「明日は口の中に綿を入れて、顔型も変えておけよ。あと、常に目を細めていたほうがいいだろうな。相手から瞳が見えないほうが、こっちの動揺やら感情も隠しやすい。特にナウムのヤツは、そういったことにも目ざといだろうからな」
さらにロウジから変装の指示を出され、レオニードは閉口する。
彼の正体や事情はもう聞かされている。
あまりに現実離れをしていて、どんな人生を送ってきたのか想像がつかない。ただ、難儀な人生を送っているのだということは理解できだ。
特殊な事情があるからと知っていても、どうしても思ってしまう。
(変装といい、敵地へ潜る段取りといい……盗賊並みに慣れすぎだ、ロウジ)
心の中でレオニードが冷や汗を流していると、ロウジは自分のベッドに腰かけた。
「レオニード、今日買ってきた物を見せてくれ」
部屋の隅に置いていた荷袋を手にすると、レオニードはロウジと向かい合う形でもう一つのベッドに座り、袋から目的の物を取り出した。
現れたのは、真新しい鉄の剪定バサミ二つ。
一つをロウジに手渡すと、彼は持ち手を掴み、ハサミの刃を凝視した。
「おっ、よく切れそうなハサミだ。これなら木の剪定がやりやすそうだ……ナウムの所の庭じゃなかったら、気持ちよく使えるのになあ」
忌々しい名を聞いて、レオニードは眉間に皺を刻む。
今、ミナムはナウムの屋敷にいる。
おそらく仲間のことを盾に取り、手元へ置いているのだろう。
命は奪わないだろうが、あの男のことだ。言い寄って彼女を追い詰め、隙あらば自分のものにしようとするのは容易に想像がつく。
数日前に市場でミナムと会った時、どれだけ彼女を抱き締めて、バルディグから連れ出してしまいたかったことか。
ただ、ここがナウムの本拠地である以上、監視の目も厳しいはず。
自分たちの正体に気づき警戒されてしまえば、ミナムと接触することが難しくなる。
ミナムには、聞かなければいけないことがある。
そのために変装し、庭師としてナウムの屋敷に潜り込み、ミナムに近づくという作戦を取ることにした。
一時の感情だけで迂闊な行動をとる訳にはいかない。
そう頭では分かっていても、割り切れるものではないが。
「さて、と。それじゃあ明日の予定だが――」
ロウジの声でレオニードは我に返り、一言も聞き漏らすまいと身を乗り出す。
今までにない真剣な面持ちで、ロウジは言葉を続けた。
「仕事は昼過ぎから。庭師の親方たちと合流して、ナウムの庭の手入れに同行させてもらう。前々からの打ち合わせ通り、ワシらは田舎から出稼ぎに来た庭師の祖父と孫ってことにしてあるから、しっかり演じてくれよ」
レオニードが重々しく「分かった」と頷いて見せると、ロウジの眼差しがわずかに柔らかくなった。
「あんまり気負うな。お前さんは黙々と仕事しながら、屋敷の中を把握してくれればいい。ワシは何とかミナムと接触して、夜に会いに行くことを伝える。その後にどうするのかは、ミナムの話次第だな」
おもむろにロウジは両手を組んで力を込めると、少しうつむいて顔に影を作る。
白く染められた髪のせいか、人生に疲れ果てた本物の老人に見えた。
「ここに久遠の花や守り葉がいるのか、一体誰が毒を作っているのか……やっと分かる。長かったなあー、ここまで来るのに」
「ロウジ……」
「あともう少しだけ、お前さんたちには頑張ってもらうぞ。面白くないだろうが、ミナムを連れ出すのは、ここでやるべきことを終えてからだ」
正直なところ、一秒でも早くナウムからミナムを引き離したい。
ただ、ミナムが心置きなくヴェリシアへ戻るためには、やらなければいけないことが残っている。
ひいてはそれがヴェリシアのためにもなる。
レオニードは深く息を吸い、己の中に覚悟をためていく。
そして拳を強く握りしめた。
「……必ず終わらせてみせる。俺の命に代えても」
慌ててロウジがこちらへ向き直ると、やれやれと言わんばかりに苦笑を浮かべた。
「おいおい、お前さんに死んでもらったら困る。これからミナムと夫婦になって、子だくさん家族を作ってもらうんだからな」
からかうような口調だが、これがロウジの切実な願いだというのはよく分かった。
レオニードもつられて苦笑すると、「ああ、そうだな」と大きく頷いた。




