奪われゆく自我
クッ、と押し殺した笑いを漏らしてから、ナウムはイザーミィに目を向け、背筋を伸ばして一礼した。
「エレーナ様、すぐに終わらせますからご安心下さい」
腰に剣は挿しているが、抜かずにそのままナウムが歩いてくる。
以前ザガットの宿屋で、彼の身軽な動きは見ている。
それだけ侮られているのかと思うと、頭に血が上りそうになった。
(ずっと嫌な思いをさせられたんだ、コイツにだけは容赦しない)
今なら麻痺の毒でナウムも弱まるハズ。叩きのめすには絶好の機会だった。
ナウムに対峙しようと、ミナムは体の向きを変えようとする。
だが――。
「ミナム、そこから動くな」
低く鋭い声が耳に届いた直後、ミナムの足は動きを止める。
ここで止まる気はないのに、体が言うことを聞かなかった。
何をした、と言おうとしても口は動かず、ただナウムを見ることしかできなかった。
(どうなっているんだ?! ナウムのヤツ、俺に何をしたんだ!)
どうにかして動こうとするが、身じろぎ一つできない。
そんなミナムの焦りをあざ笑うかのように、悠々とした足取りでナウムが近づいてきた。
毒の香りが届く所まで来た時、やれやれと言わんばかりにナウムは肩をすくめた。
「麻痺の毒か……このまま部屋に垂れ流されるのは困るぜ。早く止めてくれ」
体が動かないのに、毒を抑えられる訳がないだろ!
心の中でミナムが叫んでいると、勝手に右手が上がり、腕輪の琥珀色の石を咥え、噛み砕いてしまう。
スウゥゥゥ、と体から匂いが消えていくのが分かる。
それと同時に、ミナムの全身から血の気が引いた。
ナウムがミナムに近づき、不敵に笑う。
「良い子だ、ミナム。そのまま待っていろ」
手を伸ばしてこちらの頭を撫でると、ナウムはイザーミィの元へと歩いていく。
まだ痺れが残っているのか、それとも怖い思いをしたせいか、彼女の肩が小刻みに震えていた。
落ち着かせるように、ナウムはイザーミィの肩に手を置いた。
「申し訳ありません、エレーナ様。私の考えが甘かったせいで、こんな事態に――」
「私もミナムと二人で会いたいと願っていたの。ナウムの責任ではないわ」
青ざめた顔のまま、イザーミィはナウムを見上げた。
「お願い……ミナムを殺さないで。こんなことになっても、私の大切な妹なの」
イザーミィの頬を、大粒の涙が流れていく。
彼女を安心させるように、ナウムは優しく微笑んだ。
「もちろんですよエレーナ様。私にとっても、ミナムは大切な人……これから時間をかけてじっくり説得しますから、私を信じてお待ち下さい」
「……ありがとう。貴方を信じて待っているわ、ナウム」
動けず呆然となるミナムの前で、互いの意思を確かめるように二人は見つめ合う。
それからおもむろに、イザーミィが視線をこちらへ送る。
今にも泣き出しそうな、申し訳なさそうな目。
後ろめたさを感じながらも、ミナムを受け入れられないと暗に拒む気配がする。
何か言いたそうに口をまごつかせたが、イザーミィはうつむき、付き添いの侍女に促されて部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まり、イザーミィの目から完全に見えなくなる。
麻痺の毒に苦しむ男たちへ見向きもせず、ナウムがミナムに近づいてきた。
その顔は憤りではなく、むしろ嬉々とした表情を浮かべていた。
見た瞬間、ミナムの全身が凍りついた。
「さて、ミナム……オレの屋敷でこんな真似をして、ただで済むとは思っていないよな?」
咄嗟にミナムは口を動かそうとするが、唇すら思うように動かない。自分に何が起きているか分からず内心激しく困惑していると、
「ミナム、声は出してもいいぞ。あと表情も出していい。ただし、舌を噛んで死のうとするなよ」
ナウムに妙な命令を告げられて、ミナムは思わず顔をしかめる――今まで動かなかった顔が動くようになり、より内心の戸惑いがひどくなった。
何だ、この妙な命令は?
ミナムは訝しく思いながら口を開く。
「ナウム……一体、俺に何をしたんだ?!」
「なあに、ちょっとオレの言うことを聞いてもらえるように、暗示をかけさせてもらった。言っただろ? オレはお前を無条件で信用するほど、お人好しじゃないってな」
「暗示だって?! いつの間にそんなことを――」
バルディグへ来てからのことを思い出していくが、一体いつ仕掛けられたのかがさっぱり分からない。
困惑を隠せず狼狽えてしまうミナムへ、ナウムが心底嬉しそうに口端を引き上げた。
「覚えがなくて当然だ。これが夢だと思うように暗示をかけていたからな。夢うつつでも最初は俺に鋭い眼差しを向けていたのに、俺が頭を撫でてやると目が蕩けて、最後には俺が抱き締めると大人しくなって……可愛かったなあ」
夢――あの、繰り返し見続けていた悪夢。
まさかあれが現実に起きていて、俺に暗示をかけていたのか?
嘘だ。
コイツの言うことは信用できない。
ミナムは反論しようと喉に力を入れる。
しかし出てきた声は、寒さに震える小鳥のようにか弱かった。
「この屋敷に来て同じ夢をよく見ていたけど……あんな夢、現実にはありえない。適当なことを言うな」
「夢だと思わせるようにしたから、非現実なところがあるんだろ。クク……認めたくない気持ちは分かるぜ。だが――」
ゆっくりとナウムがミナムの背中に腕を滑り込ませ、優しく抱擁する。
今まで感じてきた悪夢の感触が、生々しく現実に浮上してきた。
「――お前の心と体は、しっかりとオレを覚えている」
記憶の中の悪夢が、一瞬にして現に躍り出る。
自分が心で思っていたことは、口に出してナウムと会話していた。
最初は拒んでいたのに、段々と彼に体を触られることが心地良くなって、このまま流されてしまいたいと思ってしまった。
夢だと思い込んで、何度もナウムの抱擁も告白も拒むことを諦めてしまった。
信じたくない悪夢のすべてが、現実だった。
愕然となるミナムへ、ナウムが間近に顔を合わせてきた。
「本当はな、お前がこんな真似をしなければ、暗示をかけるだけで終わっていたんだ。ミナムがオレを憎み続けたとしても、同じ目的のためにここへ居てくれるなら、それで構わなかった」
軽薄で人の悪い笑みがナウムから消える。
どこか陰がありながら、熱くこちらを射抜いてくる眼差し。初めてナウムの素顔を見た気がした。
「何度も言ったと思うが、オレに向けるのは愛情でも、憎しみでもいい。どんな形でもいいからお前と一緒にイザーミィを守ることができればそれでよかった。だがな、イザーミィを傷つけるというなら話は別だ」
愛おしそうに、ナウムはミナムの頬を両手で包み込む。
そして唇が重なる寸前まで、顔を近づけた。
「もう容赦はしない。オレが命も欲も捨てて守り続けたものを傷つけられるぐらいなら、お前の心なんていらない。その体と守り葉の力だけで十分だ」
言い終えた直後。
ナウムに深く口づけられ、ミナムの息が詰まる。
そして別れを惜しむかのようにゆっくりとナウムの唇が離れ、そっと耳元で囁く。
「ずっと悩みに悩んで、辛かっただろうなあ。だが……もうお前は何も考えなくてもいいんだ。ただ、オレの言うことを聞いて、オレだけを感じていればいい」
一言、一言、耳に入っていく度に、思考が麻痺していく。
ナウムに屈したくないと憤る心が消えていく。
このまま彼を受け入れたくないと、拒む気持ちも霧散する。
頭の頂から徐々に自分が消えていく感覚。
せめてレオニードのことを想う気持ちは無くしたくなかった。
けれど、ナウムに夜の闇が眠りを誘うような抱擁をされて、その想いすら闇へと沈み、無と化してしまった。




