敵わない相手
「命拾いはしたが、オレはイザーミィを逃がさないための人質としてバルディグに連れて行かれた。一人で逃げ出すことも出来たが、イザーミィを見捨てたくなかったからな。オレはイザーミィの付き人を申し出て、あいつを少しでも守るため動き続けた……これは本当だぞ?」
体の良い嘘だと思いたいところだが、昼間の二人が脳裏をよぎり、ミナムは考えを改める。
言葉を並べて説明されるより、二人の間に流れていた空気を一目見たほうが説得力は大きい。きっとここへ来た当初は、ナウムだけがイザーミィの味方だったのだろう。
いけ好かない男だが、彼が姉の心の支えになっていたのは間違いない。
ミナムは眉間に皺を寄せながら、大きく息をついた。
「意外だよ。お前にも恩を感じる心はあったんだな」
「命を助けてもらったんだ、そりゃあ恩も感じるさ。だが――」
コト、と黒駒を置いて、ナウムは喉で人の悪い笑いを奏でた。
「――オレは恩人に無償で奉仕するような人間じゃねぇ。見返りを期待してたから、側に居続けたんだ」
「見返り?」
「白状するとな、オレはイザーミィが欲しかったんだ。心も、体も……イヴァンと会うまでは、結構いい雰囲気だったんだぞ」
赤駒を摘みながら、ミナムは顔を上げてナウムの顔を見た。
「下手したら、お前のことを義兄さんって呼ぶ羽目になったのか。姉さんがイヴァン様と結ばれて良かったよ」
「言ってくれるなあ。これでもイザーミィを取られたこと、まだ引きずってんだぜ? だが――」
ナウムの瞳にぎらついた光が宿る。
「――お前が現れてくれて、やっと踏ん切りをつけることができそうだ」
不意にミナムの脳裏に、ザガットの宿屋でナウムが口にした言葉を思い出す。
あの時、惚れていた女に似ていると言っていた。
手に入れられない姉の面影を、こちらに求めているのだろう。
ミナムは赤駒を盤に置くと、わずかに目を細めた。
「俺は姉さんの代用品ってことか。馬鹿馬鹿しい」
「代用品な訳ねぇだろ。イザーミィの妹で顔立ちが少し似ているぐらいで手を出すほど、オレは無節操じゃねーよ」
こちらの顔を見つめたまま、ナウムは盤上の黒駒を動かした。
「ミナムの顔も勝気な性格もいいが、オレはお前の生き様が一番気に入ってる」
「生き様だって? 俺のことをずっと見ていた訳でもないのに、何が気に入ったっていうんだ?」
ミナムはムッとなってナウムを睨む。
相手がこの男じゃなくても、自分の今までを知ったかぶりされるのは面白くない。
敵意を隠さないこちらに対し、ナウムは怯むどころか、嬉々とした表情を浮かべた。
「お前の姿を見て、少しやり取りしただけでも分かるんだよ。……お前はオレと似ているからな」
似ている? どこが?
ミナムが訝しげに顔をしかめると、ナウムは不敵に笑った。
「オレもお前も、イザーミィを守るために生きてきたようなもんだ。アイツを守るためなら手段は選ばねぇし、利用できるものは利用する……お前もそうやって生きてきたんだろ? その生き様がオレにはたまらなく魅力的だ」
確かに、頭の中では生き残った一族全員の行方を知りたいと思っていたが、心はイザーミィに会えることばかり夢見ていた。
今度こそ姉を守りたい。
そのために守り葉の力を奮うことを、強く望んでいた。
自分の扱う毒や嘘で、誰が苦しもうが傷つこうが関係ない。
目的のために自分が傷ついても構わない。
今までを振り返れば、久遠の花を――ひいては姉のために戦い続けることが生きる全てだった。
認めたくないが、ナウムの言う通りだ。
反論できない歯がゆさに、ミナムは思わず視線を遊技盤に落とす。
いつの間にかチュリックは、ナウムの勝利が近づいていた。
(このままだとナウムの好きなようにされてしまう。どうにか逆転できる手は……)
勝てる手段はないかと考えるが、動揺してうまく頭が回らない。
どうにか落ち着くまで時間を稼ごうと、ミナムは熟考するフリをする。
そんな動揺を見透かすように、ナウムがフッと鼻で笑った。
「負ける勝負を粘っても苦しいだけだぜ? お前はオレに敵わない……そう認めてしまえば楽になれるぞ」
ゲームのことを言っているのだろうが、ミナムの耳は他の意図を拾い上げる。
ようは『オレのものになれば、楽になれる』と言いたいのだろう。
ナウムに従ってしまえば、姉と一緒に居続けることができる。
ずっと会いたいと、守りたいと願っていた姉と。
そのために自分の心を殺すことになったとしても構わない。
少し前なら、迷うことなくナウムに従っていた。けれど、今は――。
ミナムは腕を伸ばし、遊技盤の角に赤駒を置いた。
「足掻くのをやめれば、確かに楽になれる。でも、後になって延々と後悔するのは性に合わないんだ。できることがある限り、俺は勝負を投げ出さない」
ナウムを見ると、まだ続けるのか? と言いたそうに肩をすくめていた。
「頑固だな。まあ、これぐらい抵抗してくれたほうが、オレも楽しめるから良いけどな」
そう言って、ナウムは悠然と遊技盤を眺めてから黒駒を置く。
彼の余裕に満ちた態度は憎らしかったが、ミナムは不快な感情を押し殺し、チュリックを進めていく。
何度か駒を動かし合った後、ついに赤駒を置ける場所がなくなった。
分かった瞬間、ミナムの体が強張る。
だが大きく息を吐いて力を抜くと、椅子の背もたれへ寄りかかった。
「俺の負けだよ。ここまで負けるなんて、生まれて初めてだ」
「オレも今まで相手してきた中で、一番手応えがあったぞ。これだけ粘られたのは初めてだな」
顎を撫でながらナウムは席を立つ。
「さあ、約束だ。オレの言うことを一つ聞いてもらう」
こちらを見下ろす彼の目を見た瞬間、ミナムの背筋に薄ら寒いものが走る。
知らない内に汗をかいた手を、ぎゅっと握った。
「……望みは何だ?」
「なぁに、簡単なことさ。オレが良いと言うまで、そこを動くなよ」
言うなりナウムはミナムに近づき、椅子の背もたれへ片肘をつく。
そしてもう片方の手で、ミナムの顎を持ち、クイッと上げた。
顔が間近になり、ナウムの息遣いがよく聞こえた。
咄嗟に動こうとしてしまったが、なぜか体は縛られたように硬直し、避けるどころか身をよじることさえできなかった。
互いの鼻がぶつかりそうになる手前で、ナウムは動きを止めた。
「安心しろ、別に痛めつける訳じゃねぇ。だから……目ぐらい閉じろ」
何をされるのか予想がついてしまい、ミナムの瞳がわずかに揺らぐ。
終わるまで睨みつけてやろうと思ったが、これ以上ナウムの顔を見るのが辛くて、きつく瞼を閉じた。
早く終わってくれと願いながら、ミナムはナウムの動きを待つ。と――。
頬へ生々しく温かいものが押し付けられ、ゆっくりと離れる。
そして、今度はそれが耳元へ移ってきた。
「ずっと気張ってたクセに、ギリギリで女の顔になったな。あの堅物男のことでも思い出していたのか?」
耳にナウムの声が熱い吐息に乗って響き、ミナムの心臓を荒々しく握ってくる。
今、レオニードの顔を思い浮かべたら、コイツの前で泣いてしまう。
そんな無様な姿を見せたくない一心で、ミナムは視界と同じように頭の中にも暗闇を広げた。
「別に……お前を殴りたいって思いでいっぱいだよ」
皮肉を言ったつもりだったが、ナウムは押し殺した笑いを漏らした。
「嬉しいこと言ってくれるな。俺のことで頭がいっぱいだなんて……」
違う、と反論しかけた時。
ナウムが耳へ、嫌になるほど優しく歯を立てられた。
思わず声が出そうになり、ミナムは唇を硬く閉ざす。
「これからずっと、そうなるようにしてやるから、楽しみにしてろよ」
そう一言残すと、ナウムの顔が離れていく気配がした。
不吉なことを言うなと怒鳴りたくなったが、勝負に負けた自分が悪い。
むしろ予想外に引き際が良くて、肩透かしを食らったような、やっと終わったと安堵するような、複雑な気分だった。
ミナムが瞼を開けると、ナウムが腕を組み、優越感に浸っているような腹立たしい笑みを浮かべて、こちらを見下ろしていた。
「もう動いてもいいぜ。……今日はこれで勘弁してやる。どうせオレのものになるのは時間の問題、がっついて押し倒すのは野暮ってもんだろ」
「大した自信だね。俺がここから逃げるかもしれないのに」
「断言してやる、お前は逃げねぇ。やっと会えたイザーミィを見捨てられるのか? それができるなら、とっくの昔に仲間を探すのを諦めて、自分のためだけに生きているはずだからな」
思わずミナムはナウムから視線を逸らす。
嫌になるほど、こちらの性格をよく分かっている。
苦々しい思いに顔をしかめるミナムの肩を、ナウムがポンと叩いて「じゃあな」と部屋を出ようとする。
扉の前に立った時、彼はくるりと振り返った。
「オレの部下になると言うまでは、イザーミィの所には連れて行かねぇからな。気が済むまで、じっくりここで考えて覚悟を決めてくれよ」
返事などできる訳もなく、ミナムは無言でナウムを見送る。
彼が去った後、その場から動けず、ずっと扉を睨み続けるとしかできなかった。




