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「……ねぇ、起きて」
誰かが僕の体を揺さぶり、声を掛けてくる。一体誰の声だろうか。聞いたことのない少女の声だった。
「こんなところで、寝てたら危ないよ」
体に加えられる振動が激しさを増す。彼女の声に導かれるように、僕の意識は覚醒していった。
目を覚ますと、僕を見下げる少女の顔が飛び込んできた。琥珀色の透き通った瞳と視線が交差する。歳は僕より少し上くらいの少女だった。おそらく、高校生くらいの人だと思う。少女のような幼い顔つきを残しているが、大人の女性としての片鱗も感じられる。
少女は僕が目を覚ましたことに気が付くと、にっこりと笑みを浮かべた。
「やっと起きたな~ 心配したんだからねー」
「……おはようございます」
目を覚ますと見知らぬ場所に僕はいた。
木々が生い茂る森の中の、少し開けた広場のような場所に僕は寝ころんでいた。上半身を起こすために、地面に手を着くと、土のやわらかな感触が返ってくる。
「おはようじゃないでしょ。もう、お昼前だよ?」
僕の傍にいる少女が困ったような笑みを浮かべて僕のことを見つめていた。
綺麗な栗色の髪は肩の辺りまで伸びており、衣服から飛び出る肌はうっすらと陽に焼けている。活発的な印象を受ける少女だった。
服装はタンクトップにショートパンツ。上から半袖のジャケットを着こんでいるが、肌の露出が多くて目のやり場に困る。腰には革製のポーチと、本物のようにリアルな剣がぶら下げられている。彼女はコスプレイヤーなのだろうか、すごくリアルなコスプレだった。
「ほら、掴まって」
少女は少し屈んで、左手を僕に差し出してくる。
僕は彼女の指示に従い、その手を掴んだ。やわらかな彼女の手の感触が、手のひらに伝わってくる。女の子の手ってこんなに柔らかいんだ、と初めて女の子と手を繋いだ僕は心の中でどぎまぎしていた。
「ほら、立ち上がるよ。せーの……」
「えっ?」
女の子は力強く僕の手を引っ張り、僕の体を無理やり立ち上がらせた。病室で五年も寝たきりだったというのに、すんなりと立ち上がることができたことに僕は驚きを隠せなかった。
「いつ魔物が襲ってくるかわからないから、早く街に帰ろうね」
「で、でも、僕歩けないから……」
「歩けない? もうしょうがないなー お姉ちゃんが背中を押してあげるから、頑張って歩こうね」
少女は僕の背中側に回り込むと、両手で背中を押し始めた。僕は成されるがままに、一歩踏み出す。
足がもつれて転びそうになる――なんてことはなかった。
僕の足は当たり前のように地面を一歩ずつ歩んでいく。五年間もベッドで寝たきりだったことなんて、嘘だったかのように足は大地を踏みしめ歩いていた。
生まれたときから僕は体が弱かった。人並みに生活できていた時期もあったのだが、五年前に僕は自力で立つことが出来なくなってしまった。それからはずっとベッドの上で過ごすのが僕の日常となっていた。
両親はいつか歩けるようになるからと、僕に言い聞かせてくれていたが、そんな未来が来ないことくらい僕にはわかっていた。だって、病名すら僕には教えてくれなかったのだ。
だけど、僕はその生活に不満なんてなかった――といえば、少しは嘘になるかもしれないけど。
漫画やアニメ、それにゲームなど、歩くことができなくても楽しめる娯楽はいっぱいあった。毎日のように叔父さんも遊びに来てくれるし、遊び相手にも困らなかった。
それに僕には『MKB』があった。対戦相手は叔父さんしかいなかったけど、毎日を僕は楽しく過ごしていた。
だから、僕は自分が泣いていることに、すごく驚いていた。
「……うっ、ぐすっ」
少女に引っ張られて、十歩ほど歩いたところで、僕は歩みを止めてしまった。瞳から大量の涙が零れ落ちてくる。悲しくはない。むしろ、嬉しいはずなのに、涙が止まらないのだ。
「どうしたの――って、泣いてる!?」
急に歩みを止めた僕を心配してか、少女が僕のことを正面に回って確認する。僕が泣いていることに気が付いた彼女は、驚いた声を出していた。
「もしかして、さっき私が引っ張ったときにどこか痛めた? ごめんね!」
女の子は自分の責任だと勘違いして、僕に謝ってくる。「君は悪くない」そう言いたかった。
「ご、ごめん……なざい……ごめん……なざい……」
僕は謝って泣くことしかできなかった。
人前だというのに、嗚咽を止めることができず、泣き続ける僕。そんな僕の頭に手が置かれる。やさしく手暖かい手のひらだった。
「話したいことがあるなら、落ち着いてからでいいからね」
彼女はそのまま僕のことを自分の胸元に引き寄せる。彼女の腕の中に包み込まれ、僕は彼女の衣服が涙で濡れてしまうのも気にせず泣いてしまった。結局、彼女は僕が泣き止むまで頭を撫でたり、背中を擦ったりしてくれたのだった。
「もう大丈夫です……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんかじゃないよ。また泣きたくなったら、私の胸に飛び込んで来ていいからね」
自分の胸元を叩いて、胸を張る少女。ほどよく女性らしさを象徴する胸が揺れて、僕は思わず顔を赤らめた。彼女のことが直視できずに、顔を背けてしまう。女性に抱き着いて泣きじゃくるなんて、凄く恥ずかしい経験をしてしまった気がする。
「もしかして、今になって、照れてきた? 別にそんな気にしなくていいのに~」
僕が顔を赤らめて逸らしたことに気が付いた彼女は、にやにやしていた。僕の顔の前に立って、こちらを覗き込んでくる少女の追求から逃れるべく、僕は彼女に先ほどから気になっていたことを質問した。
「そ、そんなことより! ここってどこなんですか? それと、あなたは何者なんですか? 僕はどうして、こんなところに連れて来られたんですか?」
木々が生い茂る森の中に僕たちはいたのだ。病院の中にこんな場所などなかったし、こんな森に見覚えもない。寝ている間に、連れて来られたと思うのだが、理由がまったくわからなかった。
それに、僕はあの時――
「落ち着いて、落ち着いてね? まずは、自己紹介からしようか」
彼女は腰にぶら下げていたポーチから、運転免許証のようなものを取り出してこちらに見せてきた。
「私の名前はリサ。冒険者ランクはDで、職業は魔法剣士。今はこの近くのスタツの街を拠点に活動しているよ。それで、君の名前は?」
「……僕の名前は大翔っていいます」
「ハルト? 珍しい名前ね」
「そうですか? 意外と多いと思いますけど……」
「男の子だったら珍しくないと思うけどね」
ん? 男の子だったら珍しくない? もしかして、リサさんは勘違いしていないだろうか。
昔から始めて会う人には女の子と間違われることがよくあった。彼女も僕を女だと勘違いしているに違いない。
「あの、僕はおと――」
「グォォォッォオッォオ!」
彼女の誤解を解こうと話し掛けたときに、突如として森の中に獣の叫び声が響き渡った。地を這うような、重く恐ろしい鳴き声だ。森の木々がざわめき、どこに隠れていたかわからない鳥たちが一斉に空に向かって羽ばたき始める。
「この声は、まさか!」
リサさんも驚いた声をあげると、周りをキョロキョロとして何かを探し始めた。腰にぶら下げている剣をいつでも引き抜けるように身構えている。
空を覆うほどの、見たことのない鳥たちが彼方に消え去ると、森の奥から一匹の巨大な熊が現れる。全身を真っ赤な毛で覆われた熊は、血走った眼をしながら僕たちの前にゆっくりと現れたのだった。