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pianissimo-ピアニッシモ-  作者: 伊勢祐里
第一楽章
9/41

8 ピアノを触らせてください

 ――B判定


 返却された模試の志望校の成績欄、合格判定は微妙な値が記載されていた。



「悪くないやん」



 横の席に座る奈緒美が、由香の華奢な手に握られた紙を覗き込んだ。



「そうかな…… この時期だと微妙じゃない?」



 由香と奈緒美は、共に同じ予備校に通学している。週に四日ほど。土曜は午前中、日曜は昼間も。土曜日である今日は、朝から模試の返却が行われていた。



「奈緒美は?」

「私はA判定やったで」



 奈緒美とは、同じ大学を志望しているはずだ。希望する学部は、違うものの、夏頃まで部活に励んでいた奈緒美に負けているというのは、もともとの出来を疑うほかない。



 はぁ、と由香は肩を落とす。返却された忌々しい結果の描かれた紙を小さく畳んだ。



「でも、点数は、10点しか変わらんで?」


 そう言って、奈緒美が自分の紙を見せてきた。彼女の言う通り、由香との点数の差は10点しか無かった。



「でも、その10点が問題だよ」



 由香は、ため息をつきながら長い机に突っ伏した。本番では結局、一点でも足らなければ落ちてしまうのだ。


「十分、このまま志望校狙える点数やで。まだ時間はあるんやし、由香は点数伸びてるって」


 九十度に傾いた奈緒美の笑みを、由香はぼんやり眺める。スチールの机に密着した片側の頬は、随分とひんやりとしていた。



 思えば、勉学で奈緒美に勝ったことは殆ど無い。中学生の時から、彼女は運動に勉強、どちらもに卒なくこなしていた。そんな奈緒美は、由香のことを時折、優しく褒めてくれる。だが、由香にとってその言葉は慰めにはならなかった。



「そうやって、慰めるの良くないよ? もっと追い込んでくれなきゃ」



「別に慰めてるわけじゃないで」



 子どもじみたイタズラを仕掛けてくる割に、奈緒美は大人びた考えをしっかりと持った人間だ。必ず物事の流れや本質をわきまえている。

 だからこそ、おどけることある。時には真剣に臨機応変なその姿が、どうも同級生だとは思えず、由香は大人を感じていた。由香へのからかいも、幼い子どもが意地悪にやっているようなものではなく、きっと思惑があるのだ。幼い由香は、間違った選択をしないように促されているに違いない。



 そう思うのは、偏屈なのだろうか、由香はそんなことを考えながら、机に散らかった筆記用具をカバンにしまった。



「お昼、戻って食べる? ここらへんで食べる?」



 よほど空腹なのか、奈緒美は腹を擦りながら由香に問いかけた。秋が迫り、あれだけ褐色の良かった彼女の肌は、わずかに白みを帯びてきていた。



「このあと、中学の頃に通ってたピアノ教室に行くつもりだから、この辺りで食べたいなぁ」


「ほんならイオンにでも行こか。フードコートにあるラーメン久々に食べたいねん」


 立ち上がった奈緒美は、斜め掛けのショルダーバッグを肩からぶら下げる。細い革のベルトが、大きな彼女の胸を強調していた。





 ――――――――――――――――――――





 完全に食べすぎた。半チャーラーメンセット、半チャー無料大盛り。半チャーが大盛りとはどういうことなのか。せめてライス定食にしておくべきだった、と由香は重たくなった胃袋の辺りを擦る。



 由香は、奈緒美と別れ、綺麗にレンガ調のタイルで整備された歩道を歩いていた。イオンのあるJR伊丹駅から阪急伊丹駅までは、少々距離がある。

 由香の通っていたピアノ教室は、阪急側にあった。満たされた腹には、丁度いい運動だ、と自分に言い聞かせて歩く。


 この数日、続いて雨が嘘のように空は綺麗に晴れ渡っていた。心地よい日差しが照りつけ、薄手のパーカーを羽織っていると、じんわりと背中に汗をかいた。



 駅前のアーケードのない商店街、その一角の雑居ビルの中にその教室はある。ピンク色のビニールの庇をくぐり、狭い階段をのぼると広い廊下に出た。奥へと足を進めるとカラフルなデザインのピアノ教室の看板がある。


 由香が通っていた数年目と変わらない風景、ファンシーな色合いの入り口は、子どもが多かったこの教室に合わせてだろう。恐る恐るピアノ教室の名前の書かれたガラスの扉を開く。正面には受付の台があり、若い大学生くらいの女性が座っていた。



「どうされました?」



 受付の女性は、徐に扉から覗く見慣れない高校生を見て、不思議そうに言った。



「えーと、ピアノが弾きたいっていうか」



 由香の目が泳ぐ、見知らぬ人と話す時、こうなるのは自分の悪いクセだと由香は認識していた。



「体験入学ですか?」



 受付の女性は、棚に並んだ無数の冊子からパンフレットのようなものを取り出す。


「いやー体験入学と言うか、すでに入学してたというか」



 また受付の女性は不思議そうな顔をして肩をすくめた。それもそのはず、由香の言っていることはトンチンカンでしかない。


「えーと、どういったご用件ですか?」



 なんと説明をすればいいのか。頭が真っ白になった由香の耳に、聞き覚えのある声が聴こえた。



「立花さん来たんやね」



 受付の女性の背後から、見慣れた人影が出てきた。


「お知り合いですか?」


 ええ、と微笑みを浮かべたのは、由香の元講師である宮本だった。首元くらいまでの髪は、少しパーマがかかっていて、以前よりも大人びて柔らかな印象を受けた。



「お久しぶりです」



 由香が軽く会釈する。


「あら、礼儀正しくなったんやね」



 宮本にそう言われて、以前の自分は一体どんな態度だったのだろう、と由香は心配になる。



「以前、この教室に通ってた子よ。あなたが中学生くらいの時くらいからかな」



 受付の女性には、覚えがないらしく「そうですか」とそっけなく返した。年齢が違えば時間も違う。幼少期なら集団レッスンだったが、伊丹に来てからは、由香も個人単位のレッスンがほとんどだったため、同級生の子などもほとんど覚えていなかった。



「それで立花さんは、なんのご用なんかな?」



 丁寧に促され、由香は、思わず顔を引き締める。開きっぱなしになっていた扉を閉めると、深く頭を下げた。



「ピアノを触らせてください」



 静かな空気が流れ、一瞬時が止まった。空調の音がロビーに響く。



 由香は、自分がなんの説明もできていないことに気づく。急に来てピアノを触らせろとは、なんと強引なことを言っているのだろうと恥ずかしくなった。

 きっと二人ともキョトンとした顔をしているに違いない。早く言い訳をしないと。由香は、慌てて顔を上げた。



 顔を上げたそこには、予想通りキョトンとした受付の女性の顔があった。ただ、その隣に立つ、宮本は由香の想像していない表情をしていた。笑顔を浮かべ、嬉しそうにしている。



「へ?」


 由香は、その表情を汲み取ることが出来ず、変な声が漏れた。



「いいですよ。そのかわり、誰も使ってない時間ね。事前に来る日、教えてくれたら使える時間知らせて上げるから」


 今の自分の説明で、宮本は何を納得したのだろうか。由香が疑問に思っていると受付の女性が納得したようにつぶやいた。


「あー立花さんって、昨日の電話の方ですか」


 そこで、由香はようやく気がついた。昨日、由香が行くと決めたあと、母が電話して宮本に伝えてくれていたに違いない。その電話を取ったのが、受付の彼女なのだろう。それなら、宮本の反応は納得がいく。



「今日は、第五教室が夕方まで空いているから使っていいですよ。何かわからないことあったら私か受付のあの子に聞いてね」



 事前に容易をしていてくれたらしく。腕鳴らしに使って、と練習用の簡単な曲の楽譜と鍵を宮本が手渡してくれた。


 ありがとうございます。由香はもう一度頭を下げた。鍵に書かれた番号の教室へと向かう。廊下を通れば、それぞれの教室の中では、由香と同じくらいの年齢の子がレッスンを受けていた。

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