表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
pianissimo-ピアニッシモ-  作者: 伊勢祐里
第一楽章
8/41

7 おばちゃん

「ただいま」


 濡れた制服をタオルで拭きながら、由香はリビングの扉を開いた。


「おかえり、濡れたでしょ?」


「まぁね」



 未だ降り続いている雨は、電車に乗っている途中で、いっそう強さを増した。ビショビショになったスカートを、由香はリビングに脱ぎ捨てた。



「お行儀が悪い」



 カウンターキッチンの奥から、鍋の煮込む音と一緒に母の声が聞こえた。


 はーい、と適当に相槌を打ち、手に持ったジャージに足を通す。

 

 由香は、机に置かれたテレビのリモコンを手に取ると、もたれかかるようにソファーに腰掛けた。外の雨模様とは打って変わり、紅葉の見頃を知らせるニュースが流れていた。



「お母さんお茶ー」



 お母さんはお茶じゃありません、という母の戯言が飛んでくる。

 関東人も在住が長くなれば、関西のおばちゃんになってしまうのだな、と由香は感心する。カバンの中から楽譜を取り出し、ガラスの机に広げた。



 東京から伊丹(いたみ)に引っ越して来たのは、由香が小学校5年生の時。父親の仕事の都合だった。

 ピアノは、東京にいた頃から始めていたのだが、その理由はぼんやりと覚えている気がする。


 そう、確か、まだ幼稚園くらいの時だ。母に音楽教室へと連れて行かれた。姉は、音楽に興味を示さなかったので、代わりに自分にやらせたかったのかもしれない。



「あら、楽譜? 由香、ピアノ弾くの?」



 こちらに来た母が机の上の楽譜に気づいた。手には、麦茶の入ったコップが握られている。



「うーん。文化祭で頼まれちゃって……」


「あら、それならカメラ持って見に行かなきゃ」


「別に来なくていいよぉ……」


 ありがとう、と由香は母から麦茶を受け取ると、すぐに口に含み二回ほど喉を鳴らす。



「でも由香がピアノを弾くなんて何年ぶりかしら」


「どうなんだろう」


 一体自分が最後にピアノを触ったのがいつだったか、由香にも思い出せない。


「嬉しいわ。由香、ピアノ嫌いになったのかと思ってたから」



 母がホッとした具合に肩を落とす。そんな母の様子に、何をそんなに心配していたのだろう、と由香は顔をほころばせる。それと同時に、妙な胸の引っかかりを由香は感じた。チクリと針で刺されたような。わずかだが、確かな痛みが左胸の奥をヒリヒリとさせた。


 辞めたいからやめただけだ。ピアノを辞めたことに深い意味は無かった、自分の中で確かめるように由香はそう唱えた。



「それじゃ、練習しないとダメね」


「そうなんだよ。でも、うちにもうピアノないからね」



 由香の家にあった電子ピアノは、由香が辞めてしまったあと、すぐに捨てられてしまった。少し強い拒否反応をしたせいだろう。見かねた両親が、すぐに処分した。思えば、そういうところで心配をかけていたのかもしれない。



「それなら、宮本(みやもと)先生のところ行ってみたら?」



 母から実に懐かしい名前が出た。

 宮本先生は、伊丹に引っ越してきてから、ずっと通っていたピアノ教室にいた先生の名だ。



「あー宮本先生か。元気かな」



「まだ、あの教室にいるはずよ。ちょっとくらいピアノ触るだけなら、タダでやらせてくれるんじゃない」


 まったくこの人は、関西人の図々しさが完全に感染ってしまったんだな、と思いつつ、由香は呆れながらコップに残った麦茶を一気に飲み干した。

毎日、更新しています。コメント、感想頂けるとうれしいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ