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pianissimo-ピアニッシモ-  作者: 伊勢祐里
第一楽章
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5 伴奏

 遠かった雷鳴が間近に迫っていた。薄暗い教室に稲光が走る。そのたび、女子生徒の甲高い声音が教室に響いた。



「静かにしなさい」



 教壇から荒らげた声が飛ぶ。白いチョークを片手に、怪訝な顔をしているのは、このクラスの担任である加藤美久(かとうみく)だ。

 なめらかな長い髪は、後ろで束ねられ、卵のようなその丸みを帯びた輪郭を強調する。確か、年齢は三十歳過ぎだったはず。彼女の肌は、その年齢を感じさせない美しさを纏っていた。



 その美貌からか、彼女は男子生徒からだけでなく、女子生徒からも人気があった。毎年、春先には、彼女が担当する音楽の授業に当たるかどうかで、ひと盛り上がりあるほどだ。担任にともなると、他のクラスの生徒から妬みに近い声を聞くこともある。



 しかし、怒らせた彼女と、雷どっちが怖いか。生徒たちは、よく知っていた。ホームルーム中の教室がすぐに静かになる。美久は、教室を見渡し満足げに頷くと、黒板に文字を書き話を切り出した。



「来月の文化祭の件なんやけどね……」



 久美の話も虚ろに、由香はぼんやりと英語の単語帳を捲っていた。難しい英単語が並ぶ。それでも、何度も繰り返し見たものだ。頭の中で意味を思い浮かべ、赤いプラスチックの半透明な下敷きをずらす。正解であることを確認して、また次のページを捲る。そうしながら、ぼんやりと昼食の時のことを思い出していた。


 昨日の帰り道、奈緒美に話してしまったことへの後悔の念が押し寄せた。彼女は、絶対に面白がっているし、汐織(しおり)は楽しんでいる。汐織は、女子中出身でこういう色恋沙汰が特に大好きなのだ。



 はぁ。深いため息が漏れる。その瞬間、背中を小突かれた。それと同時に、由香の鼓膜が微動する。



「由香、前」



 背後から、奈緒美の吐息混じりの声色が聞こえた。

 思わず顔をあげると、久美が由香の方をじっと見ていた。



「立花さん? やってくれる?」



 立花。それは、確かに自分のことだ。どうやら、何かを問いかけているんだなと、由香はぼんやりと理解した。ただ、やってくれる、とは? 全く話を聴いていなかったせいで、なんのことかさっぱり分からない。



「立花さん?」


 美久が、再度、首を傾け回答を急かすように問いかける。柔らかな黒髪が、ふわりと湿った空気に持ち上げられるように、ふわりと揺れた。何名かの生徒は、由香の方を見ていた。前方の席では、皆に紛れ、汐織がこちらを見ながら目を輝かせている。どうやらなにかを頼まれているらしい。



「えーと、なんのことでしょう」



 由香は、手に持った、英単語帳を机の下に隠しながら苦笑を浮かべる。


 もー。と美久が牛みたいな言い草を放った。机の下に隠したものには、気づかないフリをしながら、呆れた素振りで、黒板を手の甲で軽く小突いた。



「ピアノの伴奏をしてくれる予定だった久慈(くじ)さんが、文化祭の当日、受験になったちゃったから、立花さんにピアノの伴奏の代わりをしてほしいの」



「えーと、私がですが……」


 由香の通う西宮西(にしのみやにし)高校では、秋に西高祭(にしこうさい)という文化祭が行われる。例年、受験を控えた三年生は中心にはならず、二年生の主導で催されていた。ただ、全く参加しないというわけではなく、準備の負担が少ない催し物で、三年生も参加するというのが通例となっていた。



 そしてこの年、由香たちのクラスは、体育館で合唱を行うことになっていた。



 男子たちは、合唱にあまり乗り気では無かったが、「夏休みに準備なし、本番も5分で終わって、自由行動の時間もたくさん取れるで?」という奈緒美の一言でまとまった。



 奈緒美は、人を束ねる才能に長けている。中学の頃からクラスの中心となり、皆を先導してきた。自分には、真似のできないことだ、と由香は一目おいている。


 それにしても、なぜ合唱なのかというと、5月の上旬に行われた合唱大会で由香たちのクラスは見事に優勝した。そのクラスが文化祭のステージでアンコール代わりに、もう一曲歌うことに違和感ある? これが奈緒美の言い分だ。



 面倒臭そうな売店やお化け屋敷だのといった案が上がる中、見事に奈緒美のこの意見は可決された。



「どう? 立花さん?」


 再び、美久が問いかける。



「いや、無理です、無理です」



 由香は、両手を顔の前に伸ばし、首と一緒に、横に振った。反動で、腿の上に置いた単語帳がガサッと床に落ちる。



「どうしてもダメかしら? 久慈さんの次にピアノ歴が長いのが、立花さんらしいんだけど」



 おかしい。美久には、ピアノをやっていたことを伝えていないはずだ。そもそも、高校に入ってから、ピアノをやっていたなど誰かに伝えた覚えはない。

 由香がそんなことに思考を巡らせていると、教卓の前方の席に座る汐織が目を輝かせながら、親指をグッと突き立てた。



 絶対、あの子だ!

 由香の眉間に、濃く皺がよる。そんな由香の視線など全く気にとめない様子で、汐織は満面の笑みを浮かべた。突き上げた指をパーにして手を振り、上機嫌に微笑でいる。



「クラスを助ける為だと思ってやってくれないかしら」


 美久が手を合わせ、申し訳なさそうに頭を下げる。年上といえ、妖艶な美貌の彼女に、こんな行為をさせることが、なんとも言えない背徳感があった。


「でも、ここ最近ピアノなんて触ってないですし」


「もちろん、練習の時間はホームルームで取るし、受験勉強に差し支えのない程度で構わないの」



 ふっ、と周りに目を向けると、みんなが由香の方を見ていた。どうも断れる雰囲気でない。



「わかりました…… やります」



 降参するように由香は、ため息混じりでそう答えた。



 美久は思わずといった具合に、肩と眉がふっと下がった。乗り気ではない生徒に押し付けたようで気が引けているらしい。



 思わぬ仕事を引き受けてしまった。ピアノか、心の中で悔恨の吐息が漏れる。



 再び、背中を指で突かれた。奈緒美が「ユカー」とつぶやく。それが自身の名前でなく、床に落ちた単語帳のことだと、しばらくして気がついた。

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