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pianissimo-ピアニッシモ-  作者: 伊勢祐里
第二楽章
17/41

5 ピアノを聴かせて

 由香は、ピアノの椅子に腰掛けた。西日が教室の中に差し込んで、レースのカーテンが白と黒の鮮やかな模様を床に作り出す。


 鍵盤に手を添えた。由香の脳内に、先日の美しい音色が蘇る。つい顔が緩んだ。今、胸の中に溢れる温もりは、西日が包み込んでいるせいなのか、それとも彼を感じているせいなのか。耳をすませば、聴こえてきそうな彼のピアノの音色に心を寄り添わせた。


 昨日はよく眠れなかった。夜が早く明けてくれないだろうか。思いを抑えて眠ろうとしたが、彼と会えると思うと中々に寝付けなかった。


 キィッー、と甲高い防音の扉が開く音が聴こえた。「おまたせ」と優しい声が同時に耳に伝わる。


 由香が振り返れば、楽譜を手に持った彼が立っていた。


本条(ほんじょう)くん?」


 確かめるように由香は問いかけた。


 彼は、ハッと、気がついたように口を開いた。


「自己紹介していなかったよね。本条(そう)です」


 彼は、驚くほど丁寧に頭を下げた。


「いえ、私も。あの、立花由香です」


 つられて、由香も立ち上がり頭を下げる。由香のその改まった態度に、颯は思わず肩を揺らした。


「なんか私、変なこといいました?」


 颯の反応を見て、由香は取り繕うように目をキョロキョロさせる。緊張のせいか、自分が何を言ったのか直前の記憶がない。 


「ごめん、ごめん。君があまりにも硬かったから。大丈夫。普通の挨拶だったよ」


「本条くんだって硬かったじゃないですか」


 そう言って、無意識に頬を膨れさせた自分の態度に、思わず恥じらいが込み上げる。


「そうかな?」


 颯は首をかしげた。彼の品のあるその態度も、どうやら無自覚らしい。すぐに、そうそう、と思い出したように颯が手に持った楽譜を由香に差し出した。


 由香はそれを受け取ると、「ありがとう」とあまり畏まりすぎないようにお礼を告げた。

 密かな笑みの中に、由香は幸せを秘める。受け取った楽譜を、ギュッと胸の中に抱き寄せた。


「それじゃ、早速だけど、ピアノ聞かせてくれないかな?」


「え? 私がですか?」


「ほら、この間の続き。文化祭で演奏するんだよね?」


「いや、私の練習なんかに本条くんを――」


「颯でいいよ」


 そう言われ、由香はもじもじと楽譜の端を照れながら指で弾き言い直した。


「颯くん、」


 脳内に自分が言い放った名前が響く。熱い血が脳内を駆け回り、照れから行き場を失った手が洋服を掴んだ。薄いピンクのカーディガンにわずかに皺が寄る。ほんの少しだけ反らした視線に、西日を反射した窓の銀縁の光がぶつかった。


「付き合わせちゃ悪いですよ。私はただの文化祭の練習だし」


「いいんだよ。僕は、君のピアノが聴きたいな。それに今日の分のレッスンは、家でつけてもらってるし」


 あまりにも柔らかなその笑顔は、由香に言い訳の余地を与えなかった。由香は、楽譜をピアノに置くと椅子に腰掛け、息を吸い込んだ。

 背中に颯の体温を感じる。頬の真横を颯の腕が伸びていく。肩まで伸びたくせっ毛が、楽譜を指差す颯のセーターの二の腕あたりに、寄り添うように絡みついた。


「それじゃ、ここから弾いてみよう」




 ――――――――――――




「随分、良くなったよ」


 颯の柔らかい声が、静かな部屋に馴染む。


 どれくらい弾いていたのだろうか。窓の外では、小さな街頭が、ぼんやりと明かりを灯していた。レースのカーテンが、その光の発信源の数を曖昧にさせる。


「あ、私。つい遅くまで、ごめんなさい」


 楽譜を受け取るだけのつもりだったのに、長々とレッスンを受けてしまった。


「いやいや、こっちも好きでやってたんだし」


 そう言って、颯は口端を緩ませる。その嘘のはらんでいない笑顔のせいか、つい由香の口元も緩んだ。


「その…… ダメじゃなければ、一曲聞かせてくれませんか?」


 ついおねだりのようなことを言ってしまった。慌てて、開いた自分の口を抑える。颯は、気にしてない素振りで鍵盤の上に手を置いた。


「それはべつに構わないけど。立花さんは時間……」


「由香で大丈夫です!」


 思わず出た自分の言葉に驚いた。颯も由香と同じような反応をする。それから、少し

 だけ思考を巡らせるように彼は瞼を閉じた。おもむろに彼の長い睫毛が持ち上がる。


「由香ちゃんは、時間大丈夫?」


 そう言いながら、颯は少しはにかんで、右手で優しいメロディを紡いだ。手遊びのはずなのに、涙が出そうなくらい美しい旋律をしていた。


 自分で訂正をするように促して、赤面していることがものすごく恥ずかしかった。顔を隠すように、床に置いたカバンから携帯を出して時計を確認した。時刻は、十九時を少し過ぎたくらいだった。


「まだもう少し大丈夫です。家もそこまで遠くはないので」


「そうか。じゃ、一曲だけ弾こうかな。何がいい?」


「いえ、なんでも大丈夫ですよ。颯くんの好きな曲をお願いします」


「そうだな……」


 由香は、颯の考える顔をじっと見つめた。彼の真っ直ぐした目が愛おしい。透き通ったその目で今、何を考えているのだろうか。


「よし。それじゃ、一曲演奏させていただきます」


 演奏する曲を決めたようで、颯が改まって頭を下げた。「いえ、こちらこそ、お願いします」と由香も取り繕うように頭を下げる。


「えーと、」


 颯が困った様子で、椅子に座った由香の方を見つめた。


「席を譲ってくれてもいいかな?」


  そうですよね、と由香は慌てて席を立つ。どうぞ、と手を差し出し椅子を譲った。



「それじゃ、改めて。演奏させていただきます」


 席に座ると、こちらの方を向き、もう一度頭を下げた。二人しかいない中でも、礼儀を欠かさないのは、演奏者としての彼の気品の所以なのかもしれない。


 彼が静かに息を吐き出した。教室に一瞬、静寂がはりつめる。彼の醸し出す緊張感が由香にも伝わった。

 彼の肩がピクリと揺れる。吐き出された息が、静寂を貫くように由香の耳に響いた。視界の中には、黒い光沢を放つ美しいグランドピアノと彼しか映らない。


 口調の音も空気の流れの音も聴こえない。彼の作り出す雰囲気がすべてをブラックホールのように吸い込んでいった。次の瞬間には、まるで何かが弾けたようにピアノの音が流れ出した。先程までの静寂のせいか、始めの一音目はまるでビックバンが起こったように強烈な音に感じた。次第に曲は、優しいメロディを奏でだす。



 ドヴォルザーク『交響曲第九番「新世界より」第2楽章』



 散りばめられた音たちが、ピアノの屋根に反響して部屋中に広がる。壁に吸い込まれていく音たちを追いかけるように、次から次へと音の波が打ち寄せる。


 由香が目を閉じれば、何もない広い荒野に続く一本の道が眼前に広がった。その荒野を吹き抜ける優しい風が、家路に着く誰かの背中を押す。ドヴォルザークが新世界アメリカで故郷のボメミアを思い作った作品。

 それをこうして演奏する彼は、いったい何に思いを馳せているのだろうか。遠く懐かしい何かを求めているような音の旋律が、由香の心の脆いところをついてくる。

 もう手にすることの出来ない切なさが、その音たちには込められていた。それと同時に、希望のような明るい輝きが混在している。彼の美しい音色に耳を傾けながら、由香はそんなことを考えていた。

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