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pianissimo-ピアニッシモ-  作者: 伊勢祐里
第二楽章
13/41

1 大好きなピアノ(間奏曲・記憶)

 ――拍手が降り注ぐ。由香は、コンサートホールの舞台の木目を、じーっと見つめていた。薄水色の綺麗なドレスから黒いローシューズが覗く。なんて自分の身の丈に合わないものなんだろう、と思わず吐き気を催しそうになった。さっきまで鍵盤を弾いていた手が、ほんのすこしだけしびれていた。


 由香は、顔を上げた。ライトの眩しさに、一瞬閉じてしまった瞼をゆっくりと開く。たくさんの観客が一点に、由香の方を見つめていた。この群衆は、どんな表情をしているのだろう。

 スポットライトの光のせいで、客席はぼんやりと滲んでいた。賞賛? 嘲罵? それとも、ただ無表情で形式的に手の平をぶつけて音を発しているだけなのだろうか。自分の演奏は、それほどでもないのだから、きっと彼らは伝染的に拍手をしているに違いない。



 由香は、唇を噛み締めた。口には、慣れないグロスの人工的な甘さが広がる。



 客席からの拍手が鳴り止むと、ホールの中は静寂に包まれた。まるで、世界中から誰もいなくなったように感じる。孤独に追われるように、由香は舞台袖の方を向いた。


 何度も立ったことのあるステージの端までが、随分と遠く感じた。


 コツコツと、一歩を進めるたび靴の踵が音をたてる。森閑としたホールで、その音は嫌というほど大きなものに感じた。そしてその音にさえ、視線が向けられている。背中に何百という眼差しを感じる。由香は、今すぐ走り出し、すぐにこの場からいなくなりたいと思った。


 由香を救うように、次の演奏者を告げるアナウンスが流れた。群衆たちは、そのアナウンスに反射的に拍手をする。

 袖に戻ると、由香はひどく安心した。薄暗いその場が、ひどく居心地が良かった。まだ少し震える手で、額の汗を拭う。スポットライトのせいで、薄っすらと滲んだ汗がファンデーションを溶かしていた。


 由香は、ふと、舞台を振り返る。次の演奏者がきらびやかなライトを浴び、深々とお辞儀をしていた。美しい光の輪郭が四方から差し、まるでピアノが鮮やかなプリズムの中にあるようだった。


 自分があんなに、美しいあの場所にいたことが信じられなかった。同時に、そこにいたという事実が、耐え難く苦しいものに思えた。


 いつからだろう、こんな気持ちになったのは。


 あの舞台に、凛々しく存在するピアノを嫌いになったことは一度もない。そればかりか、手から紡ぐ音の感触が未だに恋しい。それなのに手が震える。舞台のことを考えると、喉の奥がひどく酸っぱく感じた。


 好きと苦しい。そんな居心地の悪い思いが、心の中で互いに譲ろうとしない。由香は、ワンピースの裾を握りしめた。心の中でぶつかりあった気持ちたちは、整理がつかないまま表へと現れだす。


 雫が頬を伝う。奥歯を噛み締めたせいで、こめかみの辺りが少し痛い。口の中をわずかな鉄の味が支配していた。


「由香、お疲れ様」


 母の声を聞き、慌てて涙を拭う。振り返ると、紙パックのジュースを持った母が優しい笑顔を浮かべていた。


「うん」


 由香は、何気なく返答する。自分でも驚くほど、平然とした返しだった。


 それでも、流した涙をバレたくなくて、思わず視線を反す。その反らした視線の先に、勢いよく紙パックのジュースが飛び込んできた。床に激しくぶつかったジュースは、その角をへこませる。

 突然の出来事に驚いていると、激しく視界が揺れた。母の手が由香の肩を揺する。慌てて正面を向くと、母が心配そうな表情で由香の顔をじっと見つめていた。


「由香? どうしたの…… 大丈夫?」


 きっと涙は、見られていないはず。それなのにどうして分かるのだろうか。胸のポッカリと空いた部分が、少しずつ満たされていく。


 こらえていた大粒の涙が急に溢れ出した。自分ではどうしようもなかった。まるで声にならない思いを、すべて流しきるように瞳から溢れ続けて止まらなかった。


 何も言えず、ただ由香は泣き続けた。温かな母の胸の中で、どれくらい泣いていたかわからない。

 そして、ようやく泣ききった由香は母親に告げた。


「お母さん。私、ピアノやめる」


19時頃に、次話更新予定です!


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