月に惑いて(後)
家に着くと、出迎えた母がついさっき私に電話があったと告げた。
それは、思いもかけない人からだった。
高校時代、大好きだった人。
帰ったら連絡が欲しいと、彼の言伝。
電話器の横のメモ用紙には、微かに記憶に残る彼の自宅のナンバーがあった。
私は、ちょっとためらいながら、受話器をとった。
短い呼び出し音の後の、懐かしい声。
「今から、逢いたい。」
その言葉に戸惑いながら、気がつくと私は迎えに来た彼の車の助手席に座っていた。
変わっていない、彼。
大好きで、大好きでたまらない人だったのに・・・。
私は努めて平静を装って、お互いの近況を軽口を叩きながら報告しあった。
彼が車を走らせたのは想い出の公園。
予感はしていた。
湖のほとりの駐車場は、白い月明かりに皓々と照らされていた。
緑の芝生には月の霜が降りている。
湖の湖面だけがどろりとどこ迄も黒くて、遠くの街灯りがゆらゆらと揺れていた。
彼の口数が少なくなる。
彼は、変わっていない。
地元を離れて、東京の大学へと通っている彼。
一緒に居た頃はいつも我が儘だった。
いつも自分の都合のいい時だけ、子供のように甘えてきた。
その度に私は深く傷付いた。
でも、大好きだった。
彼は全然変わっていない。
言葉が、途切れた。
「や・・・先輩やめて。私、今好きな人がいるの。」
そんな言葉とは裏腹に、重ねられた唇が昔を想い出す。
「なんで。今さら・・・こんなこと。」
遠い記憶になり切れないその腕を引き離して、窓ガラスに頬をつける。
泣きたいくらいに、冷たい。
見上げると頭上に満ちた月。
「・・・月のせい、かもな。」
倒していたシートを起こしながら、彼が独り言のように呟く。
出来ることなら、ふらふらと惑うこの思いを私も月のせいにしたかった。
「そうね、多分。月のせいね。」
頬が痛くなっても、私は窓ガラスから離れることが出来なかった。
彼の方を今振り向いてしまったら、また堂々巡りになりそうだったから。
黙って月を見ていた。
つい先程迄、幸せな気持ちで自転車に乗って同じ月を眺めていたことが、嘘のようだった。
夢のように遠く感じた。
薄氷のような月の切れそうな程の輪郭が少し滲んだ。
それが何故かは、考えたくなかった。
月がそんな私を、ただ冷ややかに見下ろしていた。
漆黒の湖に沈めた遠い記憶。
月だけが、知っている―。
今宵は、満月だから。
あの夜の、思い出のかけら。