月に惑いて(前)
「いつでも、どうぞ。」
人懐っこい笑顔でそう答えてくれた彼の優しさに甘えて、その日も
自転車を走らせた。
こんな小さな町でも、夕暮れ時は仕事帰りの車で混み合う。
家路を急ぐのか、これから繁華街に出かけるのか、町の中心部の
舗道には沢山の人たち。
その波を縫うように彼の場所へと向かう。
北の地方から出てきた彼は、私の住む町の大学に通っていた。
訛りはないが、北の出身と聞いて勝手に頷けるような赤みのある
頬と、黒くて豊かな眉毛、そしてそれとは対照的に笑うとなくなる
目が可愛らしい感じの人だった。
ふとしたことから出逢い、色々と手伝ってもらううちにいつのまにか
親しい友人になっていた。
入院しがちの私に、退屈しないようにと彼の好きな本や音楽を届けて
くれて、沈みがちな私の傍で他愛もない話を柔らかくてちょっと低めの
声でしてくれたりもした。
行き詰まった私をお芝居を観に誘ってくれたり、海へと連れ出して
くれたりもした。
真昼の水族館、肩を並べて見上げた星空。
・・・素敵な想い出のかけら。
なんて書くと、お互いに惹かれあいハッピーエンド、めでたしめでたし
ってなりそうだけど、実はこの後私は彼に振られてしまうのでありました。
でもこの話は、まだそのずっと前のドキドキに胸を高鳴らせていた頃だから。
そんな未来を知ることもなく。
彼の優しさに、ただ甘えていた。
居心地がとてもよかったから。
彼は仕送りもない国公立に通う学生だったから、週に何日か小さなビジネス
ホテルでフロントのバイトをしていた。
フロントのすぐ裏手には、畳張りの休憩室があった。
その窓は、ホテルの隣にあるマンションの駐車場のフェンスをよじ登れば
いとも容易く忍び入ることが出来た。
(なんか、犯罪みたい〜)
休憩室に灯りがついている。
すりガラス越しに、テレビのモニタが点滅している。
彼が、いる。
コンコンコン。
ノックすると、黒い影が近付いてきてするりと窓が開いた。
「こんばんは。来ちゃった。」
「いらっしゃい、どうぞ。」
彼の優しい笑顔が出迎えてくれる。
そうしてフェンスを越え、靴と、手を彼に預けて畳に着地。
それから、いつものようにほんわかとした時間を過ごした。
「そろそろ、帰るね。」
彼が負担にならない時間で切り上げる。
本当はもっと一緒に居たいけど・・・。
来た時とは逆の手順で、外に出る。
寒い・・・。
思わず首を竦める。
秋深い夜は、思った以上に気温が下がっていた。
見上げると空には満月。
気をとり直して鍵を外し、サドルに跨がる。
「小夜子さん、待って。」
自転車を漕ぎ出そうとしたその瞬間、彼の声が追い掛けてきた。
「これ、よかったら着て。ないよりは、マシだと思う。」
振返ると彼が、季節外れの白い上着を手にしている。
休憩室に置いてあった彼の私服らしい。
汚れててごめんね、と彼が手渡してくれる。
ありがとうと微笑んで、早速羽織りジッパーを目一杯上げた。
嬉しい・・・。
「今日は、満月なんだね。」
今気づいたかのように私も空を見上げる。
ほんのちょっと、時が止まる。
鼻の頭が冷たくなるのも気にならない程、至福の帰り道。
幸せだった。そんな些細なことで。