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6・おてらはなやみをうちあけるところです

 数日後の放課後、アニーは再び美味を待って一人屋上に来ていた。クラスに居るとあの男子生徒や、小日向先生に見つかってしまうと思ったからである。


 屋上に設置されたベンチにたたずみ、購買で購入したパックのオレンジジュースにもまったく手をつけず、空を流れていく雲をぼんやりと見ているだけだが、頭の中は硯耶先輩の後ろ姿とベレッタ1996コレクションの事で一杯だった。


 硯耶先輩の思い……自分の想う道を曲げなければいけない辛さは、痛いほど解る。しかしだからと云って、自分が射撃部に参加する事にはためらいがあった。『あんなつらい思いをするぐらいなら』と思って決別した射撃に戻れば、また辛い思いをするかもしれないという不安がアニーの心に重くのしかかっていた。


 ふと見下ろすと、校庭のテニスコートにいる美味が目に入る。


 ベテランの上級生と激しいラリーを続ける美味は、まるでもう何年もテニス部に居るかのようだ。試合が終わり、負けた先輩から賛辞を受ける美味だが、相変わらずその顔からは勝利の喜びは感じられず、張り付いたような笑みからは虚しさしか伝わってこない。


 テニス部のメンバーは気が付かないのだろうか?

 自分にしか判らないのだろうか?


 美味はあんなに活躍できるのに、一つの部に所属しないのはなぜだろう?


 部に所属すれば確実に好成績が残せそうだが、本人は一つの部に所属しないと明言している。まるで自分の成績を残さない様にしているかのように。


 とはいえこのまま自分も部に所属しなければ同じ事なのだが、アニーはいま女子サッカー部から勧誘を受けていた。バレーボール部や陸上部、バスケットボール部からもその背の高さを買われて勧誘されたが、オーストラリアでやった事が無いスポーツには興味は持てなかった。入部テストには合格し、あとは本人が入部届けを出すだけだった。


 文化系の部活も日本への理解を深めるには良いかとも思ったが、茶道や華道はどうも自分には無理そうで、どちらも足が拷問にあったかのようだった。


 書道部にも一応行ったが、やはり今はパフォーマンス中心のようなので、パフォーマンスには興味が無いと言って部室を後にした。しかし部室に貼ってあった〝スミ〟というもので描かれた文字にはいたく感激した。力強さと繊細さを併せ持ち、なおかつ正確な流れのその文字はもはや芸術の域に達していた。思わず『あのワードを書いたのは誰ですか』と尋ねたが、うやむやな返事が返ってきただけだった。


 心が揺れているのが解る。硯耶先輩を助けてあげたい気持ち、また自分が傷つくのは避けたいという気持ち、その両方が自分の中でせめぎ合っているのがわかる。


「あああ~もう!」


 思わず頭をグシャグシャとかき乱してしまう。


「硯耶先輩の事が、そんなに気になるのかな?」


 突然声を掛けられ驚いて後ろを見ると、美味がいつもの僧服のままテニスラケットを持って後ろに立っている。その取り合わせの可笑しさ加減に、思わず噴く。


「Weird style! 変な恰好ね、美味さん」

「ひ、ひどい! そんなに言う事は無かろう!」


 思わず落ち込む美味だったが、アニーを見て気を取り直す。


「アニー殿こそ、そんなにヘアスタイルを乱すほど、硯耶先輩の事が気になるのか?」

「Oh,God!」


 アニーは髪に手をやるが、すぐに寂しそうに笑って上を向いた。自分の顔に浮かぶ戸惑いを隠すかのように。


「……書道部を訪ねた時、壁に掛けられたビューティフルな文字を見つけたの。誰が書いたものかとアスクした時の、部員達のレスポンスはおかしかったわ。あの文字はきっとスッズーリヤ先輩が書いたものだったのよ……だから部員達はハッキリ言わなかったのね」

「ふむ、硯耶先輩も難解な問題を抱えておるのぉ……」


 さすがの美味も困ったような顔をしている。


「しかし最終的にはどの道を選ぶかは、硯耶先輩の気持ち一つじゃからな。……ところでアニー殿はどうするのか? 硯耶先輩の願いを聞いて、射撃部に入部するか?」

「…………」


 アニーは言葉に詰まった。


 硯耶先輩の事は他人事には思えない。原因はともあれ、自分が進んできた道を途中で諦めるつらさは痛いほど解る。しかし、やはり自分自身が一度諦めた道に戻ることには抵抗があった。考えがまとまらず、自分がどうすればいいのか全く判らなかった。


「……アニー殿、わしの家……本堂に来ぬか?」

「家? ホンドー?」

「せっかくの機会でもあるし、立ち話もなんじゃ。わが家にて少し話して行かぬか」

「…………」

「アニー殿にも腹蔵あるようじゃ、硯耶先輩の件も含めて話をさせて頂きたい」

「…………」

「我が寺は日本でも有数の禅寺じゃ、見に来るだけでも価値はあるぞ」

「……OK、行きましょう」


 アニーは腹をくくって応える。


   ◇


 凄い、驚いた。

 宿坊から少し離れた道を歩いていくと、延々と続く杉並木が現れ、そこからはまるで別の空間に入り込んだような感覚だった。まったくの無音の空間に、二人の足音だけが響く。人工の空間にこれだけの静寂があるのに驚いた。


 杉並木が終わり、時代を感じる苔むした石階段を上る。左右に池があり、ハスの葉が浮いている。山門を見上げると、山門から見える空間が全て少し黒ずんだ薄い緑色で埋まっている。なんだろうと思って登っていくとようやく判明した。緑色だったのは本堂の屋根の色だった。


 庭は掃き清められ砂には独特の模様が描かれていて、もはや庭園の域に達している。


 その庭を迂回するように回廊を歩き、袖の玄関に回る。玄関で靴を脱ぎ、きれいに磨かれた廊下に上がる。美味が丁寧に草履を揃えるのを見て、慌てて倣う。美味のきっちり揃えた草履はそれだけで輝くようだった。アニーは日本の寺の持つ様式美に唖然とした。


 建物だけでなくそこに住まう人がそれに恥じぬ行いをする、アニーはその事に気が付いて感激を受けた。きれいな廊下を渡り、一度外に出て回廊を廻り、本堂に入る。


「ワォ……」 


 アニーは更に感嘆の声を上げた。薄暗い本殿はろうそくの火が灯されその灯りのみで照らされている。本尊の釈迦如来像が優しく微笑み見下ろす姿に、アニーは魅入られた。


「ささ、座られよ」


 美味はアニーに、い草で編みあげられた座布団を勧める。見ると、美味は少し豪華に見える紫の座布団に座っている。少し差をつけられた様で不満だったが、今はそれが二人の今の状況を正しく伝えているようだった。


「さて、アニー殿、なにか聞きたい事があるのではないか?」

「オフコース、シュア。美味さん、ユーはやっぱりパパかママからなにか聞いているわね」

「? 一体何の事じゃ?」

「とぼけないでよ! ワタシがシューティングを捨てた事をパパかママに聞いているはずよ! そうじゃなきゃ……」

「アニー殿、御両親が拙僧に話したのではない。拙僧が御両親に尋ねたのじゃ。アニー殿が何を悩んでいるかを。そしてそのきっかけを作ったのは……アニー殿ご自身じゃ」

「ワ、ワタシが?」

「登校初日、アニー殿を起こしに行った時じゃ……ふすまの前で待っておると、アニー殿の呻き声が聞こえるではないか、『ヒットした……ヒットしたのに……』と。思わずふすまを開けて覗いた時には、既にアニー殿は起きておった。

 あの切羽詰まった声はただ事ではない。そこでオーストラリアの御両親に尋ねたのじゃ。『アニー殿のあのうなされ様はただ事ではない、なにやら問題があるのではないか』と」

「…………」

「御両親はなにがあったかは申さなんだが、日本に来る前の最後の射撃大会が理由であろうと仰っていた。アニー殿が射撃部に入る事をためらう理由は、それではないのか?」

「…………」


 暗い本堂でアニーの沈黙が続く。ジィっとろうそくの芯が焼ける音が本堂中に響くほどの静寂。その静寂を破ってアニーが口を開く。


「……ワタシはオーストラリアで十二歳の時からママにクレーシューティングを習い始めた。パパも安全にケアして頑張れ、って言ってくれた。三年間、ひたすらクレーシューティングのテクニックを磨いてきたわ。スコアがどんどん上がっていくのが楽しくてしょうがなかったの……。そしてオーストラリアでの最後のシューティングマッチ……ラスト1ショット……最後のショットが命中すれば、ワタシはチャンピオンになるはずだった……」 


 静かに思い出を語っていたアニーだったが、そこで声が変調する。


「ワタシは確かにヒットさせた! サンシャインが雲の間から光ってタイミングは遅くなったけど、最後のクレーを確かにヒットさせたのよ! でもメインジャッジはセンターポールをオーバーした、とジャッジしたの。センターポールって云うのはレンジの中心に立っている白いポールで、ラスト1ショットはそのポールの手前でヒットさせなければならない……そのポールをクレーがオーバーした、ってメインジャッジは言うの。

 試合を見ていたサブジャッジの二人と協議になったんだけど、一人は『いや、オーバーしていなかった』と言うし、もう一人は角度的によく解らなかったって言った……。ワタシはセンターポール前で撃破した自信があったけれど、何も言わなかった。ジャッジにクレームをつけるわけにはいけないから……。結局オーバーしたか、しなかったかプルーフする事が出来なかったので、メインジャッジの言うとおり私はワンヒットロストでトップタイになって、そのあとのシュートオフで私は負けて二位になった……でも……」

「でも?」

「納得出来ない! 絶対あれはバイアスド・ジャッジ(差別的審判)だったのよ! メインジャッジの人は、いつもワタシの事をリトルガールってバカにしていた。『リトルガールが大人よりいいスコアを出せない』、っていつも言ってた。ワタシはそんなバイアスに負けないよう、ソウハードに練習してきたのに……。リトルガールだからって『外した』なんてジャッジされるなんて! そんな〝運命〟ある?! ワタシは悔しくて……悲しくて……シューティングをリタイアする事を選んだの」

「…………」

「……パパとママに『ワタシはシューティングをリタイアします』って言ったわ。悲しい想いをする事に怖くなってしまったのよ……」

「…………」

「ワタシは自分をリセットする為に、交換留学を申し込んでジャパンに来た。パパやママはワタシのそんなマインドをケアする為に、ジャパンに来る事をOKしてくれたのかもしれない……。

でも忘れられないの、いまでも。ドリームを見るの。目の前を通るクレー、重なるサンシャイン、撃った後に響くホーン……そのたびにワタシは悲しい思いにさせられる。もう二度とあんな思いをするのはノーサンキュー。パパやママに心配を掛けてしまうのも、ノーサンキュー……だからワタシはもうシューティングに関わりたくないの」

「…………」


 美味は何も言わなかった。ただうつむいて微かに肩を震わせていて、まるで涙を堪えているかのようだった。


「……美味? ……さん?」


 アニーが眺めていると、美味の肩の震えはだんだん大きくなってきた。


「? 美味?」

「あ……あ……」

「あ?」

「あはははははははははははは!」


 美味は耐えかねたように大笑いを始めた。腹を抱えて涙を流し、ケタケタと高らかに笑いまくる。始めは唖然として見ていたアニーだったが、段々腹が立ってきた。


「な、なによ! ワタシの話が何かのジョークに聞こえる? ふざけないでよ! そんなにビッグに笑う様な話だった?」


 アニーが激昂して立ち上がろうとした時、表情を一変させた美味が一喝する。


「喝!」


 その裂帛の気合にアニーは衝撃を受け、へなへなと座布団の上に崩れ落ちる。そのアニーにきりっと表情を引き占めた美味が語りかける。


「これが笑わずにいられようか。神か仏か、はたまた双方か? アニー殿はせっかく示された教えの道に全く気が付かず、ただいじけて通り過ぎてしまった己の小ささを得々と語っておる……拙僧はそれを笑ってしまったのじゃ」

「ワ、ワタシが小さいですって?」

「そうじゃ。神や仏が、『自分の思い通りにならない事も世の中にはある』と教えてくれているというのに、その教えも噛み締めず今日に至ってしまったなど、器が小さいにもほどがあるではないか」


 アニーはギリッと歯を食いしばる。


「アニー殿は『確かに当てた! 当てた!』と申すが、その場に居なかった拙僧にはそれが言われる通りのバイアスド・ジャッジだったのか、そうでないのか確かめる術はない……その上で問うが、」


 美味は姿勢を正して尋ねる。


「……アニー殿は何がいけなかったというのじゃ? メインジャッジに自分を差別する人間が居たことか? アニー殿はその巡り合わせを自分で左右する事が出来るのか?」

「え?」

「それとも、そこに太陽があったことか? アニー殿は自分で太陽を隠したり現わせたり出来るのか?」

「そ、そんな……」

「それとも、その時雲が晴れたことか? アニー殿は雲を自分で自由に操れるのか?」

「…………」


 ぐぅの音も出ない、ということか。アニーは全く反論が出来なかった。


「アニー殿、全てが自分の思い通りになる事など無い。森羅万象の中にただ身を置いておるだけにすぎない我々は、その中で起きる出来事をただ黙って受け入れるしかないのじゃ」

「…………」


 美味の言葉が静かに心に染み込んでいく。確かにそう言われればそうだ。誰がジャッジになるかなどわかる筈も無い。太陽がいつ雲から出るかなど判ろうはずも無い。起こった全ての事に、人が準じていくしかないのだ。


「『外した』と云う事になってしまったのは、アニー殿にはつらい思いであったと思う……しかしそれをそんなつらい思いにしているのはアニー殿ご自身ではないか?」

「ま、またワタシ?」

「そう、心の中では『勝って目にものを見せてくれる』などと思っていたのではないか? そういう慢心があったからこそ、落胆も一際大きかったのではないか?」


 言われてみればそうかもしれない。『勝つのが当然』などは思っていなかったが、『クラブ初のウーマンチャンプになってみせる』などと意識しなかったと言えば嘘になる。皆に『ホークアイ』などと言われていた自分のプライドも、最後に外した事実を認めづらい理由なのかもしれない。


栄光から挫折に転げ落ちた事、それこそが自分のこのもやもやの原因なのか……そう思うと美味が笑った理由も何となく解る。なんと自分は矮小だったことか。


「『天に唾する』という言葉があるのをご存じか? 英語で言えば『Spit to sky』といったところか」

「結局自分にリターンする、ということね」


 美味はにこりと笑う。


「その通りじゃ。『うまくいかないからと天をなじっても、唾は自分にかかるだけ』という教えじゃ」


 アニーは胸のつかえが下りた気がした。気が付いてみればなんとも馬鹿げたことだ。自分の思い通りに行かなかった恨み言を、つらつらと並べていたのだから。


「……サンキュウ、美味。ワタシはどうしようもないクソヤローだったのね……」

「言葉は良くないが、まあそうじゃな」

「アア~どうしよう! コンな事でパパやママ、クラブのメンバーに迷惑かけていたなんて!」


 アニーはガシガシと頭をかきまくって悩む。


「まあ、起こってしまった事はしょうがない。逆にこれを修正出来るのもアニー殿だけじゃ。なんとか道を見つけることじゃな」

「美味様、お願い教えて? どうやって解決したらいい? テヘ?」

「かわいくしてもダメじゃ。自分で起こした事は自分が責任を持って解決するのじゃ」

「えー美味は勉強も出来る、スポーツも何でも出来るスーパーガールなんだから、こんなトラブルを解決するなんてオチャヅケサラサラじゃないの?」

「それはお茶の子さいさいじゃ!」

「だって、美味はワタシの悩みのリーズンをずばりと言い当てたし、ドゥ・エブリシング・ウェル=何でも出来るんでしょ?」

「……アニー殿、私はただ単に〝出来る〟だけじゃ。〝努力して〟〝出来る〟ようになった訳ではない」

「? 言ってるミーンが解らないわ?」

「拙僧には二つ名がある。〝万解のうまい坊〟といってな……〝万解〟とは〝悟り〟を開く、つまり物事の本質を理解出来るということじゃ。先ほど、アニー殿の悩みの元を見抜く事が出来たのも然り、例えばスポーツや芸事ならば一度でも見た事があれば『どうやって体を動かせば、出来るか』が解ってしまうのじゃ」

「そ、そんなバカな! 色々なクラブが注目するぐらい、〝上手く出来るようになった〟んじゃないの?!」

「拙僧は、皆よりスポーツの動きを〝理解〟した結果として、上手く〝出来る〟のじゃ。〝上手く出来るようになった〟というのは、各部に所属している皆のように情熱を持って努力をし、それぞれの技術を昇華させてより高みを目指す事じゃ。拙僧はそれは遠慮させて頂いておる」

「ホ、ホワイ?」

「キリが無いのじゃ、高みというものは。どこまで行っても届かぬものよ。だが、それを求めるのは人の業じゃ」

「…………」

「例えば部で一番になる。しかし他校にもっとうまい人が居れば、それを越えるのが目標になる。しかし他県にもっとうまい人が居る、他国にもっとうまい人が居る……ほら、キリが無かろう? どこまで行っても満足出来ぬのが人の業じゃ。仏の道に仕える者として、そのような業にまみれた生き方は出来ぬ」

「で、でも!」

「うむ、アニー殿の言いたい事も解る。好きなものが出来たらその道の頂点を目指したくなる、それも道理。硯耶先輩がいい例じゃ……〝筆聖〟などと呼ばれても未だ更なる高みを目指しておる。ご立派じゃが〝書〟の〝道〟の高みは、更なる上へ上へと続いておる。どこまで硯耶先輩が登っていけるか、それは誰にも判らぬ。いくら努力しても、いくら悟りを開いてもなお届かぬ……それは仏の道と同じじゃ」

「…………」

「それに世の中にはあまた多くの道があり、全ての道の高みを目指す事は出来ぬ。特定の部に参加して、結果を残したりは出来ぬ。それ故拙僧はどこにも属さず、ひたすら自分の進む仏の道を見つめておるのじゃ」


 アニーは美味の潔さに感心した。俗世の事に関心を示さず、ひたすら仏門を目指し修業をしている、それゆえの達観なのだ。だがそこまで言って、美味の表情は暗くなった。


「だがそれ以上に……初めから『出来る』というのは、何の感慨も無いのじゃよ。ただ〝理解〟しただけで出来てしまう、皆が一生懸命努力して辿り着く境地に初めから辿り着いてしまう……。なんの渇望も無く、なんの努力も無く、理論や技術の裏付けもなく、皆が望んでやまぬ境地に達してしまえるなどというのは、喜びを通り越して落胆しかない。ましてそれが一つではなく万事においてとなれば、逆に苦行じゃ。己だけが理解しているので、皆と一緒に活動することは出来ても上達の為の指導なども出来ぬ。共に道を歩む喜びも悲しみもなく、己のみが皆とは違う境地に居る。仏の道以外にどんなことにも渇望や喜びを見いだせないなど、神や仏は拙僧に何を求めておるのか……。それを見つけることが出来ないことが、アニー殿や硯耶先輩とは逆の、拙僧の悩みで御座るな……」


 アニーはそこで気が付いた。他の部へ応援に行っている時、美味がなぜ晴れやかな顔をしていなかったのかを。


 美味は望まなくとも、上手く〝出来て〟しまうのだ。


 自分が渇望し、努力して得た結果ならば、自分の中に自信や達成感が生まれる。しかし理解しただけで望んでもいない成果を達成出来ても、そこには自信も達成感も生まれない。過程を無視して得られる結果など、他人からは称賛に値しても、美味にとっては何の価値も無い。その虚無感が美味にあんな表情をさせるという事に、アニーは気が付いたのだ。


 だがそこで、アニーは憤りを感じた。


「ねえ美味、あなた『一度でも見たスポーツならば、どんなスポーツでも動きが理解できる』って言ったわね」

「うむ、そうだが?」

「じゃあ、日本で見た事の無いスポーツはどう? クレー射撃は?」

「えっ?」


 今度は美味に雷が落ちた様な衝撃が走った。確かに日本で美味が見る事・出来る事は、何でも理解する事が出来るし、その自信もある。しかし未だまったく見た事のないモノ、触った事も無いモノを理解出来るかどうかなど、考えたこともなかった。


「な……そ、それは……」

「なにが『万解』よ。偉そうにエブリシングを知ったような事を言ったって、まだやっていない事があるじゃない。やってもいない事があるのに、エブリシングを知った様な口を利くなんてワン・ミリオン・イヤー早いわ! そんな口を利くぐらいなら、射撃でワタシをうならせるようなスコアを見せてから言ってちょうだい! それも出来ないうちに偉そうな口を利くのはワン・ハンドレッド・ミリオン・イヤー早いわ!」

「こ、これはしたり! 全てを理解したつもりでおったが……そうかまだ理解していないものもあったとは! まだまだ拙僧も修行が足りぬ!」

「あ、あはははははははは!」


 今度はアニーが高笑いを始めた。あれ程凛々しく見えた美味が、今は未熟である事に動揺している。その年相応にうろたえた普段見る事の出来ない姿が、アニーにはあまりに可愛らしく見えたのだった。


「ふっ、ミジュクね、美味」

「確かに、私もまだまだ修行が足りない様じゃ。よし、決めた! 私は射撃部に入るぞ!」

「エ、エエエエエエ?」

「何を驚かれる? 私に解らないモノがあるのを教えてくれたのはアニーではないか。ならばアニーが師であり、私は弟子に当たるわけじゃ。師に教えを請うならば、師のもとにいくは当然であろう?」

「……ワタシがシューティングを始めるのが前提になっていない?」

「始めるとも、もちろん。アニーが日本に来た時に、日本の高校生がクレー射撃を始められるようになり、我が校に来た時に射撃部と出会った。射撃を始めようとする先輩にも出会った。これが神か仏のお導きでなくてなんであろうというのか」

「…………」

「むろんそれでも別の道を選ぶ事も出来る。しかしアニー、今もう一度射撃への道を選ばねば、心の中のわだかまりを払う事は出来ぬ。選んだその道が悟りの道か修羅の道か……それは仏や神の身ならぬ我らにはわからぬことじゃ」


 アニーは迷っていた。


 確かに神か仏か判らない不思議な力に、もう一度射撃を始めるようにと自分が導かれている気はする。しかし射撃をしていたからこそ、傷ついてしまったことも事実だ。その二つの事柄の間で、アニーの心は立ち尽くしてしまった。


「……美味、ユーの言う事は良く解る。硯耶先輩の為にも、ユーの為にも、射撃部の為にも私は射撃部に入った方が良いのかもしれない……。でもワタシにとっては? 射撃部に入ることは、シューティングを再び始める事は……ワタシにとっては何なのかしら?」


 美味はごそごそと袂から一枚の紙を取り出し、アニーに渡す。


「その答えは……多分ここにあるのじゃろうな」


 それはどうやら、グーグルマップのネット上の地図を印刷した物のようだった。


「アニー、今週土曜日の午後、予定を開けておいてくれぬか?」

「?」

「お主の御両親からのメールじゃ。お主が拙僧に悩みを打ち明けたら、『ここに連れて行って欲しい』ということじゃ」

「!」


 アニーは地図から顔を上げて驚いた表情で、美味の顔を見つめた。

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