2・にほんはいろいろなことがあるくにです
夢から覚めた留学生・億里アニーは、枕元の床でけたたましく鳴り響く目覚まし時計を手探りで止めた。
またあの夢だ。
オーストラリアから遠く離れた日本に来てまで、まだあの夢に悩まされる。はだけた蒲団からはみ出した手には、じっとりと汗がにじんでいた。
仰向けに寝ころんだ状態で今見えるのは、クロスを張った天井とは違う、木で組み立てられた不思議な格子模様の天井で、古びて黒ずんでいて……低い。
明るい色彩の壁紙やじゅうたんでまとめられたオーストラリアの家とは違う、木の地肌がむき出しになった柱や床、〝タタミ〟と呼ばれる草で編まれた敷物など見慣れぬ素材に囲まれた生活が四月から始まり、もう一週間になる。
畳の上に敷かれた〝フットン〟という、ベッドのマット部分から上だけ外したような寝具から転がるように出る。床にうつ伏せになると、あの日ベッドにうつ伏して泣きはらした事を思い出す。
泣いて泣いて泣き叫んで、それでも泣き足りなくて辺りの物に当たり散らして、何かで切った手の平の痛みを感じたことでようやく我に返った。何気なく振り返った時、鏡台の鏡に自分の顔が映っているのに気が付く。映った自分の顔があまりに醜く見えて、それが理由でまた泣いた。
〝アマド〟と呼ばれる重い引き戸のカギを外し、教えられた通りに壁の隙間に押し込むと春の明るい日差しが差し込み、その眩しさに思わず目を手の平で覆う。
まだあの時の惨めな気持が思い返される。
でももういいんだ、日本であたしが射撃をする事はない。十八歳以上でないと銃を持つ事の出来ない日本は、ガンナッツ=銃器愛好家やシューター達にとって地獄と同じだと聞いている。持つ事が出来なければあんな思いをする機会はない……そう自分に言い聞かせて、壁にハンガーで掛けられた見慣れない黒のブレザー型の制服をチラと見る。
『そうだ、今日から新しい学校に行くんだ……』
いま彼女は、オーストラリアのシドニーから7840キロ離れた日本の山梨県に交換留学生として、一人でこの地に来ている。新しい土地・新しい住まい・そして……新しい学校。
着替えるためにパジャマの上着のボタンを外し、たくし上げて脱ごうとすると……おかしい、視線を感じる。ハッと気が付いて振り向くと、いつの間にか入口の〝フッスマ〟とか云う引き戸式の扉が開いていて、アニーと同い年という少女がそこに正座していた。
少女は紹介された時と同じ黒と白の着物のような服を着て、ヘルメットのようにきれいに切り揃えられているが、頭の形に沿って五カ所アンテナのように結わいた不思議な髪形をしている。世界の深遠を覗き見ることが出来るかのごとく輝く、瞳のくりくりとした大きな眼を持ち、ほほ笑んだその表情は図鑑で見た日本の仏像の様な印象だ。
しかし、どんな格好をしていようと、侵入者であることにかわりはない。
「いっ?!」
思わず赤面したアニーだが、少女は一向に動じる様子も無く落ち着いた声で、アニーに話しかける。
「あいや、そのまま続けられよ。我は空なり……空気だと思って頂ければ結構でござる。いやぁーそれにしても眼福眼福、さすがは『おおすとらりあ』、国土と同じくでっかくてござる」
一瞬、何の事を言っているのか解らなかったが、少女の視線がどこを見ているのかに気付き、ようやく言葉の意味が呑み込めた瞬間……羞恥心が込み上げて来た。
「イヤァァァァァァァァァァァ!」
目覚まし時計が肉に当たる、鈍い音が響いた。
◇
宿房の炊事場に置かれた、木製の簡単なテーブルにアニーと黒い着物を着た少女は向かい合って座り、朝食をとっていた。
むくれたまま、アニーは自分で焼いたトーストをかじりながら見慣れない同居人の姿をちらちらと眺めている。
少女の黒い服は、日本の僧侶の服だそうだ。アニーから見れば動きにくそうな服だが、少女は意に介さず、『チャワン』と呼ばれるボウルに盛られたライスとミソスープ、色鮮やかな日本のピクルス(漬物)と糸を引いたビーンズ(納豆)、シィーウィード(海苔)をチョップスティック(はし)で器用に上品に食べている。それに対し、アニーはトーストとシリアル、フレッシュジュースのみである。
「アニーどのはなぜ日本へ?」
「……交換留学生制度に申し込んだのよ。そうしたらパパが、カワラバト・ハイスクールはパパのホームタウンにあるって教えてくれたの。パパのホームタウンがどんなところか興味もあったし、それならってこのハイスクールにしたのよ」
「なるほど、お父上はこの街の出身であったか。道理でわが父と懇意であるわけじゃ」
少女はウンウンと何度も頷きながら、朝食を口に運んでいる。
初めてここに来た時説明されたが、この建物は少女の父の寺・瑞雲寺の持つ参拝者向けの宿坊=いわばユースホステルのようなものだったそうだ。交通事情が発達し、泊りがけの参拝者はほとんどいなくなった為、少女の父は宿坊を、修行僧や他の地方から転入してくる学生向けに開放することにした。
そうなった理由の裏には、どうやらアニーの父と少女の父の間に何らかの密約があったようだ。交換留学を申し込んでから、ステップバイステップでこのお寺での滞在が決まったと聞いた時、アニーは父の態度に妙な違和感を覚えたものである。
しかし知った土地とはいえ、娘を一人暮らしさせるならば、信頼のおける知人宅に預けたくなる親の気持ちも理解出来たので、アニーは父の差配を受け入れたのだ。
同い年の少女の、見た目からは想像出来ない旺盛な食欲も彼女を見つめている理由の一つだが、今朝の不法侵入に対する抗議を視線にありったけ込めて送る事も、もちろん忘れてはいない。アニーの視線に含まれた抗議に、ようやく彼女は気付いた様だ。
「アニー殿、まあそう怒らんでもよいではないか。同じおなご同士なのじゃから」
「『親しき仲にも礼儀あり』っていうのが、日本のトラディショナルでしょ。コ、コン……ゲン……え、えーと?」
だめだ、こいつの名前は複雑で呼びづらい。
父親が日本人のアニーは読み書きには多少難はあっても、日本語を聞く事・喋る事に関してそれほど苦労はしない。喋る方はインスピレーション優先で英単語が頻繁に混ざってしまうが、それでも何とか通じるぐらいに話す事は出来た。しかし、こいつの名前はまるで時代劇の言葉の様で、インスピレーションが通用しない。
「おお、アニー殿は博識じゃのう!」
少女はからからと豪快に笑う。
「根源院万解美味坊、美味でよいぞ。今日からは同じ香春鳩高校の同級生、こうやって同じ屋根の下で過ごすのも何かの縁ではないか! なに、遠慮はいらぬ。困る事があれば、遠慮なく申してくれればよい。何でも相談に乗るぞ」
その屈託のない受け答えに、アニーは自分の怒りが空回りしているのを感じる。
「取り敢えず、勝手にマイルームに入るインベーダーに困っているんだけど」
「まあまあ良いではないか、良いではないか! アニー殿よ、人は有りの侭が美しい……。そこに美しい物があれば、見入ってしまうのもまた道理というものじゃ、カッカッカ」
そう言って、美味と名乗る少女はまた高らかに笑う。
「I have had enough……(もういいわ……)」
思わず頭を抱えるアニーだったが、思い出したように真剣な顔を美味に向ける。
「……ところで、パパかママからサムシング聞いている?」
「? 『日本の学校生活に不慣れであろうから、色々と面倒を見てあげて欲しい』とは頼まれておるが……それが何か?」
「な、何でもないわ」
この変な女の子にパパもママも、何も話してはいないようだ。万が一話をされたとしても、なにかが変わるわけではないが、最初からあまリ気まずいのもごめんだ。怪訝そうにこちらを見ている美味に気付かないふりをして、アニーはコーヒーカップに口をつける。
「アウチッ!」
コーヒーは思ったより熱かった。
◇
宿坊の玄関で草履を履きながら、美味が心配そうに尋ねてくる。
「しかし小食じゃのう、昼までもつのか?」
アニーは自分の黒のローファーを履きながら答える。
「朝からあんなに食べたら、ヘビーでしょうがないわ。ねえ、ところでそのファッションはハイスクールのユニフォームとは違うようだけれど、OKなの?」
「委細問題なし! 仏の道を妨げるものなど何もない、心配めされるな。それより……」
美味はアニーを見ながら、『むふふ』と顔をニヤけさせる。
「な、なに?」
「いやあ、アニー殿の素晴らしいスタイルは制服でも隠しきれぬのぉ、と思ってな」
「い、いっ?!」
美味がそう思うのも無理からぬ事で、日本人の基準で作られた制服では、アニーのボディーを完全に収納する事は不可能で、はち切れそうなほどのボディーが逆に強調されることになっている。
「いやあ、眼福、眼福! 楽しい高校生活になりそうじゃ」
アニーのカバンが美味の顔に直撃した。
◇
「アニー殿~ そう怒らぬでもいいではないか~ 同じおなご同士なのじゃから~」
前を歩いている美味が足を止め、全く反省の無い間延びした口調で声を掛けてくる。
「Negative ! Hell no stupid image!(だめよ! 妄想もだめ!)」
カカ、と美味は笑うと、再び歩き始めた。
相変わらずの態度に思わずため息をついて、アニーも美味の後ろについて歩き始める。美味の後ろ姿を見ながら、アニーはこの宿坊に到着して初めて美味を紹介された時の事を思い出す。
初の海外からの留学生の世話をするならば、遠慮の要らないよう同じ世代の人間の方が良いだろうという配慮から、美味はアニーと同居することになった。初めて会った時からこの黒と白の着物の様な服を着て、切りそろえた髪をアンテナのように結わいた、奇妙な髪型の同居人に戸惑ったものだ。
しかし屈託のない裏表のなさそうな同い年の少女の表情を見た時に、少し安心したのも確かだった。その時はこんなダーティ・オールドマン(=スケベ親父)の様な娘だとは夢にも思わなかったが。
本堂の裏手にある宿坊を出てから舗装もされていない寺の敷地を抜けると、ようやく一般道に出る。目の前に開ける景色に心が浮き立つ。
青い空、美しい山並み、見慣れぬ町並み、そして少し遠くに見える学校。
こうやって徒歩で学校に行くなど、オーストラリアではありえなかった。広いエリアに学生が点在しているオーストラリアでは公共交通機関のバスか、学校の用意したスクールバスを使わなければ学校にはたどり着けない。スクールバスは全学年共通だし、同じクラスの生徒どころか、同じ学年の生徒が乗ってくることも珍しかった。こんな風に同じ学年の人間と並んで歩く事が新鮮に感じられる。
少し歩くと同じ制服を着た生徒たちが目に付き始める。日本人でないアニーがやはり珍しいようで他の生徒たちの視線を感じ、ひそひそ話す声が聞こえる。当然予測されたことなので、アニーは気にもしない。
「ところでアニー殿のお父上殿は、オーストラリアで何をしていらっしゃるのじゃ?」
「テレビやパソコンの外側を作るマシンを売るカンパニーにいるわ、結構忙しいみたいよ」
「ふうん、機械が得意なので御座るか……お母上は?」
「たまにパートで働いたりしたりしているけれど、まあ普通のハウスワイフ(主婦)ね」
「お母上がオーストラリアの人なのじゃろう? どこでお父上殿と知り合ったのじゃ?」
「それは……」
答えようとして、はたと気付いた。確か二人はオーストラリアの射撃場で知り合ったはずだ。それを説明し始めると、射撃の事に話が行ってしまう。今は射撃の事に触れたくないが、何も言わないワケにもいかないし……。
「あーそれは……そのぅ……」
どう説明したらいいものか、良い方法が思いつかずアニーは歩いたまま逡巡し始める。
「アニーどの?」
美味が声を掛ける。
「えーと……それは……」
何度も声を掛ける美味の声が聞こえないのか、逡巡しているアニーは気付かずに歩いている。
「アニーどの、アニーどの!」
「what`s up?」
ようやく気付いたアニーが振り向くと、10メートルほど離れた交差路で美味が待っているのが見えた。
「そのまま行くと学校から離れて行ってしまうぞ?」
同じ制服を着た数人の生徒が笑っている。アニーは顔から火が出るかと思うくらい、恥ずかしかった。
◇
もの凄く恥ずかしい思いをしたおかげで、なんとか美味の質問を曖昧なままにしておくことが出来た。新入生たちを迎えるように満開の桜が咲き誇る中、アニーと美味は私立香春鳩高校の校門を通り正面玄関に続く道のりを歩いていく。今まで見たことも無い華やかな光景から、考えもつかない学校生活が待っている予感を抱き、アニーの心は僅かに浮き立つ。
校門から校舎までの様子はオーストラリアと同じだ。友人や同級生を見つけた生徒たちがお互いに声を掛け合っている。その万国問わない学生同士の光景に安堵すると同時に、声を掛けてもらえない自分が、この中に溶け込んでいない〝外人=ガイジン〟であるという実感がひしひしと伝わってくる。
しかしそんな感傷も、たび重なる声にすぐに消えた。
「美味お早う」
「お早う美味」
「元気か? 美味坊!」
何人もの生徒が、男女を問わず気さくに美味に声を掛けてくる。
「お早う皆の衆、今日も良い天気じゃな」
気さくに挨拶を返す美味を見て、アニーは軽い驚きを覚える。
「ねぇ、エブリワンがユーを知っているみたいなんだけれど……」
「拙僧はこの街随一の寺の一人娘じゃからな、知られていて当然じゃ。それに多くの生徒が同じエリアにおるので、皆顔なじみなのじゃ」
「カオナジミ?」
「〝Local friends〟と云ったところかの」
ふーん、日本ではお寺の娘と云うだけである種の権威が発生するものなのだ、とアニーは軽い驚きを覚える。すると今度は男子生徒が美味の横を通り過ぎる時に声を掛けてきた、しかもアニーの方を見て少し憐れむような表情を向けてだ。
「美味坊、今度は外国人か? ほどほどにしてやれよ」
「いや、そうではないのじゃが……」
今のは、自分の事を言われているのだと解った。何かがおかしい……今の男子の表情といい、掛けられた言葉といい、何か変な気がする。
「ねえ、今のボーイは何のことを言ったの?」
「ああ、我が寺にはよく外国人が修行を体験しに来るので、アニー殿が修行に来たのと勘違いしたらしい」
「シューギョー?」
「うむ、『悟りを開く』と云って、仏の道に通じる感覚を開く為に行う修練の事なのじゃが、なかにはそれなりの苦痛を伴うものもあるのでな。アニー殿がそれに耐えられるかと、心配しておった様じゃ」
そういえば聞いた事がある、日本のお寺には木の棒でお互いを叩きあう因習が存在すると。それは繰り返すうちにサトリと言われる快楽に近いモノが得られると……。
ま、まさか! アニーはその場で思わず立ち尽くす。
「まあ、アニー殿が興味があるというなら、拙僧が懇切丁寧に指導致すが……? アニー殿、どうしたのじゃ?」
「ワ、ワタシ……そういうマニアックな趣味はないから……」
「?」
◇
「まったくアニー殿は〝うっかりさん〟じゃのう、いったいどこでそんな間違った知識を植えつけられるのじゃ」
下駄箱の前で美味が尋ねてくる。
「しょうがないじゃない、ジャパンのテンプルのシューギョーなんて習うチャンスが無かったんだから……」
確かに木の棒で叩かれる修行はあるが、それは自己修練の為であって決して変な行為でないと云う事を、美味に説明されてようやく理解出来た。アニーがそのまま校内に入ろうとするのを見て、美味が咎める。
「アニー殿、靴を履き変えなければいかんのだが?」
「……? あっ!」
そう云えば、言われていた、日本の学校では校内に入るのに靴を指定のメーカーの、統一された形の物に履き換えなければならないことをうっかり忘れていた。
「そんなコトもあろうかと……ほら、持ってきておいたぞ」
美味がごそごそと袂から取り出したのは、一足の上履き。筆記体でかかとに〝ANNIE〟と書いてある。
「セ、センキュー」
よく気が付く同居人に礼を言いながら、アニーは靴を履きかえる。
オーストラリアで教室に入るのに靴を履きかえるなんて事はない。何の意味があるかアニーには全く不明だ。
『カルチャーギャップを指摘され続けるだけで、一日が終わりそうだ……』
軽く溜息をつき一人ごちるアニーに、美味が声を掛ける。
「アニー殿、取り敢えずクラスを確認しに行こうか」
「O、OK」
アニーは心の中のわだかまりを払い除け、気を取り直して美味の後をついて行く。
◇
始業式を済ませ、各クラスのオリエンテーションが終了し、クラスでの自己紹介・授業内容の確認などが済んだ教室で、アニーは迎えに来る美味を自分の席で頬杖をついて待っている。
残念ながらアニーと美味は別のクラスになってしまったので、美味がアニーのクラスまで迎えに来てくれることになっていた。
さすがに美味とは違い、初日からアニーに気軽に声を掛ける生徒はいない。しかしただでさえ整った顔立ちを持ち、他の同級生より一回り大きい体を持つアニーはクラスの注目の的であり、クラスの大半の生徒が一度は人待ち顔のアニーを振り返って見る。
クラスの皆の視線を感じてはいたが、アニーには自分からアプローチを掛ける理由も無いので、ただ美味を待つことしか出来ない。
「アニー殿、お待たせ致した。帰ろうではないか」
ようやく到着した美味が、教室の入り口から声を掛ける。アニーはカバンを持って立ち上がると、多数のクラスの生徒の視線を感じながら美味の方に歩いて行き、教室を出る。
「アニー殿、もう少し柔和な……ソフトな顔をしておった方が良いのではないか? それでは皆が話し掛け辛いと思うぞ」
玄関に向かって歩きながら、アニーに美味が話し掛ける。
「最初からイディオットなフェイスをしているよりましだわ」
「イディオット?」
「〝アホヅラ〟ってこと」
「まあ、確かにそれも道理じゃな」
美味は苦笑して応える。
下駄箱に着くとアニーは『忘れまい』と心に誓っていた通りに、靴を履きかえる。
『慣れるまで、気をつけなきゃ……』
憂鬱な面持ちで正面玄関を出た瞬間、異様な熱気を感じて驚いた。正面玄関から校門までの間に、多くの生徒が並んで新入生の出てくるのを待っている。これはこれでまた、オーストラリアでは見た事のない光景だ。
「ホワッツ? い、一体何これ……」
「ああ、クラブ活動の勧誘じゃ。日本では授業以外にクラブに属して、スポーツなり文化活動なりをして過ごすのがしきたりなのじゃ」
「へええ……」
なるほど、運動系のクラブはその活動をする為のユニフォーム姿だ。野球やテニス、サッカーや柔道・空手など一目でわかる。
「あのスポーツ・ユニフォーム以外の人たちはなに?」
「あれは文化系のクラブじゃ。演劇や書道や映画や漫画、自分たちが好きなモノを探究していくクラブだと思ってくれればよい」
「ふーん……」
ふと見るとカラフルな羽織袴姿で身長ほどもある筆を使って、地面に張り付けられた紙に音楽に合わせて字を書いている生徒達がいる。
「アレは?」
「書道部じゃ。美しい字を〝書く〟ことを〝道〟としておったが、最近はあのようにパフォーマンスとしてのスタイルが盛んでな。ウチの高校でも取り入れたらしい」
「へえ」
アニーは密かに日本語を、特に漢字をきれいに書けるようになりたいと思っていたので、書道と云うものがあると聞いて習ってみたいと考えていた。しかしパフォーマンスには興味はないので、これは縁がなさそうだ。
少し残念な思いをしながらパフォーマンスの様子を見ていると、演じているメンバ少し離れたところに一人の女子生徒が物憂げな表情でパフォーマンスを見つめているのが目に入る。
ショートヘアーの黒髪で男子の様な凛々しい顔立ちだが、今その顔は何かで曇っていて悩ましげである。
その表情には見覚えがあった。顔ではなく、表情に見覚えがあるのである。一体いつそんな表情を見たのか一生懸命記憶を手繰るが、まるで雲を掴むかのように手繰り寄せる事が出来ない。……なんだろう、このもやもやした気持ちは。
「根源院さん!」
突然上がった嬌声に我に返ったアニーが見たのは、多くのクラブの主将クラスに取り囲まれている美味の姿だった。
「根源院さん、ぜひソフトボール部へ!」
「いや、剣道部へ!」
「うまい坊、柔道部へ来いよ!」
「華道部はいかが?」
次々に現れる勧誘者、だが美味は動揺した様子も無く淡々と答える。
「申し訳ないが、特定の部に入部する事は出来ぬ。デモンストレーション要請については希望日時を伺った上で考慮させて頂く。今日はこの地に慣れておらぬ同級生を案内せねばならぬゆえ、どうかお許し願いたい」
しかしヒートアップした勧誘者たちはその迫る勢いを衰えさせる様子も無く、人だかりは増える一方だ。その光景を唖然と見つめるアニー。
勧誘者の波の最後部で小柄な女子生徒が、持っているチラシの束から一枚を美味に一生懸命渡そうとしている。しかし勧誘者の壁が高く立ちはだかり、チラシが美味に届くのは難しいように見えた。
「パンフレットを渡すだけなら、渡しておいてあげましょうか?」
「てっ?」
アニーに流暢な日本語で声をかけられた小柄な女子生徒は笑顔で振り返るが、目の前には爆乳しか見えない。恐る恐る見上げると目に入ったのは、自分より頭二つ高い金髪の女の子=アニーだった。
思いがけない状況に、小柄な女子生徒は頭の中で勝手な脳内補正を始める。
『根源院さん程の人が連れている、だたら(とても)背の高い女の子=シークレットサービス?』
『しかも外人? =日本語が通じない?』
『うちの様な弱小部が声をかけた=万死に値する?』
見上げるアニーのイメージがみるみるうちに怒涛の黒雲と稲妻を背負い、腕組みをした姿に脳内補正され、急速に渦巻いた思考のあげく発声されたのが次の言葉だった。
「す、すいません! あ、あ、アイキャン・スピーク・イングリッシュ!」
「それがイングリッシュでしょ!?」
「あ、あ、あ、す、す、すいませーん」
「パンフレットを渡すだけなら渡しておいてあげるわ。1枚ちょうだい」
「あ、有難う御座いますぅ」
「ところでこのパニックは何?」
「知らないんですかぁ? 根源院さんはえらい才女なんですぅ。勉強だけでなくあらゆるスポーツをこなして、いろいろな部を盛り上げてくれるんですぅ。もし試合に出たら多分その部を優勝に導いてくれるはずだと、もっぱらの評判なんですよぉ」
「へえ」
あの飄々とした娘がそんな才能を持っているとは、思いもしなかった。
「でも、美味さんは盛り上げるだけで、決して部活には参加しないんですってぇ……不思議ですよねぇ」
「ふーん……ところで同じ一年生なのにソウハードね。人手が足りないの?」
「いっ?! 一年生?!」
「なに?」
「ま、まんりか……いや、わたしは二年生、あ、いや新三年生なのですぅ! と・年上なのですから、ま・まっと(もっと)、け、敬意を……」
「パードン?」
納得出来ないアニーが怪訝そうに睨む。
「ひっ! すいませーん!」
怯えた様子でチラシを渡しながら控えめに話す頭二つ小柄な、自分より二歳も年上の先輩にアニーは驚愕した。
『三年生? この小柄な子が?』
思わずまじまじと見つめてしまう。いい加減に切りそろえた様なセミ・ショートカットの髪、うるうるとした大きな眼が目立つ顔は、どうしても年下にしか見えない。その様子はむかしタブロイド紙に載った、コートの男に連れられた宇宙人の様だ。
『リトルグレイ?』
そんなジョークが頭に浮かび、クックッと笑いがこみ上げる。自分が笑われている事に気が付いて、先輩はショックを受けているようだ。
こんなストランジな先輩がやっているのはどんなクラブなんだろう? 映画だろうか?それともはやりのジャパニメーションだろうか? それとも……。
いろいろなアイデアが湧いてきていたアニーの脳内のギャグ要素を、そのチラシは一気に吹き飛ばした。そのチラシにはアニーの頭の中に直接突き刺さるような文字が書いてあった。
『Shooting Club=射撃部』と。
ようやく勧誘者達をなだめすかした美味が、アニーの方に歩いてくる。
「アニー殿、お待たせして申し訳ない。おや? その女児は?」
美味に声を掛けられたアニーは、受け取ったチラシをポケットに思わず隠してしまう。
「Don‘t say such words、美味さん。こちらは三年生の先輩よ」
美味もアニーに匹敵する衝撃を受けたようだ。小柄な姿や幼いその顔を怪訝そうに眺め、
「なに? こちらが三年生じゃと? 面妖な! もしや物の怪の類か?」
「え、ええー」
動揺する先輩をしばらく見つめていた美味だったが、突然先輩の胸を右手で鷲づかみした。
「ひ、ひえぇぇぇ! なにするんですかぁ!」
必死に体を離す先輩を無視して、しばらくじっと右手を見つめる美味。
「? どうしたの? 美味さん」
怪訝そうに近付くアニーの胸を、美味はいきなり同じ右手で鷲づかみする。
「え! What`s the f〇〇k!」
アニーも必死に体をよじって美味の手から逃れる。
再び右手をまじまじと見つめる美味は厳かにその右手をアニーの方に高々と差し上げ、高らかに宣言した。
「こっちが先輩!」
学生かばんと大量のチラシが後頭部にめり込む音がした。
◇
「ではまた明日」
「シーユー」
宿坊に戻ったアニーと美味は、お互い言葉を交わしてそれぞれの部屋に向かう。アニーは自分に割り当てられた奥の部屋に入ると、ふすまを閉じた。
個室と云うほど完全に隔離されたわけではないが、プライバシーは一応保障されている。美味には『部屋に入る前には必ず声をかける』『勝手に部屋に入らない』と約束させた。
〝エンガワ〟というテラスからきれいな山並みが見える。オーストラリアとはずいぶん違うが、その緑の美しさは決して嫌いではない。〝タタミ〟に寝転がって、持ってきてしまったチラシを見つめる。カーペットと違い土足で上がる事のない床に気軽に寝転べるのは、良いシステムだ。
どうしてこんなに心が揺れるのだろう、もう自分は辞めたはずなのに……もう二度と銃など手にしないと決めたのに。そんな自分にこのチラシが手渡されるなど、神様はどんなに気まぐれなのか。それともあの小柄な先輩は私を惑わす悪魔の使いなのか。
そう考えれば納得もいく。あの小柄な先輩はとても二年も年上とは思えず、何かのカース=呪いを掛けられているとしか思えない……まあそれは冗談だが。
もし呪いと云うならこのチラシそのものが呪いだ、誰かが呪いをかけているとしか思えない。
まあ別に問題ない、無視すればいい。新しい生活にふさわしいクラブ活動を選べばいいだけだ……アニーは気楽に考え、寝転んだままチラシをまるめてゴミ箱に放り投げる。だがチラシはゴミ箱のフチに当たり、自分の近くまで戻ってきてしまう。
戻ってきたチラシを見て思わず呟く。
「カース(呪い)か……」
少し前に観た映画の、老婆に呪いを掛けられた女の人の苦悶の顔を思い出した。今の自分がそんな顔をしているんじゃないかと思って少し怖くなった。