1・『らすと・わんしょっと』
彼女は縦約1メートル・横1.9メートル弱に引かれた四角い白線枠の中の左端に立ち、目前の3階建てビルほどの高さのレンガ造りの建築物の地上1メートルあたりに開けられた、縦41センチ・横48センチの穴を凝視している。
鋭く凝視しているその眼は白人系のブルーアイにアジア系の黒が混じったベルベット・アイ、普段は美しくたなびくウェーブのかかった肩より長い金髪は今、邪魔者扱いされて後ろにお団子にまとめられていた。広くむき出しになったおでこの上に、オーストラリア国旗のシールが貼られたグリーンのサンバイザーが乗っている。
白人特有の白い肌、アジア系と白人系の良さがうまくまとまった、〝美少女〟と形容して差支えないハイブリッド・ビューティな顔立ちをした彼女はいま、静かな闘志を秘めてレンガ造りの建物の暗い穴と対峙していた。
いや、実際に対峙しているのはその中にある機械だ。穴の開けられた建物の中に備え付けられているのは〝マタレリ〟と云うまるでニッポンの時代劇で使われる言葉のような名前のメーカーが造った機械で、石灰にピッチを入れて焼き固められた直径15センチくらいの陶器の円盤=『クレー』を、機械の腕で器用に彼女の見つめている穴の内部から、彼女の左に立てられたセンターポールと云う基準杭の上を通過し、74メートル先に到達するよう投げるように出来ている。
センターポールの正面から約18メートル離れた『プーラーハウス』と云う小屋の中では『プーラー』と呼ばれる操作員が彼女のコールを待っている。ある意味、この操作員も彼女と対峙していると言っても差支えない。直径36メートルの半円の中に規則正しく配置された1番から8番までの四角い『射座』と呼ばれるエリアに、彼女が移動するたびにスイッチを切り替え、彼女のコールに合わせて『クレー』を放出するように各射座のマイクと機械の接続を変えていくからだ。
頭上にはまだらになった雲の隙間から、一月のオーストラリアの太陽が時折申し訳なさそうに顔を出す。まるで今年の早い夏の到来の原因が、自分にあるかのように控えめに。
この早い夏の暑さにも彼女は対峙していた。暑さに負けて薄着にしすぎれば体型が変わり、〝相棒〟を押し当てなければならない場所が僅かにずれて狙点が変わる可能性がある。
また暑さによってもたらされる汗への対策も忘れてはならない。手ににじむ汗はグリッピングに違和感をもたらし、その違和感は心にさざ波となって集中力を削ぐ。彼女は最低限の厚さに留めたシューティンググローブを装着し、掌に滲む汗の影響を防いでいた。生地が厚いほうが吸収率は良いのだが、あまり厚すぎると〝相棒〟を握る位置が変わり、狙点を修正する必要に迫られる。
しかしほんの0コンマ数秒で決まるタイミングの中、僅かにずれた狙点の事など気にしている余裕などない。構えた瞬間、照星=フロントサイトと呼ばれるファイバーチューブで作られた集光性抜群のパーツは、適正にその円形の面をまっすぐ彼女に向いていなければならない。少しでも横を向いてしまえば、どんな結果が待っているかは歴然である。
彼女は吸湿性抜群のアンダーアーマー社製の薄手の緑色のインナーの上に、明るい緑と黄色のコントラストが美しいポロシャツを着込み、下半身には同じように汗対策のアンダーウェアを着込み、その上にジーンズを着込んでいる。
〝相棒〟と呼ばれるのは、彼女の手の中にあるIAB社製の散弾銃。銃身が上下二本に並んだ射撃専用銃で、銃床と先台は十五歳の彼女に合わせて余分な木部は削ぎ落とされ、本体のイメージも合わさってスマートな印象を与えていた。
一度落ちたチェッカリングは〝ストックスミス〟と呼ばれる専門の職人によって鋭過ぎず鈍過ぎない程度に丁寧に彫り直されて、いまではまるで手の平に張り付いた様に違和感なく納まっている。銃床は後端部を切り落とされて、プルと呼ばれる銃床後端中央から引き金までの長さを、彼女が違和感なく引き金を引ける適度な位置に設定されていた。
彼女は銃口を四十五度ぐらいの角度で斜めに上げ、銃床の下端をポロシャツの上に着込んだ射撃用ベスト右半身の人工皮革の腰の位置に縫い付けられたラインに重ね、待機姿勢を取っている。
まだクレーを射出させる為の掛け声、『コール』を発するつもりはない……立ち位置に僅かな違和感があるからだ。
既に銃身には一発の十二番/九号と呼ばれる弾が装填され、機関部との結合は終わっている。変な動きは減点の対象になるし、なにより装填された銃はひとたび間違いを犯せば凶器と化してしまう。彼女は銃口の向きを気にしながら、僅かに足の位置をずらす。
なるほど、少し内側に立っていたために視点がずれていたようだ。まったく、緊張なんてものには縁が無いと思っていたが、これがマッチプレッシャーと云う奴なのだろう。
ここはオーストラリア・シドニー市西部のリスゴー・シューティングクラブの所有するクレー射撃場である。彼女から18メートル離れたプーラーハウスの更に後ろ、クラブハウスの前では多くのシューター達がやはり固唾を飲んで見守っていた。
彼らが固唾をのんで見守っているのには理由がある。いまこのクラブ始まって以来初の、ウーマンチャンプが誕生するか否かの瞬間なのだ。しかもそれが十五歳、ジュニア・セカンダリィ・エジュケイションの10グレイド=日本で言えば中学生の少女だと言うのだから尚更である。
集ったシューター達の胸の中には様々な想いが渦巻いているに違いなかったが、今ここに至っては彼女のこの『ラスト・ワンショット』がどんな結果をもたらすのか、それだけが多くの個々の想いを押しのけて満ちていたに違いない。
心の準備は整った。手袋の穴から剥きだしになった人差指が引き金に届き、軽く触れる。そこからさらに巻きつけるように、人差指の第一関節に掛かるか掛らないか程度の位置に持っていく。視線は真っ直ぐに、目の前の穴に固定される。ピントはやや曖昧にし、そこから放出されるクレーの動きについていけるようにする。
「プル」
彼女の抑揚はないがハッキリした声をマイクが拾う。しかし、そこですぐクレーが放出されるかどうかは解らない。機械のセッティングはゼロ秒から三秒の間、ランダムに放出されるように設定されているからだ。
約一秒の間が空いてクレーは放出された。そう高くない位置に放出されたクレーを目で追いながら彼女は素早くIABを持ち上げる。家で一日百回は練習する挙銃練習のとおり肩の窪みに銃床の底は収まり、フロントサイトは真っ直ぐ視界に入ってきた。
どんなクレーでもはっきり視認し撃破できる彼女の眼を、〝ホークアイ〟とクラブのメンバーは呼んでいた。彼女の二つ名〝アニー・ザ・ホークアイ〟の元になったその〝ホークアイ〟は今、視界の中で鈍く光るフロントサイトとクレーの両方を捉えていた。
視界の中で、フロントサイトとクレーが重なる。あとは慌てず素早く、スムーズに引き金を引くだけになり、彼女の脳はその指令を指にシナプスで伝達する。
しかしその瞬間、クレーの後ろの太陽が彼女の視界に入る。上空のいたずらな風が雲を流し、太陽が顔を出したのだ。
強い太陽の光を受けて、彼女は一瞬クレーを見失う。自分が引き金を引こうとした位置=撃破位置を超えて移動するクレーを改めて発見し、引き金を引く。体がいつもより捻じられた感覚が残ったが、目の前のクレーは後部が破砕され、前部が失速する様な動きで今まで彼女が見ていた建物・ローハウスの反対側、ハイハウスの足元に激突して砕ける。
やった、思った様な射撃は出来なかったけれど、当てる事は出来た。彼女は胸をなでおろして銃を折り、空薬莢を捨てる。その瞬間、メインジャッジの鳴らすホーンの音がレンジに響き渡り、『失中=はずれ』を告げた。
『そんなバカな』と言うように上げた彼女の顔は、不信と現実を受け入れられない驚きで、自分の顔だと判らない程に歪んでいた。