SILK MILL
SILK MILL
ふるい小さな火傷までうずきだしそうな光景だった。
女子寮のベランダからは、工場の敷地のあちこちから火や水が噴き出しているのがみえる。夏の陽射しの下、門の外へ避難する工員の長い長い列。そのまわりを警察がうろついていた。
「いったいどこまで壊れちゃったの……」
だんだん熱くなってくる手すりを握りしめながら、カイナはまだ信じられない気持ちでいた。つけぱなしのテレビから記者の声が聞こえてくる。
―――工場が燃えているというのは本当でしょうか
―――いえ、いっさいそのようなことはございません
―――外国人の少女たちが工場に監禁され、水ぜめにあっていた、という情報については
―――まったくのでたらめでございます
ずっと少しずつ積み上げてきたものを笑いながら壊された気がした。遠い、知らない、つまらないこと、失ってしまうこと、の多さにカイナは震える。気をしっかりもとうとして、カイナは吐きだすように言った。
「こんなところに来なくて正解だったよね、あの子は」
今年の春から行方不明になっている後輩のことが思い出された。この工場に就職が決まっていたのに、卒業式前に失踪し、今はどこで何をしているのかわからなくなっている後輩。
ふりかえれば、うす暗い部屋の奥の、コンクリ剥き出しの壁に、セーラー服と青い作業着がぶらぶらぶらぶらしている。カイナの手の平に、また一つ新しい火傷ができていた。
春からずっと、部署は殺人的な忙しさに見舞われていた。
高校から帰るとすぐに、カイナは巨きな機械と格闘した。おびえてちぢこまる南方の国の子たちは頼りにならないから、火花が散るたび、手をつっこんでレバーをこじあけ、噴出する蒸気をうけながら手探りで銀管のつまりをとり除いた。
機械の心臓にあたる丸い銀器のなかで、半透明の塊が湯に浮かび蠢いている。
「あ、その丸いのに触っちゃだめ」
丸い銀器は、浄化された水分で満ちている。端まで並ぶ小さな窯の中で沸騰した水が、複雑な配水管をとおって銀器の中に注入されているのだ。そして、その銀器からまた工場全体に給水され、工場中の機械と繋がっている。だからできるかぎり早く対応しなければならなかった。しばらくするとまた、手元のスイッチや頭上のボタンが発熱、青い火花が降り注ぐ。カイナがまたレバーを力まかせにひく。すべての管が震えて音をたてる。
「もう大丈夫だよ」
安心して作業にもどる外国の子たちをみるたび、機械が日に日に手に負えなくなることに気づきそうになって、カイナは頭をふった。古びて壊れていくものの一部になったとしても、ルールの中で絶対に負けたくなかった。
蒸気でじっとりした髪を結び直していると、「ほら」、耳元で監督の声がしてカイナはのけぞる。カイナの脇の下から、ずいっと太い腕が差し込まれ、手紙がさし出された。
「また男から手紙が届いたぞ。高校は遊ぶところじゃないだろうが。」
ねっとりした低い声をかけられ、カイナは、手紙をくしゃっとポケットにつっこむと、いつもの作業に向き直る。
「人手が足らなくて大変なんだ。おまえ、いつから夏休みだ。勉強なんて役に立たないんだから、早く仕事に専念しろ」
カイナは曖昧な笑いでこたえた。カイナの故郷は小さな南の島で、高校へ進むにはそこを出て自活するしかなかった。今や、給料、寮、奨学金、すべてを握っている監督の理不尽に一度つきあったが最後、他のつきあいも断れない状況になってしまっている。
「なんでこんなに人手不足なんだ。おかしくなっちまう」
「早く新人さん採用していただけるといいですよね」
手を休めずに、カイナは、他人行儀に返した。監督は、ぶつぶつ言い、工員たちのミスをチェックしながら歩き去っていく。監督がカウントしたミスは点数化され、工員たちは首からその点数を下げて、廊下に立つことになるのだ。廊下には、長時間立たされている子があふれていた。
春から続いている手紙は、カイナが子どものころから知っている男からのものだった。
「私がいなくなってほっとしてるはずなんだけどな?」
男は、本土からやってくる数少ない観光客の一人だった。カイナの父が経営している家族的なホテルにとまっては宴会場でわがままをいっていたその若い男は、カイナが中学生になったとき、僻地教師として赴任してきたのだった。
都会風の長めの髪をした、青白い、時々思いつめたような目をする男は、とても浮いていた。だが、カイナの助言でだんだんと元から島の人間だったように化け、言葉も顔つきも変わっていった。子どもの頃よく遊んだり寝たり、本土の話を聞いたりした相手が教壇に立っているのをみて、カイナは身のおきどころを間違えたような気持ちになったものだ。
一度だけ、カイナは学校で感情をあらわにしたことがある。
カイナの一つ下の女子学生が、閲覧禁止になっている外国の本を持ちこんだ時のことだ。男は、大勢のまえで彼女を警察につきだすと責めたてた。その女子学生の親は二人とも島の外から来た人間だったから、自分が少しでも彼女をかばうような姿を見せたら、またよそ者扱いされると思ったのだろう。
後輩は、すっと背筋をのばしたまま、震えていた。学生たちはみな、ただ黙って彼女を見ていた。彼女のもともと白い肌がいっそう蒼白になっていき、カイナは絶対に黙っていようと思っていたのだったが、
「せんせい、その子を責めるのはやめてよ、せんせいだってむかし、宴会場にアイドルの写真集忘れていったでしょう?誰だったっけあれー」
どっと笑う学生たち。その学生たちに、カイナ本人だけがのりそびれた。ホテルの娘というのは、島で起きていることの裏も表もぜんぶ知っているのだということ、こんな風に見せつけてはいけなかったのだ。周りの風景がぐぐっと変わってしまい、めまいがした。
笑いの中、カイナの頭を撫でに来る手があった。
本をとりあげられた後輩だった。
彼女の長い髪が、カイナの頬にさわって、やさしく揺れた。
―――手紙の内容は、その後輩、歩のことだった。歩が、卒業式前に大きな問題を起こし、行方不明になったと伝えてきていた。歩の行方を知らないか、本当に知らないのか、と繰り返し繰り返し。カイナは思う。まったく何もわかっていない、と。
廊下には、外国の子たちが立たされている。お腹が空いたのか、ふらつき、潤んだ黒い目でカイナを見てくる子もいた。彼女たちの目を気にしながらカイナは手紙を読み終わり、ゴミ箱に投げ捨てる。
「昼休みは終わりだ、さっさと戻れ」
鍵をじゃらじゃらいわせている監督の一声で、機械の前に戻った。すぐに背後で鉄の扉がしめられ、鍵がかけられる。次に鍵をあけてもらえるのはいつになるのか、監督まかせだった。
丸い銀器のなかで蠢めく塊から吐き出される糸。半透明の糸を、ミシンの化け物の掛け金に導き入れる。
「糸を、歯車の油で汚してはだめ、慎重にね」
まきとられた糸は、いずれ無人飛行機の一部になるのだという。それが本当なのかここにいる誰も知らないが、湧き出る熱湯の音と、銀色の光の痛み、黒い油の臭い、ふるえる指、すべてあわさるとなんでもありえるような気がして、カイナは眠くなり、歩のことを思い出した。
一年で一番長く、一番暑い日のことだ。
夕方になると人々は家の窓や玄関をあけ放ち、海から山へ吹きあがる風をとりこんでいた。その風が、家々の窓辺に吊るされている小さな鈴、山の神社の土を焼いてつくった鈴、をちるちると鳴らしていた。今夜はみな、山の祭りへむかい、一晩中そこで過ごす。―――そんな日に、カイナは一人、海へ向かっていた。浴衣で人目をきにしながら走って、走り続け、いつもより 静かな浜辺にたどり着いたとき、
「カイナ先輩、こんばんは」
「歩、どうしてここにいるの!?」
学校での一件があって以来、二人が言葉を交わすのは初めてだった。
「……私はいつもいます。お父さんの店で売るアクセサリーの材料を探してるの。自分でつくってるんですよ、ほら、これも」
そういって、歩はブレスレットをつけた細い手首を、無防備にさしだした。こまやかな貝殻のブレスレットだった。カイナは、歩の白いワンピースにあっている、と思う。
歩は、しばらくカイナの言葉をまっていたが、ふいに視線を落とすと、あ、と言った。
「あ、先輩、あし…」
歩はすっとしゃがみこみ、カイナの血のにじんだ砂まみれの鼻緒にそっと息をふきかけた。そして、カイナがやめて、という間もなく足の親指と人差し指のあいだをちゅるっと舐めた。
「先輩、何かあったんでしょう?」
「ないよ、だいじょうぶよ…」
カイナはじっと歩にみつめられた。本当にだいじょうぶなの、といいながらカイナは、夏祭りの日のために女の子たちとおそろいで買った指輪をなくしてしまい、山にいくことができなくなったこと、けれども家にいると親に心配されるので海へきたこと、すべて歩に話してしまった。
「それと同じ指輪うちの売り場にもありますよ。もってきましょうか?」
「やめて、いらないわ」
「―――――先輩、ほんとうは指輪なんてどうでもいいんでしょう?」
「どうして、そんなことないよ」
「いいえ、ほんとうはくだらないと思っているはずです。先輩、どうして いつもそんなに何もかもを憎んでいるんですか?」
カイナは黙るしかなかった。
「私は、この島が好きですよ。まあ、高校には行こうと思ってますけど。」
歩と違って、カイナには、島を出るための道しるべはあの教師しかなかった。教室での出来事のあと、カイナは友達にも親にも知られずに島を出るため、ずっと教師とぎりぎりの駆け引きで道を探っていて、誰にも言えないことだけふえ続けていたのだった。
「先輩はどうするんですか」
「ずっと島にいるわ」
「本当のこと、教えてくれないといやですよ!」
といって、歩は楽しそうに笑った。できればわたし、先輩の進路を追いかけたいんですから、と。
「高校には行くんですけど、でも私、一つだけ気になっていることがあって……聞いてくれますか。あの木、校庭にあるアコウ樹のことです。精霊が棲む立派な樹。切り倒される前に、なんとかして山に植えかえてあげられないかって。」
「あんなに枝のからみあった気味の悪い木、とうてい無理でしょう」
「力仕事は男の子たちをつかえばいいと思うんです。わたし、けっこうお金も貯めてるんですよ。」
「校庭は接収されて滑走路になるのよ、おおきな穴をあけたら怒られるじゃすまないわ」
「先輩、一緒にやりませんか。」
「ばかなこといわないで」
「考えておいてくださいね」
歩はすっきりした顔をして、カイナの頭をやさしくぽんぽん、と撫でた。そして、ワンピースの裾をひるがえし、ひとり山の方向へ駆けていった。
その後もなんども、カイナは歩に誘われたのだった。だが、ついに最後まで相手にしなかった。
手紙は、本当に何もわかっていない、と思う。もしも本当に、卒業式の直前に歩がやり遂げたのなら、歩はこんなところには来るはずがない。そういう人が、ここに来る理由はなにもないはずだ。
カイナはただ、歩に撫でられた感触だけを思い出していた。
目の脇でボルトが破裂。
牛が締め殺されるような音が反響し、蒸気で何も見えなくなる。あたりが悲鳴でいっぱいになった。丸い銀の器がズアアと膨らんでいる。
手探りでつかんだ配水管のバルブが突拍子もない熱で、手が焦げる臭いがした。
「なにこれ、おかしいよ」
今までになく奥の深い深いところで管が悲鳴をあげ、ぐじゃぐじゃににされている感じがした。
いうことをきかない管を布であちこち縛ったが、釘がボッボッボッボッ弾け飛ぶ。カイナは、赤くなったバルブをいつまでも握っていたが、ついに炎がいっせいに立ち昇り、一本の糸が、ふっ、と切れた。
「せめて戦わせて」
風圧で倒れ、いつのまにか水びだしの床で眠っていた。
どうやってたどり着いたのか、カイナは女子寮のベッドで目を覚ます。
やがてのろのろと起きあがり、水を飲もうとして蛇口をひねった。だが、きゅう、水が出ない。とてつもなく悪い予感に襲われ、二度、三度、蛇口をひねる。それからおそるおそる、ベランダにでてみると、
「なにこれ、どういうこと……」
強い陽射しの下、工場の門の外へ避難していく労働者の長い長い列があった。そのまわりを警察たちがうろついている。つけぱなしのテレビからは、記者たちが声をはりあげるのが聞こえてきた。
―――工場の中のことは未だに詳しくわかっていません
―――監禁水攻めされていたという外国人労働者の少女たちのこともまったくわかりません
―――なにかわかりしだいまたお伝えします…
カイナの火傷の疼きが、体中に広がっていく。
そのとき、誰かが鍵をあけ、靴のまま部屋に入ってきた。
「おい、そんなテレビをみてるんじゃない、事故の原因がわかった」
監督だった。上がった息のまま、唾を飛ばしてまくしたてる。
「新入社員だ。マニュアルにないことなんだが、そいつは卒業式に出ず、三月入社したらしい。寮がないから、廊下で寝ろということになるよな。そしたらそいつは外国の女たちをまとめあげて一緒になって抗議してきたそうだ。それでとり壊し予定の工場に移したんだが、担当の監督が転勤して、そのままになった。閉じ込められて、水がなくなったからって、配水管をめちゃくちゃに壊して水を飲みやがった」
いつの間にか、部屋の中には黒いスーツを着た男たちが、ひとり、ふたりと増えている。
男たちは、低い声で言った。
「その少女が、あなたに会えたら人前で謝罪するといってるから、ついてきなさい」
監督はコマネズミになり彼らのそばをはいまわっている。
カイナはとりかこまれ、腕を捕まえられそうになって、叫んだ。
「その子の名前は?名前を教えてください」
「名前は―――――」
名前を聞いて、カイナの体は、きゅうに熱して砕けて軋んで叫びそうになった。
「私は会いません」
カイナはあっけにとられている監督を突き飛ばした。転がるように部屋から逃げ出し、そのまま、一回もふりかえらずに、門に向かって走り続ける。
ニュースには、“助けられた少女たち”の姿が、くりかえし流れ始めた。
裸足で、ずぶ濡れの、やせ細った姿。
少女たちの中にワンピースの少女がいた。
長い髪は、頬にはりつき、胸元にだらりと流れこんでいる。
細い首がうなだれ、白い腕が誰かを探すようにゆれていた。
カイナは、息を切らして門の外に立ち、空を仰ぐ。
そこにあるのは、目が潰れそうにまぶしい、初めての、気がおかしくなり そうなほどの、ただの夏休みだった。太陽の真下で、カイナは一生、歩を恨み続けると心にきめる。
どこかから懐かしいにおいの風が吹いた。踏みだした足もとに、赤い実のこびりついた小枝が、散らばっていた。