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接木の花  作者: のら
一章
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04. 転換


あの後の事はよく覚えていない。

気が付いたらまたベッドの上だった。


そして目が覚めて、意識がはっきりした頃に先生から問診を受けた。


「身体の方はもう少しすれば大丈夫の様ですね…」と先生から太鼓判を頂いた。

「しかし、精神的にですね…」とも、先生から言われた。



結果……医師の先生によると、心の負担、ストレス、海に落ちた時のショック、あと何かしらの精神的ダメージ…等々による記憶喪失と言う診断結果だった。


当たり前だが、はっきり言って記憶喪失と言うよりも彼女の過去の記憶その物が無い。彼女の本名すら知らない訳だ。だから、先生に何を聞かれても答えようがないし、先生も首を傾げるのも無理はなかった。イコール、記憶喪失となるのも外面上ごく普通の事だと思う。


だけど、よく考えたら樹の体を使うと言う事は脳だって樹の脳を使う訳だから、樹の過去の記憶があっても良いはずなんだけど、全くもって何も思い出せないし、何も分からない。


これは先生の言うとおり記憶喪失が正解なのかもしれない。ちょっと特殊だけど。

まあ、ここで、そのちょっと特殊な事情を切々と説明して周囲を混乱させるよりも、敢えてここは流れに任せた方が得策だなと思って特に何も言わないようにしていた。



それから改めてお婆さんに聞いた。

そう、この少女の事。

お婆さんは時々こちらを向いて心配そうな顔をするけれど、でも丁寧に話してくれた。


この子の名前は里山樹。四月から高校二年生になる。

透き通る様な色白の肌に細身の身体で、身長は160ちょっとあるかなぁってとこ。

でも本当に可愛い。とても澄んだ綺麗な瞳は、見つめられると吸い込まれそうな錯覚に陥ってしまう。唇も小さめで顔のバランスの中で程よく収まっていて、指で触ったらプニッとした感触がとても柔らかかった。女の人の唇に初めて触れた瞬間だった。

最近ではよく食べる為か、顔色がすこぶる良い。そのお陰で樹の可愛いさが益々強調されて、時折、鏡を見ながらうっとりしてる自分がいる。傍から見ればナルシストなんだろうなー。


またある時は鏡に向かって自分で自分に告白なんかしたりして、

「私も浩介さんが好きだったの…。」と自分に返事をして喜びのあまりベッドにもん反り返ったり、逆バージョンとして、

「浩介さん!私と付き合って下さい!」

と鏡に向かって言って、そりゃあもう涙目で悶えて楽しんでいましたよ。

あぁ…モテない男とはなんと哀れな事か…。その後、無性に虚しさだけが込み上げてきたのは無論言うまでもないのだけど…。


話は思いっきり逸れたけど、彼女の可愛いさはハンパじゃない。誰からも好かれそうで誰からも守ってあげたくなる清純派だ。これじゃ、さぞかし親御さんも心配なんだろうなぁと思い彼女のお婆さんに樹の両親についても聞いてみた。


これだけ可愛いければ、きっと順風満帆な人生を歩んで来たんだろうな…と俺はそう思っていた。

だが、お婆さんの話を聞いたらその考えは簡単に打ち砕かれた。



樹の身内はお婆さんしかいなかった。


樹は幼い頃に両親が離婚して、彼女の母親が樹を引き取り女手ひとつで樹をここまで育ててきた。

お婆さんの話によると、樹達の生活はとても苦しかったらしい。

だから樹の母親は一生懸命に身を粉にして働いたが、それでも生活は苦しく一向に良くならなかったと言う。でも彼女の母親はそんな苦労などおくびにも出さずに毎日笑顔で幸せだったそうだ。


そして、去年の夏の事。

今までの無理が祟ったのか樹の母親は体調を崩し、病院に入院する事になった。

樹は一人っ子だったし母親と二人暮らしだったので母親が病院で入院している間、田舎から出てきた祖母と二人で母親が退院する迄の間、樹と一緒に住むことになった。


しかし、母親の病気は進行性の病気で入院した頃には時既に遅く末期の病状だったと言う。

"また樹と一緒に暮したい"という母親の強い願いで一時は持ち返したかの様に見えたが……しかしその願いも通じず、家に帰る事も無く38才と言う若さで去年の秋、この世を去った。


…この話を聞いた時は涙が止まらなかった。

自分も似たように母親を亡くしているから気持ちはとてもよく分かった。

きっと、樹は多感な年頃だった筈だから相当応えたんだろうと思う。




それから2日後に個室ではなく大部屋に移った。


個室だった訳はただ大部屋が埋まっていただけで空いてる部屋が個室だけだったとの事。


しかし、この大部屋というのはプライバシーが殆ど無い。ただ、カーテンで仕切られているだけで声は筒抜けである。それに周りは女性だらけ……まあ、年配のおばさんが多かったけど、でも女性の中で寝泊まりするなんて事は経験上無かったからカーテンに囲まれた中でほぼ引きこもり状態だ。



そして、入院してから二週間が経った。

もう随分と長い事ここにいるような気がする。


「体調ももう良いみたいだし、精神面も落ち着いてきたから来週には退院出来るかな…」

と先生に言われて、樹のお婆さんは本当に喜んでくれた。まるで死んだ 婆ちゃんが喜んでくれてるようで俺はちょっと照れ臭かったけど…。


先生には「あの倒れた時に比べればだいぶ落ち着いたね、もう大丈夫かな」って言われた…。

だけど……本当は違うんだ。


本当は何も落ち着いてなんかない。


今だに夜一人になると、何故こうなったのか、これからどうなっちゃうのかと言う心配や不安に押し潰されそうで夜も眠れない時が多々ある。

目が覚めれば誰一人にとして知らない世界と、鏡に映る線の細い綺麗な少女が不安そうに微笑むと、やっぱりこれは夢じゃないんだなと思い知らされる。

決して樹の事が嫌だとかそういう事ではなく、只々自分の行く末を案じてるだけなんだけど。


だけど、そんな自分の気持ち以上に落ち着かなきゃいけない理由が他にあった。


それは……樹の婆ちゃんだ。


婆ちゃんは何かにつけて、俺の事を気遣ってくれたり心配してくれたり、常に気にかけてくれていた。

もし俺がこのまま混乱して取り乱していたら、また婆ちゃんに心労をかけてしまう。もうこれ以上、樹の婆ちゃんには心配かけたくないし、苦労をかけたくないし、もう泣く姿なんかは絶対見たくない。


だから、もう考える事をやめた。

考えても今のところ答えは出そうにないから。

それよりか、今ある事を受け止めて切り替えていこうと思った。

…と、まあカッコ良い事を言ってるけど、半分は自分の短所でもある"まあ、いいか"…なんだけど。でも、今の自分にはこの短所が役に立ってなんか憎めなかった。



頭を切り替えてからは幾分気持ちが楽になった様な気がする。


そうだよ、そうなんだ。

だって、そんな今の現状をあれこれ難しく考え込んだって何をどうするかなんて今の俺じゃ分からないし、もしかしたら今から10分後に樹の魂が戻ってくるかも知れないし、このまま戻らないかも知れない。

そう……結局、確実な答えなんて無いんだよ。


だから…いいんだ、今はこれで。

樹の婆ちゃんには本当にもう心配なんか掛けたくないし。


それよりも……だ。

今は早く樹の体に慣れる事が優先かな…



何故かと言うと…

この前、急に小便に行きたくなったので、慌てて男子トイレに何の疑いも無く駆け込んだ。

そしていつも通りに立ちションしようとしたら、自分の可愛い息子がそこに居なくて危うく漏らすところだった。掴む物が無くてスカッスカッて感じだ。


その時にこの病院に見舞いに来ただろう見知らぬ男性の方がトイレに入ってきて、それで俺を見たらしく「すみません、間違えました!」と言って慌てて出て行ったけど……いや、あなたは間違ってないですから。

寧ろ、入院患者として女性モノの院内服を着て小便器に立っているこっちこそ間違ってるし滑稽なんですから。

「俺の方こそ!」と言いたかったけどこっちもそれどころじゃなくて慌ててそのまま男子トイレの洋式に駆け込んだんだけどね。

あの時は用を足しながら、男子トイレに変質者がいるって噂になったらどうしよう…と少しチビッてた…


…いや、ビビッてた。


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