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接木の花  作者: のら
二章
34/35

33. 兄妹



山の中裾くらいにひっそり佇む山寺の成瀬家では、街の喧騒も無く、夜となれば辺りはとても静かになる。

強いて言えば、部屋の外から聞こえる時折吹く風が、優しく樹々を揺らし、サワサワと葉の擦る音だけが部屋の外から聞こえてくるくらいだ。


「どう?……何か思い出せそう?」


そんな静かな夜の静寂の中から希はそっと尋ねてきた。


「…………。」


すぐには希の問いに答える事は出来なかった。

何故なら、今の自分の気持ちを上手く伝える言葉が、浩介には見つからなかったからだ。この一枚の写真から与えられた情報に、戸惑いや驚きが混同して暫し動きが止まっていたから。そして、今まで浩介がなんと無く用意していた樹と言うイメージ像と、写真で目にした実際の樹とでは想像以上に違っていて、そのギャップで気持ちの整理が追い付いていなかったからだ。


「これが………私?」


「…………そう。」


矢継ぎ早に出てくるいつもの口調とは違って、今の希の口調は何処か優しい。


「……驚いた?」


「…………う、うん。」


…これが…本来の樹…

…だとすれば、希が言うように…正直、驚いた…。だって、目に活力が無いと言うか…まるっきり表情が無いんだもの…。あの親友の月島遥と一緒に楽しそうにしてた時の樹とは、まるで別人みたいだ…。


…あ!……そうか……。

この頃の樹は、母親の病気や月島遥の不幸が立て続けに重なったから……だから、こんな顔で……


写真を手に持って呆然としている少女に、希は軽く口元を緩めて微笑んだ。


「私も樹には驚いたわよ。だって、2年生で同じクラスになってから、久しぶりにあなたを見た時、今の樹と去年の樹とではまるで別人みたいだったから。」


「ハハ…ハ…そ、そう?」


……ま、まあ、実際別人だからね…


「そうよ。だって私が知ってる物静かな樹とはまるっきり違って、こう、何て言うのかな……角が取れたって言うか、妙にフニャフニャしてたって言うか、とにかく以前の樹とは雰囲気が急に変わって目を疑ったもの。」


…フニャフニャって何だよ…フニャフニャって…

…でも、そんなに違ってたかなぁ…?見た目は樹本人と全く変わらないんだけど。

希は勘が鋭いからな…


「あ、それと話は変わるけど、あの時はほんとゴメンね。お母さんが失礼な事を言っちゃって。」


…ん?…あの時?

ああ、玄関で初めて希のお母さんに会った時の事か…。確か、喋った!…って言われたんだっけ…。でも、今なら希のお母さんが何故そう言ったのか分かる気がする…


「あ、いいよいいよ。特に気にしてる訳でもないから。」


「それなら良いんだけど……。あっ、そう言えば、さっき、お師匠様も…って言ってたけど……もしかして、お爺ちゃんにも何か言われた?」


「ううん、それも特に何か言われたって言う訳ではないんだけど、ただ雰囲気が違った…とか言ってた。でも、とっても良くしてくれるし、なんだか申し訳ないくらいだよ。」


そう言って少しはにかむ。脳裏にはお師匠様が熱心に手取り足取り指導してくれてた姿が頭を過る。


「…でも……、過去の私って、こんな表情してたんだね。」


再び手に持っている写真へと目を落とした。

相変わらず、写真の中の樹は、透き通る様な白い肌に、少し栗色が掛かったサラサラな髪、そして、見るたびに惹き込まれそうな、そんな息を呑む程の美麗な少女だ。だが、周りの子達とは一線を画して、その美麗な少女の表情には一寸の笑みも無く、とても冷たく険しいものだった。


「……その写真はね、去年の夏頃に、委員会の会合で顧問の先生が撮ってくれた時の写真なの。

初めは皆んな、カメラを向けられて緊張してたんだけど、先生が楽しい雰囲気を出したいから、もっとざっくばらんにやれって言われて………それで皆んなが楽しそうに笑ったりポーズを取ったりしてたんだけどね…。」


「へー、だからかぁ。みんな楽しそうだもんね……。」


…………。


……ん?………夏頃…?


…まてよ、確か…樹の母親は昨年の秋頃入院したとか言ってたよな?…って事は、この写真はその入院前って事でまだ母親が亡くなる前になる。それに遥のあの事件だって年明けに起こったから、この写真が撮られたのはその事件の前って事に………あれ?

じゃあ、樹は何でこんな表情してんだ…?


「あのさ、この時の私って……体調が優れなかったの?」


ソファに深く腰を沈めている希に、思った事をそのまま聞いてみる。


「ううん、体調は……悪くなかったと思

う。」


「え?……じゃ……なんで……」


周囲の子達が笑顔でいる中で、余程何かの理由が無い限り一人だけ冷めた顔をそうそう出来るものでは無い。しかし、その疑問の答えが見つからず、浩介はまた頭を悩ます事になった。


…他にこんな表情になる理由なんてあるのか?この写真の樹は、母親と親友を亡くした事による哀傷の想いからでこんな表情になってたと思っていたのに……

でも、それが違うとなると、体調が悪かったとしか……こんな冷たい表情になる理由なんて無いじゃないか…


「…ねぇ、もしかして……この写真のあなたは、月島さんの事とか、あの噂とかでなってると思った?」


俯きながら言葉を失った少女に対し、希はソファで少し前屈みになりながら、こちらを見つめている。


「え!?……あ…う、うん。」


希に考えている事が見透かされているようで思わずドキッとする。


「…そっか…。」


そうボソッと呟いた希は、ゆっくりと立ち上がってきれいに並べられたヌイグルミの棚へと近づく。そして、彼女が特別お気に入りだと言ったカタツムリのヌイグルミをそっと抱き上げた。

思わず、初日に聞かされたあのヌイグルミの講義をまた延々と聞かされるのかと思うとついつい反射的に身構えてしまう。


「あのね……体調が優れないとか…月島さんの事とか……そういうのじゃないのよ、あなたの場合。」


「……え…?」


その希の言葉に、樹が何故無表情なのかと色々と考え巡らしていたが、その全てが打ち止めされたような気がした。

もしかしたら、記憶の中で遥と楽しそうにしていた樹が浩介の理想であって、今、写真の中で冷たい表情をしている樹を、ただ否定したかっただけなのかも知れない。


でも、希の次の言葉で、そんな考えは簡単に覆され、現実は確実なものになった。


「……その……あなたってね、………一切笑わなかったの。」


「……え!?」


その言葉を聞いた時、一瞬、希が何を言っているのか分からなかった。いや、本当は浩介の心の奥底では微かに分かっていた事かも知れない。でも、月島遥と楽しそうに一緒にいた記憶が強すぎてその想いは霞んでいた。

そして、希のストレートに放った言葉は、浩介の心を戸惑わせ、そこで佇んでいる希の横顔を見つめている事しか出来なかった。


「……笑わ…なかった…?」


ぬいぐるみを撫でながら希がコクンと頷く。


「去年の私って、樹とは同じクラスではなかったし、委員会でしか樹と会う機会がなかったから、はっきりとした事が言えないんだけどね……でも、今のあなたみたいに、この頃の樹が笑った…なんてとこ一度も見た事が無いの。」


「……え?……それって…どういう……」


改めて写真を見ると、樹の周りの子達は生き生きとした表情で、カメラに向けてポーズを取ったり笑ったりして楽しそうな雰囲気を醸し出している。それに対して、樹だけが冷たい表情をしていた。この周囲との温度差が、希の言った言葉に信憑性をもたらし、ジワジワと現実味を帯びて来たのだった。


「って事は……私って、元々こんな表情をしてたの?」


そう尋ねるが、希はヌイグルミを見つめたまま動かない。やがて、少しの間を置いてゆっくりと呟いた。


「…うん。たぶん。」


「…………。」


…………


…一切…笑わなかった……


…………。


ああ…そうか。…だからか……


…あの時……夢の中で会った樹の母親が言ってたあの言葉………確か……


『…幸せの種って、笑顔なのよ……だから、笑って……樹…』


…あれが夢なんかじゃなくて、もし樹の確かな記憶だとしたら……きっと病床についてた樹の母親が、笑わない樹を案じてそう言ったのかも知れない……。それに病床の際で作ったと言う母親のお守りだってそうだ。樹にはいつも笑っていて欲しいって思いがあったからこそ、だから、樹の笑顔に似せてまでお守りとして作ったんだ……


写真の中の樹は、こちらを見つめたままだ。

そんな樹の瞳を見つめ返していると、不思議とあの時の記憶が蘇ってくる。

…それは、樹を助ける為に海に飛び込んだ時の事だった。力尽きて海の中をゆっくりと沈んでいく時に、暗くてとても寂しく感じたあの時の事を。樹の瞳を見つめていると、何故かあの時の記憶が重なってくるようだった。


「いつだったかな……樹のクラスの前を通った時があったの。廊下を歩いていたら、窓際の席で座っているあなたが見えてね。周りの人達はとても楽しそうにお喋りしたりふざけたりしてたんだけど…あなただけは自分の席で頰杖を付いて、黙って外を眺めてたの。その写真の様に、無表情のまま口を堅く閉ざしてね。まるで、わざと周りを遠ざけていた様な……そんな気さえしたわ。」


「…………。」


希は胸に抱いたお気に入りのぬいぐるみを軽くポンと上に放る。


「でもね…なんでだろうね。あの時の樹が、とても印象的で今も頭に残ってる。

一人だけ窓際の席で、陽の光を浴びながら外を眺めてる樹を見た時……、一体何を考えてるんだろう…だとか、もっと笑えば素敵なのにな…とか、私に何か力になれる事って無いのかなぁ…とか。

大して仲も良くないのに、色々と気になっちゃってて……。笑っちゃうでしょ?」


「………希……」


「……って、私ったら何を言ってんだろうね!ご、ごめんね、今の聞き流して!」


少し頬を紅潮させた希が、左手でぬいぐるみを抱えながら、右手を左右に大袈裟に振る。


…希は希なりに樹の事を気に掛けてくれてたのかな…


「ううん、話してくれて嬉しかった。お陰で今まで知らなかった自分の過去が少しづつ分かってきたような気がするよ。」


…母親の事や親友の遥の事、そして学校中に広まった噂の事。

樹が何故こんな表情をしていたのかは、きっとこれらの理由があったからだと思ってた。…だけど、違った。

俺がこの学校へ来た時、何となく疎外感を感じた事があった。クラスの生徒だってそうだ。誰も樹に対して関心を示さなかった。まるで腫れ物を触れるみたいに。…まあ、加納明里に睨まれていたからって言うのもあるだろうけど…、でも本当は、樹自身が周囲を皆んなを遠ざけていたのかもしれない……。


…だけど、写真部の存続に手を差し伸べる優しさや、親友の遥を大切に想う気持ちもまた、この表情の裏に隠された偽りの無い樹自身だったと俺は信じたい…


「希、ありがとう。」


「な、何よ、改まちゃって。べ、別にいいわよ。………そんなの。」


クルッと背中を向けながら、希は照れくさそうに言った。



「おっ、何だか楽しそうだな。」


その時突然、背後からノックとドアを開けるの音が同時に聞こえ、ヒョコっとドアの隙間から左頬にハクのある傷が現れた。


「お、お、お兄ぃっ!!」


「何だ…樹、やっぱりまだ風呂に入ってなかったのか?」


「ちょ、ちょ、ちょっと!ノックは?もう!何でいっつもいっつも突然入ってくるのよっ!!」


希が甲高い声でドアの隙間から顔を覗かせている兄に怒鳴り散らす。


「あれ?おかしいな?お前の耳には届かなかったのか?ノックした音が。」


「ええ、そうね!届いてたかもね!でも、ノックとドアを開ける音とお兄ぃの声が見事にダブっててよく分からなかったけどねっ!そもそもノックと言うのは相手に入って良いかを伺う為にあると思うのっ!ノックと同時にドアを開けるならノックの意味なんて無いじゃない!」


ドアから覗かせた顔は、眉間にしわを寄せ目を瞑る。


「分かった分かった。お前のキンキン声は耳をつんざくんだから、そう喚くな。」


「喚くなって…?あのね!そもそも、そうさせてるのは一体何処の誰なのよ!!」


どうやら実の兄のこの突然の乱入は、今日が初めてではないらしい。隼人の妹も良い年頃の女性なのに、当の本人はそこら辺をあまり気にかけている様子が見られない。


「分かった分かった。分かったから、お前のその…そもそも論はもう勘弁してくれ。」


「◎△$♪×¥&%────!!」


隼人は、この場を手っ取り早く収めたいつもりらしいが、一旦着いた火は中々消えそうにない。いや、それどころか勢いを増している様な気もする。結果として隼人は、早く火を消そうとして水をザブザブ掛けていたつもりが、それが実は水では無く、油だったと言うところか。


「ま、まあまあ、二人共落ち着いて…」


「樹はちょっと黙ってて!今日という今日は言わせてもらうんだから。」


「……あ、はい。」


形勢的には、一方的に喋る希の方が有利に見える。しかし、隼人の方は煙たそうな顔こそしてはいるが、大して気にも止めていない様子でウンウンと適当にあしらっていた。


……あ……でもこの光景って、なんか懐かしい気がする…

そう言えば、俺も勝手に妹の部屋に入ってよく怒られたっけ…。あの時も美琴にあーだこーだとブツブツ言われたけど、俺も成瀬さんの様に、別に怒る程の事でもないだろって特に気にしてなかったっけ。やっぱり女の子にとってはいきなり部屋に入られたら嫌なもんなんだろうな…。

…でも、完全にヒートアップする前にそろそろ止めに入ったほうがいいんじゃない?俺も経験あるけど、あの金切声はたまったもんじゃないからな…


「あ!…そう言えば成瀬さん!何か用事があって来たんじゃ…」


少し大きめな声で二人の間に割って入ったのが功を奏したのか、二人の動きがピタリと止まり兄妹揃ってこちらに顔を向けた。


「ん?…ああ、そうだった。さっき希から樹がまだ風呂に入ってないからと聞いてな、少し待ってはいたんだが……どうする?俺が先に入るか?」


「あ、そっか、そうでしたね。……えっと…」


元より優柔不断な浩介は、急に選択肢を投げられると直ぐには決められない。


「なら、俺と一緒に入って背中を流してくれてもいいんだぞ?」


…ん?あぁ、なるほど。一緒に入ればお互い待たせなくてもいいのか…


「そうですね。わかりました。えっと、それじゃあ、少し待っててください。今、着替えの仕度をしますから。」


「おう、早くしろよ…………って、えぇっ!?」


「え?………何か?」


……ハッ!

…しまった!今は樹だった!

なんとなくさっきから兄妹のやり取りを見て思い出していたら、すっかり男だった自分に戻ってた…!


「あ、………えっと…」


「…………。」


「………ハハ…」


何やら何とも言えない気不味いようなこっぱずかしいような空気が、希の部屋へと漂ってくる。


「…お兄ぃ、鼻の下が伸びてるわよ。」


少しの沈黙の間から、ボソッと希が呟いた。


「バ、バ、バカヤロウ!だ、誰が鼻の下伸びてるだって?ピピピ、ピノキオじゃあるまいし…」


「ピノキオは鼻よ。鼻の下じゃ無いわ。」


どうやら形勢は妹の方へ傾き始めたらしい。逆に兄は劣勢な状況に追い込まれた。


「ピ、ピノキオだって男なんだから鼻の下くらい伸ばすもんだろ!」


兄の苦し紛れの攻撃!


「ふーん。」


しかし、妹は軽くかわした!


「いいか!男ってのは、だいたいそんなもんなんだよ!」


兄は有りがちな言葉で自らの防御力を少しだけ上げた!


「ところで、何でそんなに慌ててるの?」


ズガズガズガーン!

会心の一撃!

兄はよろめき戸惑っている!


「と、と、とにかく!御託はいいから、早く入れ!いいな!」


ザザザッ!

兄は御託を言ってとうとう部屋から逃げ出した!


ティロリロリーン!


妹は兄を倒した!

経験値500Pを手に入れた。

宝箱から優越感を手に入れた。


慌てて隼人は足早にこの場から去って行った。妹は意外な所から兄を倒したのだった。


…あれ?成瀬さんに助け舟を出したつもりがドロ舟みたくなっちゃったな…


兄が去って行ったドアから、大層ご満悦な顔をしながら妹はこちらに振り向いて更にニヤッと笑う。


「…い、いや、別に、そう言うつもりじゃ無くて………」


そう希に言ってはみたが、彼女からは何の返答も貰えず、その代わりにただ一回だけ大きく頷いて、親指を立てた拳を軽く前に出されたのだった。


…いや、ナイス!…じゃ無いから…




こうして成瀬家の夜は更け、明日はいよいよこの短期合宿の最終日を迎えるのだった。






ごめんなさい。少し迷走してます。

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