01. 出会い
「先生!樹は…樹は大丈夫なんでしょうか?!」
60代後半位の女性が医者に向かって歩み寄る。
「お願いします!あの子を助けて下さい!あの子は…あの子は母親を亡くしたばかりなんです!私は、私はあの子までいなくなったらどうやって生きていけばいいのか…。」
そう言うとその女性はその場に泣き崩れた。
「落ち着いてください。樹さんのお婆さんですね。私共が最善を尽くします。どうか無事を祈っててください。」
泣き崩れた女性の肩に軽く手を置いてから医師は踵を返し処置室に入っていった。
………。
とても…とても暖かく、そして穏やかな光が包み込む中で神谷浩介は目を覚ました。
その光に包まれていると、すごく安らいでいくのが分かる。
どうやら自分はその円球の様な光の中に包まれてフワリフワリと宙に浮いてるらしい。
穏やかな気持ちでとてもいい気分だ。
少しして、自分は何処かの部屋にいるらしいという事に気が付いた。
全く見覚えのない部屋。無機質な部屋。
そんな部屋の天井近くを黄金色の球体として宙に浮いている。
ここは病院らしい。
一つの処置台を中心に白衣を着た人達が慌ただしく動き回っている光景が理由である。
その白衣の人達は何をしているのかな?と天井近くの球体から浩介が覗いていると、一人の医師が両手に持った機械を擦り付けベットで力無く寝ている人の胸にそれを当てる。
その瞬間身体が跳ね上がりはするがそれ以降反応が全くない。
「……この青年の親族の方に連絡は?」
「先程、妹さんに連絡が取れました。父親は海外に出張中で母親は亡くなっているそうです。今からこちらに向かうとの事でした。」
「そうか…。」
……あ。
………。
…あそこに……寝ているのは俺だ…。
そっか、あの医師は俺に治療してくれてたのか。
まるで他人事の様に処置台に横たわる自分を見ていた。白衣の医師達はそれから何度か心肺蘇生の電気ショックを試みる。
…これは、夢か?…夢だよな。…そうだよな。こんな光る玉の中でフワフワ浮いてるのは夢じゃなきゃおかしいもんな。
しかし、夢にしてはリアルだなー。
………。
それにしてもさー、ここから自分を見ると、ブサイクだなー、俺って。
……ん?
あれ?そっちで寝ている子は…。
はて?あの子は……どっかで見たような……?
仕切りのしてあるカーテンの向こう側でも同じ様に処置台の上で治療を受けている若い女性がいた。
彼女は酸素マスクをはめてはいるものの顔が真っ青なのがよくわかる。
あの子は…あの子は…えっと、
………。
そうだ、思い出した!
あの時、海に落ちた子だ!
一応助かったみたいだけど顔色悪そうだな…。大丈夫かな…?助かって欲しいよなー。
そうそう、それでさ、二人とも元気になって「浩介さん!あの時は助けてくれてありがとう!よかったら私と付き合って下さい!」
……なんてね、ハハハ、無い無い。
あんなに可愛い子にそんな事言われたら、俺死んじゃうかもー!
…でも…あったらいいなぁ。
少女の処置室に先程の祖母と見られる女性が少女の元へと招かれた。
「樹さんの身内の方ですね。私どもは考えうる治療に最善を尽くしました。…が、しかしですね、落ちた理由も然りながら樹さんの生きる気力と言いますか、生命力があまり見受けられないのです。
どうか樹さんに呼び掛けて励ましてあげて下さい。」
お婆さんは先生に一礼すると少女のそばに近寄り緊迫した面持ちで彼女に声をかける。
「樹ちゃん!樹ちゃん!お婆ちゃんよ!樹ちゃんっ!」
少女はお婆さんの必死の呼びかけにも応える様子も無く、今にも止まってしまいそうに只々弱々しく呼吸をするだけだ。
そんなお婆さんの姿を天井近くから見ていたら、ふと…不思議な光景が目に入ってきた。
それは、少女の体から何かが抜け出た様にスゥーと出てくるものがあったからだ。それはやや灰色に光る球体のような物で少女の体からゆっくりと現れた。
ん?…なんだろう、あれは?
なんかくすんだ綿毛のようだなぁ。
…お、お?こっちに向かって浮かんでくるよ…?
そう言えばこれは夢だったと思い出し、それならば…と、ちょっとした好奇心で触れてみようとその灰色の綿毛の様なフワフワとした球体に近付いてみた。
…よし!あともう少し…触れそうだ…。
……事の始まりは、この好奇心からだったのかも知れない。
いや、少女を助けた時から………?
何れにせよ、もし、この時…神谷浩介がこの灰色の球体をそのまま見逃していたら……これから彼の身に起こる不可思議な運命は起こらなかっただろう。
彼はこれから血相を変えてやってくる妹によって自分が死んだ事に気付かされ、無事に天国に召されていった筈だ。
…運命のいたずらだったのかも知れない。
そう、彼は身構える事も無く不安も戸惑いも無く、只々無防備にその灰色の球体に触れたのである…。
…えっ?
………!
…あ…あぐぐぅぅうっーー!!
その灰色の球体に触れた瞬間だった。
…一気に見た事もない映像が心に流れ込んできた。その映像は一人称から見た誰かの記憶で、一つのワンシーンが次々と捉えきれないスピードで伝わってきた。
…あ……ぐ…ぐ…!
その流れ込んでくる記憶の殆どは、悲しみを主とした負の感情だった。
その記憶のワンシーンを一つ一つを捉え理解する事は出来なかったが、後味として残る印象が苦しさや寂しさ、悲しみや嫌悪などの、生の活力をごっそりと削がれる負の感情だった。
その感情の中の一つに浩介自身も同じように過去に抱いた共通する感情があった。
それは大切な人、大好きな人を亡くした悲しみ、と言う感情だ。
浩介はまだ幼かった頃に大好きだった祖母が亡くなり、そして、何年か前に実の母親を亡くしていた。
自分の事を何かとつけて叱り、口やかましく言ってくる母親に、当時の自分はうっとおしく思っていた。しかしそんな母親が病気で死んでしまった今、それは愛情の裏返しだったと言う事に今更ながら気が付いた。
今となっては、そんな母親の口やかましささえ愛おしい。
浩介は昔から内向的な子供だった。故に格好のイジメの的になっていた。そんな浩介の心の拠り所が彼の祖母だった。いつもいじめられて帰ってくると優しく慰めてくれた婆ちゃん。
だけど大好きな婆ちゃんと一緒に居られた時間は突然奪われた。
…交通事故だった。
どうする事も出来ない悲しみと、変える事が出来ない現実を、幼心へと痛烈に刻み込まれたのを今でも覚えている。
22才になった今、時間が傷口を癒してくれたが、まさかその悲しいの記憶をここで振り返し体験する事になるとは思ってもいなかった。
もう、あんな想いは嫌だ…切実に思っていると、処置室から悲痛な声が聞こえた。
「樹ちゃんっ!!ダメ!行かないで!樹ちゃん!お願いっ!!」
処置室では少女の心電図の波形が無くなった為か、ピーと言う長く一定の音が鳴り響いていた。
少女のお婆さんが必死になって悲痛な声で呼びかけている。その横では医師が心臓マッサージを施していた。
「樹ちゃんっ!!」
…ダメだ……ダメだよ…
ふと、浩介の心が和らいだ。
さっきまで受け止めていた感情が軽くなった様な気がした。
疑問に思い軽く目を開けると、今まで側にいた綿毛の様にフワフワとした灰色の球体が、浩介のいる黄金色の球体から離れ出して、更に上へと昇り始めたからだった。
………あ…
「お願いっ!!戻ってきて!!樹ちゃんっっ!」
…お婆さんは最後の力を振り絞って叫んだ後、そのまま寝ている少女に泣き崩れた。
医師はもう諦めたのか心臓マッサージによる蘇生の手を止め、目にライトを当てる。
そして、静かに佇み自らの腕時計を確認していた。
…婆ちゃん…。
……………
…ダメだ…ダメだよ……こんな…の……
……………
………………
………行っちゃダメだっっ!!!
……その瞬間……
…神谷浩介はこの場から消えたのだった……。