13. 危機
ーーーーーー
[おい、浩介。何だよ、このパン。]
[えっ……確かあんパンって…]
[…あ?誰が粒あんを買って来いって言った?
俺はこしあんの方が好きなんだよ。もう一回行って来い。]
[え?でも…もう…]
[行って来いって言ったの聞こえなかったか?]
[…あ…ハハ…]
[てめぇ、何ヘラヘラしてんだ?]
[いや、だって、最近お金も……」
[は?満足した商品も貰ってないのに、なぜ金が払える?]
[え?でも、昨日だって、その前だってまだ…]
[……お前さ、いつからそんな口の利き方を俺に出来るようになったわけ?
…どうやらここらでお前には教育が必要みたいだな。]
[…え……ちょっ…]
[……………]
[…ドスッ!]
[ゴフッ…!]
[顔は勘弁してやる。
おい、浩介。粒あんの別名って知ってるか?……半殺しって言うんだってよ…]
[…………。]
ーーーーーー
…………
「……よくまあ、俺にそんな口の利き方が出来たもんだよな。
…姉ちゃん、どうやらあんたには教育が必要みたいだ。」
軟派な男が言った言葉が、忘れていた…いや、忘れたかった高校時代の暗雲の過去とシンクロする。
…この重い空気…似ている。
俺がいじめにあってた頃、殴られる前のこの重い空気と言うか、この独特の匂いと言うか……背中の真の筋がゾワゾワッと寒気が走り、それと同時に体が瞬間冷凍したみたいにピキッと硬直するこの感じ…。
…そうだ、この後、俺は絶対殴られてた。
…まさかと思うけど…
美琴が立ち止まって声色の変わった男を見据える。それに対して男は、顔が下にこそ向いてはいるが、そこから見える口元が不気味な笑みを浮かべていた。
「気の強い女は嫌いじゃないぜ?
……だが…」
…………
…嫌な…嫌な……
……嫌な…予感ーーーがっ!
ーーードスッッ!!
…………
…………。
「な!……い、樹…?」
「え…お兄ちゃん?……い、いやぁ!お兄ちゃんっ!」
やっぱり浩介の嫌な予感は当たっていた。
少なくとも、いじめられっ子だった経験は無駄じゃなかったって事か。
お陰で咄嗟に美琴の前に出て、男が放ったボディーブローから美琴を守る事が出来た。
しかし、見上げる様な男からの鉄拳は、ひとまわりも小さな体が受け止めるには余りにも重すぎた。即座に樹の華奢な体はその場で膝から崩れ落ちうめき声をあげる。
美琴がその場でうずくまっている俺を案じて必死になって声を掛けてくる。一方、俺の腹を殴った軟派な男は、俺が取った行動が予想外だったのかその場で硬直したままだった。
「あーあ、お前のお目当ての女、殴っちゃうとはな。」
横で傍観してた強面の男がポケットに手を突っ込んだままボソッと呟いた。
「あ?」
「…あ、いや、何でもない…。」
「おい、ケンジ、もう下手な芝居はやめだ。こうなったら二人とも無理矢理連れてくぞ。
ケンジ、そっちの女、抵抗したら思い切り殴れ。介抱したフリをしながらさらえば怪しまれんだろ。」
「…あ、いや、俺、女を殴るのはちょっと…」
「チッ…使えん奴だ。」
軟派な男はしゃがみ込み半泣きになっている美琴に顔を近付けて、また先程の不気味な笑みを美琴に見せ付けた。
「おい、姉ちゃん。さっきの威勢は何処行っちゃったの?俺に噛み付くんじゃなかったの?」
美琴は涙をいっぱい溜めた目でその男をキッと睨み返す。
……み、美琴に触るな…
腹を殴られた所為か、自分ではそう言い放ったつもりだったが口から言葉としては出てこなくて、ただ、かろうじて動く右手でそいつの足の裾を掴んだだけだった。
「悪かったな、樹。まさかお前が飛び出てくるとはな。咄嗟に力を抜いたが、痛かったか?」
こ、こいつ、何で俺の名を…
「実はな、俺たち、お前達を街角で見つけて後をつけて来たんだよ。
…その様子だと、本当に記憶喪失なんだな。やっぱり俺の事を覚えてないのか?江之内だ。江之内充。
…まあいい、そのうち思い出すだろ。案外体は覚えているかもな。」
は?…どういう意味だ?
「ほら、肩を貸してやるから来いよ。」
くそ、俺に触るな!
「その子から離れなさい。」
この江之内と言う男に腕を掴まれ無理矢理立たされそうなところに、背後から突然声がした。
その突然の声の主が美琴だと思い、後ろを振り向いたが、美琴もまた同じ様に後ろを振り向いている。
その意思の強さが表れたしっかりとした声の主は……
…希だった。
昨日教室で声を掛けてくれて、そして更衣室まで連れて行ってくれた成瀬希だった。
「……またお前か。
ほんと面倒くせぇ奴だな。
…………。
分かった。
今日はこれで引き上げてやる。
だが、俺が優しいのは今日限りだ。次に邪魔する事があったらお前の大切なものが消えると思え。
…おい、ケンジ、引き上げるぞ。」
「あ、あぁ。」
「じゃあな、樹。学校じゃ周りがうるさくて思う様に会えねえけど、お前からならいつでもいいぞ…樹。」
そう言うとこの江之内充と言う男は身動きが出来ない俺にキスをしてきた。そのキスは1秒も掛からない程さり気なく、気付いたのは俺とこいつだけなんじゃないかと……そんな最悪なキスだった。
「………!!」
「フッ…じゃあな。」
江之内充は仁王立ちしている希をひと睨みするとその場から踵を返し街中へと去って行った。
ーーガァァン!!
ななな、何が、フッ…だ!ふざけんなっ!!
お、お、俺の…俺のファーストキスがぁ…ううっ。
誰だよ…ファーストキスはレモン味って言ったの……全然レモン味なんかじゃねぇわ…ただヤニ臭いだけじゃねえかよ………しかも、男に……ううっ…
「お兄ちゃん…お兄ちゃん、ごめんなさい。私があいつらを煽らなければ、こんな事にはならなかったのに…本当にごめんなさい。」
美琴はくりっとした目を涙いっぱいにしながら謝ってくる。
「違うよ。お前が悪いんじゃない。女を平気で殴るあいつらがおかしいんだ。それにもう大丈夫だから、もう泣くな。」
…泣きたいのは俺の方だぞ…
「…うん。」
「災難だったわね、樹。…立てる?」
希が近寄ってきて優しく微笑み、手を差し伸べてくれた。
「ありがとう…希。何てお礼を言ったらいいか。でも本当にありがとう。」
希の差し伸べてくれた手を借りてヨロヨロと立ち上がる。
「私がもう少し早く来てたら殴られずに済んだのに、ごめんね。
街中であいつらを見つけた時、嫌な予感がしたの。だからそっとあいつらの後を付けていたんだけど途中で見失っちゃって。でも、最悪の事態だけは免れたようね。」
「あ、あの!私は樹の従姉妹になる、神谷美琴って言います。さっきは危ないところを助けて下さって本当にありがとうございました。」
「いえ、どういたしまして。私は樹のクラスメートの成瀬希と言います。樹も見た所、大丈夫そうだし、美琴さんも無事みたいで良かったわ。でも、まだあいつらがウロウロしてるといけないから今日は長居をしない方が良いみたいね。それじゃ、私はこれで。樹、また学校でね。」
それだけ言うと軽く手を挙げて、もう歩き始めていた。
「あ!希、本当にありがとう!また明日!」
そう言って足早に去って行く希に声を掛けると、希が後ろを振り向いて軽く微笑んだ。
相変わらずその場所に留まって居られない希なのだが、でもそんな希が今日はとってもカッコ良く後光が差している様に見えた。
楽しかった美琴との街デビューも二人ともすっかりと意気消沈してしまって、希の助言通りに家に帰る事にした。何よりあいつらがまた来そうで、おちおち楽しんでも居られない。
あいつ…江之内充とか言ってたっけ?
殴られた時とても苦しかったけど、あれで力を抜いたって言うんだから本気だったらどうなっていたことか…
それでも暫く立ち上がれなかったから、女の子の体というのはデリケートなんだよな。もっと樹の体を大事にしないと…
それにしてもあいつ…過去に樹と何があったんだろう…
間違いなく良い事ではなさそうだよな。女を平気で殴るヤツだから…
うぅ…まだ、お腹がズキズキする……
「お兄ちゃん、まだ痛むの?」
バス停から家までの少しの距離を美琴と二人で歩いている途中で美琴が心配そうに聞いてくる。
「いや、全然大丈夫。蚊が止まったかと思うようなパンチだったから何にも効かなかったよ。アハハー」
…バレバレかな?
程なく元自分の家に着いた。
街からそのまま樹の家に向かっても良かったんだが、美琴も心配だったし、何よりもそのまま直帰する気分ではなかった。
暫く元我が家で休んでから、いざ帰ろうとすると美琴が車で家まで送ると言ってきた。
もう10年落ちくらいの白のボロ車。
海外へ出張中の親父のセダン。
本当は俺が貰う筈だったのにな…。
原付じゃ事故した時に危ないからと言って、美琴が車で俺が原付……。え?俺ならいいの?と思ったけど、まあ、しゃーない。
溺愛されてる妹は、俺より3つ下だから現在19才。まだ免許取って1年経ったかどうかだ。
ボロ車に若葉マーク……うーん、実に怖い組み合わせだ。
せっかく美琴が車で送ると、そう言ってくれたんだけど、正直なところ…自分の不甲斐なさに心底情けなくて独りになりたかったってのもある。それには歩いて帰るのが丁度良かった。
だから美琴には終始心配していたが、笑顔でまた来るからと言って別れた。
…まあ、若干美琴の運転も怖いってのもあったけど。
帰り道、行きに歩いてきた夕暮れの堤防をトボトボと歩く。
ジョギングしてる人、犬の散歩をしてる人、ウォーキングをしてる人が横を通り抜ける。
そのまま行きに通ったふれあい公園に入り、ベンチに座って空を見上げながらフゥと一つため息を吐いた。
休日も終わり、夕暮れの時間帯は足早に帰る人達もいる。親子連れで公園の滑り台で遊ぶ子供やアスレチックジムではしゃぐ子供達もいる。そんな子供達を母親が家に帰るように促している何とも平和な光景。
俺はというと、ベンチの前に転がっている小石を拾い上げて、手の中で転がしながら今日街であった出来事を…考えたくなくても考えてしまっていた。
…あの時、希が来てくれていなかったらいったいどうなっていたか…。
それと、あいつと樹の間には何があったんだろう…?
……あいつは、またやってくる……よな。
その時、俺は……
……ハァァ。
手の中で転がしていた小石を軽く投げた。
小石が飛んでいった先の木の陰で、動く人の影があった。
何だろ?と思いながら見ていると、ジャージ姿の男の人が準備運動を終えて何やら構え始めたところだった。
空手の型かな?
凄く姿勢がよくて…なんだか綺麗だなぁ。
夕暮れをバックにその男の人は流れる動作で型を繰り出す。しばらくの間、時間を経つのも忘れ魅入っていた。あまりにも魅入っていたので、いつの間にか近付いて木の陰で見ていた。
そして、その流れる様な型が一通り終わると、一つ呼吸を整えて、一本の木に向かってまた新たに構え直し、そしてゆっくりと動きを止めた。
それは一瞬の出来事だった。
その男の人は何かの構えから両拳を一気に腰まで戻すと、そこから両拳を木に向かって突き出したのである。
右拳は丁度胸の高さ位に、左拳は丁度お腹位の高さの所へねじ込むように木に向かって突いたのである。
ドスンとぐぐっ篭った鈍い音が木から発せられた後、その男性は直ぐさま歩幅分後ろに下がり、続けて今度は体を一回転させてから左足をドンッと力強く踏みしめて、今度は両拳を開いた状態で先程と同じ様に木に向かって突き出した。
すると、先程のドスンと言う鈍い音とは違い、今度はバァァンと言う鋭い音が周囲に鳴り響いた。
俺はその一瞬の動きと言うか、その一連の流れにすっかりと心奪われていた。さっきまで木に隠れていたけれど、今はそんな事など忘れて木陰から出て思わず見惚れてしまっていた。
……すごい…!
その男の人は、先程の衝撃でハラハラと舞散る葉っぱの中でこっちを向いた。
目があった瞬間、ハッと我に帰って急いで木の陰に隠れたけど、思いっきりバレてると思う。
木の陰に隠れていた数秒間は、心臓がドキドキしていた。木の陰で隠れて見ていたと言う後ろめたさ以外に、特に悪いことをしていた訳では無いが、何となく怒られそうでビクビクしていた。
しかし、その男性は特に何か言ってくる訳でも無く、気が付いたらすでにその場所から居なくなっていた。
…………。
……すごかった。
なんであんな事ができるんだろ…?
あれは空手だったのかな?
…こう、こんな構えをしてたかな?いや、こんな感じだったか。右手はもう少し上だった気がする…。左足は半歩下げて……
そうそう、そして、ここから一気に!
「…やぁっ!」
ーーパンッ!
「はうっ!
…うぅ……手がぁ…手が痛い…!
とても…無理だ。なんて凄いんだ、あの人……ん?
…うわぁっ!…け、毛虫!」
あの男性には葉っぱがハラハラと衝撃で落ちてきたのに、俺の場合は衝撃で…と言うか、ビックリした毛虫が枝から糸で降りてきた。
こっちもビックリした勢いで、つい尻もちをついてしまった。
「ハァァ…。なんともはや…我ながら情けない……。
あ〜あ…カッコ良かったなぁ…あの人。
あの人みたいになれたら、今日みたいな出来事、簡単に切り抜ける事ができるんだろうなぁ………あぁ、自己嫌悪。」
その場に大の字に寝っ転がって、夕暮れ色に染まりつつある空を眺める。
…そう言えば…あの人、左頬に人差し指くらい長さの傷があったな…。熊とでも闘ったのか?
でも次に会った時は、あの傷があるから直ぐに分かるな。
……また、会えるかな…
「……っくしゅ」
…帰ろ。
お尻に付いた葉っぱを払いながら立ち上がって、一つため息をついた。
……俺も強くならなきゃ…。
でなきゃ美琴も守れないし、樹だって守れやしない。
…でも、どうしたらいいんだろ……?
そんな事を考えながら陽の沈みかけた夕暮れの道をトボトボと歩いて行った。




