8(十六)
私の胸の中にあった有名作家と話しているという高揚感はすでに冷め切っていた。脂肪分の少ない味の薄い牛乳を私はゆっくりと飲んだ。気まずいとまでは言えないが心地よくはない沈黙が続く。この張り詰めているのでも弛緩しているのでもない捉えどころのない雰囲気がテツオを挟んだ私と富永の関係を象徴しているように思えた。
今も私がテツオと付き合っているのであれば私にも言うべきことはあるだろう。ごめんなさい、と頭をテーブルに押し当てるかもしれないし、逆に、テツオは私のものよ、と開き直るかもしれない。富永もテツオの妻であり続けているのならば私に対する態度は今のものとは決定的に違うはずだ。しかし、私も富永もテツオとの関係はすでに過去のものでしかない。そこが私と富永の関係を曖昧にする。
「室谷のことで私に聞きたいことはない?」
彼女はコーヒーに少し砂糖を加えスプーンでかき混ぜる。
「聞きたいこと……」
なくはない。しかし、私が卑屈なのか、富永の口調には元妻の肩書きを背負って少し私を見下ろしているような感じがあるように思えて私はその後の言葉を飲み込んだ。それにまだ温まっていないこの空気ではなかなかあれをこれをとは切り出せない。
富永はワインのテイスティングのようにほんの少しだけコーヒーを口に含んだ。そしてそれをきっかけにするように彼女は語り出した。
「私も作家になる前は警察官だったのよ」
私は黙って頷いた。警察に勤めていた異色の経歴の持ち主という雑誌の記事が頭に浮かぶ。確かその中で、警察官として働いていた経験が推理小説を書く上でとても役に立っているというようなことを彼女が語っていたように思う。私は富永の電話での口調を思い出していた。彼女の喋り方を警察の事情聴取と結びつけた私の発想は案外的外れなものではなかったということか。
「そこで室谷と出会ったの。同期だったのよ」
「テツオさんって警察官だったんですか?」
私の言葉に富永は私以上の驚きを示した。
「呆れたわ。彼、そんなことも話してなかったの?」
そんなことも、と言われると悲しいような腹立たしいような気持ちになって胸から首筋にかけてまでが一気に熱くなる。
「ええ。電話でも話しましたけど私、テツオさんのこと本当に何も知りませんから。苗字が室谷っていうことも今日知ったぐらいで」
口調が少しきつくなっていることに気付く。私は何に怒っているのだろうか。幸せの絶頂をとらえた写真を見せ付けられたことにだろうか。それとも結婚していた事実を教えてくれなかったテツオにだろうか。
「でも、あなたは私の知らない室谷を知っているわ。それを私はとても知りたいの」
富永の口調にも挑むような強さがあった。
もしかしたら富永も私に嫉妬しているのだろうか。歌の文句のように今でもテツオのことを別れても好きな人と思っているのかもしれない。
「そうですか」
本当に私がテツオの何かを知っているのだろうか。私はテツオについて元妻に語れるようなものは何も持っていないような気がする。
「松山さん、さっきの電話で彼のことを『猫みたいな人』って言ってたわよね。それってどういう意味なの?」
「どういう意味って言われても……」
あの時は深く考えずに口に出してしまった。私が知っているテツオを表現するのにパッと頭に思い浮かんだのがそれだったのだ。私は無意識に下腹をさすっていた。
「借りてきた猫みたいに大人しい人だったってこと?」
不意にテツオとのセックスを思い出す。いつも私がテツオの上に乗り、彼は私に跨られてされるままだった。
「まあ、そういうことです」
私はお腹をさすり続ける。
「面白いわ。私の知っている彼は動物で言えば狼とか狂犬ってタイプで、猫っぽい彼を全く想像できないの。部屋の隅で静かに寝転がってる彼を見てみたかったな」
富永は目を爛々と輝かせて興味津々とばかりの顔つきだが、私は、はぁ、と力のない返事をするだけだった。私の方こそ狂犬という言葉の持つ迫力とテツオとを結び付けられないでいる。
テツオと彼女の情事を思わず想像してしまう。互いが互いを貪りあうまさに獣同士の熱いそれだったのだろう。浮かび上がった想念を頭の中から追い払うように私は口を開いた。
「テツオさんって怖い人だったんですか」
「そうねぇ」富永は窓を覆うブラインドを見つめた。ベージュのそのブラインドをスクリーンとして彼女はかつての夫だった人をそこに映写しているような眼差しだった。「暴力を振るうってわけじゃないのよ。自分にものすごく自信を持っていて他人に何を言われても絶対に自分の信念を曲げないって感じかな。彼は刑事として犯人を捕まえるという面では非常に優秀だったわ。独特の嗅覚を持っていて凡人にはとても気付かないことが彼には見えてしまうの。そして犯人逮捕に全身全霊を注げる人だった。彼のその才能がなかったら捕まえられなかった凶悪犯はいっぱいいたと思う。でも捜査方針に納得できなくて上司と喧嘩するなんてしょっちゅうだったし、誰かに助けを求めるとか任せるとかいうことができない性格だからスタンドプレーが多くて同僚にも敵が多かった」
私はテツオを公園で拾ったときのことを思い出していた。あの時、私が警察に通報することを嫌がったのは富永が語ってくれた彼の性格の一面を示していたのかもしれない。かつての同僚に助けを求めることは彼にとって屈辱だったのだろうか。
「凶悪犯を検挙する彼。上司と衝突する彼。チームワークを無視して煙たがられる彼。いろんな意味で彼は目立っていたわ。そして私はそんな彼から目が離せなくなっていた。最初はあんなこと言って大丈夫なのかなってひやひやしてただけなんだけど、いつの間にか彼のことばかり考えるようになってしまってて。付き合ってもらえませんかって私から言ったの。付き合えば彼に振り回されることは分かっていたわ。どうせ私よりも仕事の方が優先なのは最初から目に見えていた。私が告白したとき実際彼も私にそう言ったしね。でも、もちろんそれで良かった。彼のそばに置いてもらえるだけで、時々彼の腕に抱いてもらえるだけで幸せだと思っていたの。そして次第に彼も私といるときその目から力を抜いた顔を見せるようになってくれた。私のそばに安息地を見つけてくれたように私には見えたわ。そして私からプロポーズをした。彼は『俺なんかでいいのか』って言いつつ受けてくれたわ。結婚して私は幸せだった。彼の家がここなんだと思えることが嬉しかった。そして実際に彼が仕事から私の待つ家に帰ってきてくれることが私の喜びだった」
そこまでただののろけ話でしかないようなことを聞かされても私はやはり富永の言う「室谷」を「テツオ」と同一人物の話として理解することが上手にできないでいた。結婚式の写真を見せられてもやっぱり納得していない自分がいる。あの写真はテツオとは性格がまるきり違う双子の兄か弟のものなのではないだろうか。
彼女の話を聞いて理解できたのはどれだけ彼女が元夫のことを愛していたのかということだけだった。彼女は言葉どおり幸せだったに違いない。それは彼女の顔を見れば分かる。彼女はまだ心のどこかで「室谷」のことを愛しているに違いない。
恋愛に関して言えば人は二種類のタイプに分けることができるのかもしれない。相手のことを好きになって追いかける人と相手に好きだと言われて追いかけられる方。どちらが幸せなのかは人それぞれの感覚によるのだろうが、私もテツオも求められて結婚したということになる。
私は今、幸せなのだろうか。客観的に見れば幸せなのだと思う。求められてとは言え好きでなければ結婚までしなかっただろうし、今ではその好きな男の子供を身に宿しており出産によって私たち夫婦は更なる絆で結ばれることになる。
ではテツオはどうだったのだろうか。彼は結婚生活を幸せに思っていたのだろうか。思っていたとすればどうして別れてしまったのだろうか。二人の離婚の理由。それが今私の富永に聞きたい唯一のことだった。
富永は私が考えていることを察知したかのように自分からそれを語り出した。
「私たちが別れた理由はいろいろあったと思うわ。でもこれが原因の一つであることは間違いないわ」彼女は小さくため息をついて言葉を続けた。「私、流産したのよ」
途端に心臓を鷲掴みにされて搾りあげられたような痛みと胸苦しさが私を襲った。
流産。恐ろしい言葉だ。
私は私の身体に宿ってまだ三ヶ月程度の新しい命を既に愛している。まだ目で見たことも手で触れたこともないあやふやな存在をかけがえのないものとして自分の掌に大事に包みハアッと息を吹きかけて温めているかのような気持ちでで慈しんでいる。一生のうちに接する生命体の中で私が最も愛する存在であることはもう疑いようのない事実だ。この子を失ったら。そんな想像は私に身を切り刻むような感覚をもたらす。
私は沈黙した。そして彼女も痛みを我慢するように眉間を曇らせて黙り込んだ。
私には彼女の心の裡を理解することはできない。残念、後悔、諦観、罪悪感、劣等感、喪失感、脱力感。上辺だけの言葉はいくらでも列挙することができる。しかし経験した者にしか分らないであろう冷たい感情の有りようが胎児を失った彼女の身体にまだ厳然と宿っているようだった。その硬さ、重さは触れることのできない私には異次元のものだ。それを体内に抱えたまま身体を引きずるようにして生きている彼女の苦しさたるや想像を絶する。妊娠する前の私なら何か慰めを口にしただろう。しかし、今の私に彼女に掛ける言葉なんて見当たらない。彼女を前にして私が思うのは絶対にそちら側へは渡りたくないということ。ただそれだけだ。岩に齧りついてでも爪がはがれてもこちら側に居続けたい。そしてそんなことはテーブルの向こうにいる彼女には伝えられない感情だった。
私は昔よく考えていたことを久しぶりにふと頭によぎらせた。
自分から逃れたい。でも私は自分という人間の型枠からどう足掻いても逃れられない。
私は自分の性格を憎んでいた。他人と挨拶するだけで過呼吸に陥ってしまうような対人恐怖症ではなくもっと朗らかで活発な性格の人間になりたい。着せ替え人形の洋服のように自分というものを取り外し可能にして他の自分と取り換える。そうやって全く別の人生を送ることはできないだろうか。かつての私はこのことばかりを考えていた。結論は分っているのにどうしても思考回路はそちらへ向かってしまうのだ。
富永も同じことを考えたことがあるのではないだろうか。きっと流産の末の離婚という苦難は彼女を散々に打ちのめしたに違いない。自分というものが嫌になって別の新たな人生を歩みたいと何度も思ったことだろう。
私は富永を見つめた。共感できる部分があるのではないかと少し朱に染まった彼女の目の奥を探ろうとした。
しかし、富永はすぐに気を取り直したような顔つきで先ほどまでと全く変わらぬ淡々とした口調で語り続けた。
長い間、妊娠できず、諦めかけていた頃に漸く授かった小さな命。そしてあっという間の切迫流産。治療が遅れた結果彼女自身の身体は二度と妊娠できないものに変わってしまったという。
「彼は、子供なんかいらないよって言ってくれたわ。お前が無事でいてくれてよかったって。彼の言葉には一片の嘘もないってことを妻として私は理解できたわ。それで、そのとき私の中の何かが壊れてしまったの」
私は彼女の言っていることが良く分からなかった。当時のテツオの言葉はテツオの優しさを物語っている。妻のことを大事に思う夫なら誰もが同じようなことを言うだろう。どうしてそれで妻の心が傷ついてしまうのか。
「彼は私が妊娠することなど最初から望んではいなかったのよ。そして私が流産したこと、もう二度と子供が産めない身体になってしまったことに心のどこかで安心していた」
「そんなこと……」
私は下腹をさする手に力を込めた。
この子の出産をもし夫が望んでいないとすれば。いや、そんなことはない。妊娠を報告したときの彼の喜びようといったらなかった。夫は芝居が出来るような人間ではない。私はあのとき彼のくしゃくしゃにほころんだ笑顔に改めて愛しさを覚えた。夫婦とは子供を授かることを無上の喜びと感じるものだと私は思い込んでいた。
「本当のことよ。一緒に暮らしていればそれは分かってしまうものなの。私は彼の言葉に感謝しつつ、彼の言葉に打ちのめされてしまった。子供を欲しいと思っていたのは私だけだった。彼も私と同じ気持ちだと勝手に思い込んでたけど、それは間違いだった。彼は言ったことがあったわ。『俺は自分の人生だけを考えていたい。子供ができてそいつの心配をしなくちゃいけない将来なんて考えられない』って。仕方のないことよね。欲しい、欲しくないはその人の思想の自由だわ。でも、彼は私のことを一生理解してはくれないだろう、そして私も彼のことを理解できないって思ってしまったら私の心のどこかで彼を遠ざけたい気持ちが芽生えてしまったの。実際に子供ができたら変わるよ、って言う人もいるけど、一緒に暮らしていた私には夫は嘘を言ってはいないってことが分かったし変わることを望んでいないことも理解できた。それからも彼のことは好きだったけど、何となく彼のことが得体の知れない他人のように思えてしまって。今思えば流産のショックで私が卑屈になりすぎてたのかもしれないわ。変わってしまったのは私の方だった。そして彼も私の変化を敏感に感じ取ってしまった。彼は腫れ物を触るように私に接するようになってしまったの」喉が渇いたのか富永は湯気の立たなくなったコーヒーを軽く口に含んだ。「それでも何とか二人は自分の気持ちを隠して夫婦を演じてた。警察に勤めてると仕事で自分を忙しくしようと思えばある程度そうできちゃうものなの。彼は元々不規則だった生活をさらに不規則にして私の生活リズムとは真逆になるようにしていったわ。本当に仕事の鬼になって目つきもますます険しさを増した。そんな乾いた夫婦生活でも私は彼と顔を合わすことが少なくなってどこかほっとしていたわ。だけどそんな生活は長続きしないものよね。彼は疲れから仕事で大きなミスをしちゃってあっさり内勤に異動させられちゃったの。敵が多かったからさすがに誰もフォローしてくれなかったみたい。そうなると嫌でも同じ内勤同士生活リズムがあっちゃって。そうなると見て見ぬふりをしていた二人の間の溝がはっきり見えちゃって。もう私たちに残った道は離婚しかなかった。それが今から五年前のことよ」
「でも富永さんのデビューって、確か……」
「七年前よ。もうその頃は結婚生活としては破綻してたのかもしれないわ。私は夫も在籍している警察という組織以外から自分で自分を養う経済力を得て、警察官をやめて、そうやって少しずつ彼から離れていく準備をしていたのかもしれないわね」
「離婚してから、テツオさんとは」
「数えるほどしか会ってないわ。別れてしまえばそんなものよ。結局、死に顔さえ見てないもの」
そう言う富永はどこか他人事のような顔つきだった。別れた夫ともう二度と会うことができないという事実を妻だった女はどう受け止めているのだろうか。
「テツオさんは、……今はもう本当に……」
確認したいが死という言葉を遣うのがどうしてもためらわれる。
「信じられない?」
「信じられないって言うか、どうしても実感が湧かなくて」
「そう。無理もないわね。それは私も同じなのよ。私が知ったのは彼が死んだ一ヶ月後だったの。彼が入院してた病院からマンションの管理会社に連絡が入ったみたいで、その管理会社が何とか私を探してくれて。電話でも話したけど、彼には彼の遺品を相続すべき親類縁者が誰もいないの。それで管理会社の人も困ってて。遺品を引き取ってくれないかって言われて私としても今は室谷とは関係のない人間だからとは思ったんだけど、私が引き取らないのなら捨てるしかないってことだったから。そう言われたら捨ててしまう前にどうしても一目彼の遺したものを見たくなって。でも、結局ほとんど処分しちゃったんだけどね」
富永は肩をすくめてコーヒーを飲み干した。
彼女はどういう気持ちでテツオの遺品を整理したのだろうか。できることなら私も最後にテツオの遺品に触れたかった。富永にとってはガラクタでも私にとっては宝物となるものがあったかもしれないのに。
「彼の遺品の中にこんなものがあったの」
富永はノートパソコンの脇に山積みした資料の束から茶封筒を取り出して私の前に差し出した。
「見てもいいんですか?」
私は富永の頷きを待っておずおずと手を伸ばした。
中に入っていたのは何枚もの裏が白い広告だった。白い面の方に角ばった少し右肩下がりの癖のある字で何やら書かれている。これがテツオの字か、と私は思った。一緒に暮らしていたのに彼が書いた文字すら見たことがなかったことに思い至る。私は思わず文字を指でなぞっていた。そうすることで直接彼に触れられるような気がして。
「そんなものでも日記と言えるのかしら。室谷はあなたに出会った日からの記録をつけていたのね」
メモは「9月29日(金)」から始まっていた。「包帯、ガーゼ、消毒薬、絆創膏、Tシャツ、トランクス、インスタントスープ」とある。さらに「9月30日(土) スウェット上下、スポーツドリンク、熱さまし用冷却シート、お粥、リンゴ、バファリン」となっている。
「私が彼にあげたもの……」
室谷はテツオだった。やはり間違いない。
突然脳裏にテツオと出会ったときの様子が如実に蘇ってくる。私は久しぶりにテツオの存在を肌で感じた。しかし、そのことで今彼がもうこの世にはいないことを私は明確に理解させられることになった。やはり富永が言うようにテツオは死んでしまったのだ。私は目を閉じて身体と心の震えを懸命に堪えた。




