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7(十五)

 店に入ると目当ての人はすぐに分かった。

 パソコンで仕事しているけど気にしないで声を掛けて。トミナガはそう言っていたがテーブルに辞書のような分厚い本を置き何かのレポートのような紙の束をめくりながらノートパソコンを操っている姿はどこか鬼気迫る感じがする。全身から「何人も私に話しかけるな」というオーラを発しているようだった。親の敵を見るような目つきで画面を睨みつけキーボードを叩いている。灰皿から短くなった煙草を摘み上げ一口吸うと揉み消した。すでに灰皿は吸殻の山となっている。

 果たして私はあの人に声を掛けなくてはいけないのだろうか。

 素面でそんなことできるはずがない。ただでさえ人に声を掛けるのが苦手な私が、どうして自分の周囲に結界を張り巡らせたような侵しがたい雰囲気を纏ったあの人の集中を乱すような真似ができようか。

 そもそも誰かを呼び出す場合待ち合わせ場所では呼び出した方がそれらしき人が来ないか気を配るのが常識だろう。トミナガらしきその人に待ち人がある様子は微塵も感じられない。様子を見ていると彼女は窓の外や入り口に目を向けることを一切しない。手探りで新しい煙草を一本取り出し火をつけたかと思うと今度はじっと目を閉じ何かを思案している。

 もしかしたら私の勘違いでトミナガは他にいるのかもしれない。店の奥に目をやろうとしたとき厨房らしき奥まったところから出てきた女性店員が目ざとく私を見つけ笑顔で近寄ってきた。

「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」

「いえ、あの」にこやかな店員の親しみの籠った視線に私は追い詰められたような気分で店内を見回した。「連れが来てるはずなんですが……」

 やはり彼女以外にノートパソコンを持っている客はいない。私が店を聞き間違えたわけではないと思う。彼女がトミナガで間違いないだろう。だが、状況証拠だけでは万が一ということがあるのではないか。と言うか何とか彼女の方から私に気付いてもらいたい。どうしても一心不乱に仕事をしている彼女の前まで足を踏み出せない。

「お連れ様はまだ来ていらっしゃいませんか?」

 女性店員は慈愛に満ちたような優しい声で問いかけてくる。あなたがトミナガさんだったら、と思わずにはいられない。

 私はふと思いついて鞄から携帯電話を取り出した。着信履歴からトミナガの電話番号を表示させる。通話ボタンを押すと案の定あのノートパソコンの女の近くで携帯電話が鳴りだした。

 何の飾り気もない初期設定のままのような着信音が店内に響く。トミナガは瞑想を止め慌てた様子で紙の束の下から携帯電話を取り出した。その拍子に煙草の灰がテーブルの上に崩れ落ちる。うわっと小さく声を上げすっかり短くなっている煙草を灰皿に放り投げながら彼女は電話に出た。

「はい。トミナガです」

 周囲を気にしてか小さな声だった。携帯電話を耳と肩で挟みながらこぼれた灰を灰皿に捨てている。

「松山です。お店に着きましたけど」

「え?ああ」何かを思い出したような声を上げて漸く彼女は店の入り口に目を向けた。私を見つけて微笑を浮かべて目礼をしてくる。どうやらトミナガは本当に私を呼び出したことを忘れていたようだ。「あの、松山さんって煙草は」

「吸わないです」

「じゃあ、あちらで待っててください」

 富永は窓際の禁煙席の方を指差した。私が電話を切ると察しの良い店員が、どうぞこちらへ、と私を案内してくれる。窓際の日当たりの良い席だ。

 私は少しホッとしていた。トミナガの方へ行くのが躊躇われたのは彼女が喫煙席に座っていたということも一つの理由だった。

 煙草は副流煙を吸う方が身体に悪いという。妊娠中の今は胎児の健康に悪影響を及ぼす可能性があるものはできる限り排除したい。ヘビースモーカーらしき富永に禁煙席で話をしたいと申し出るのはなかなか難しそうだと思っていたので、彼女の方から言い出してくれたことは予想外のありがたい配慮だった。

 席に着いた私は店員にホットミルクをオーダーしてトミナガが来るのをお腹をさすりながら待った。

 その席は日当たりは良いが、空調が少し効き過ぎていて座っていると肌寒いぐらいだった。私は日焼け防止の意味も込めて持ってきていたカーディガンに袖を通した。やがてノートパソコンと資料の束を抱えて私の前に現れた女は店員にアイスコーヒーを注文して私の向かいに座った。

「ごめんなさいね、気付かなくって」

 化粧と言えば眉を描いているぐらいだろうか。口紅もしていない。髪は後ろで無造作に一つに束ねている。ジーンズにノースリーブの白いポロシャツというスポーティーな格好。あまり外見にはこだわらない活動的な性格が読み取れるようだった。はきはきとした喋り方は私とは正反対だ。

 元夫婦。彼女の言葉を信じれば彼女とテツオの関係はそういうことになる。

 テツオも中年の男性なのだから誰かと結婚していた過去を持っていても何ら不思議はない。頭ではそう理解できてもテツオと彼女が家族として暮らしていたという事実を私はどうしても受け入れられないでいる。私の知っているテツオは人間社会とは完全にかけ離れた存在、私の部屋の中の狭い一角に息を潜めてひっそりと佇んでいる外界との接触に臆病な生き物だった。彼が結果的には破綻したとは言え人並みに温かい家庭生活を築いていた時期があったということに私はどうしてもなじめないのだ。

 テツオの妻をしていた人への嫉妬心。そういう感情が芽生えるかもしれないとここに来る道すがら私は考えていた。しかし、今実際テツオの元妻と面と向かってもただただ違和感があるだけだった。この期に及んでもまだトミナガの言う室谷と私の知っているテツオが同一人物ではないような気持ちが払拭できないままなのだ。それは単に私がそうあってほしいと願っているだけのことなのかもしれないが。

「あなたが松山さん」

 トミナガはどこか感慨深げな熱のこもった目で私を見てくるが、私はその視線がどういう種類の温度なのか見当がつかずただ戸惑い気味に小さく頷くだけだった。

「改めましてトミナガです。えっと……」彼女は鞄の中をがさごそと探り薄っぺらいケースを取り出した。「こういう者です」

 にっこりと笑みを湛えて私に恭しく名刺を差し出す。先ほどのノートパソコンに向かっていたときの険しい顔とは全く違う柔和な笑顔だった。三十代後半ぐらいに見えるが顔の作りは頬が丸く目尻が垂れ気味で童顔の部類と言え、実際はもう少しいっているかもしれない。

 受け取った名刺には富永硝子とあった。住所、携帯電話の番号、そしてメールアドレス。名刺の恰好はしているがそこには社名も肩書きも入っていない。富永硝子。富永硝子。確かどこかで……。

「あっ!作家の」

 私は自分の声の大きさに驚いて慌てて口を手で覆った。「富永硝子」の文庫本の顔写真のおぼろげな記憶が目の前の女性の顔と一致する。

「私のこと知ってる?嬉しいわ。こんな格好だけど私一応作家をやってます」軽装の自分を見下ろしながら恥かしそうに言った。「こういうラフな服の方が肩が凝らなくって」

 富永は謙遜して「一応」などと言ったが「富永硝子」と言えばその名前に違わずガラス細工のように緻密で繊細な表現を駆使すると評価の高い有名作家だ。もともとは推理小説で頭角を現したのだが恋愛モノも書き、最近ではエッセイも好評で幅広く活躍している。

「義理の姉が富永先生の大ファンなんです。それで薦められて私も先生の小説を読むようになって何冊か持ってます。あの……先日何か、何だったかな……有名な賞を受賞されましたよね。そのときのインタビューも雑誌で拝見しました」私は饒舌になっていた。初対面の相手を目の前にして自分から何かを伝えたいと思うなんて私の人生の中ではかつてないことだ。しかし、慣れない事態に頭の中で言葉が渋滞してうまく口から出てきてくれない。有名作家を目の前にして完全に舞い上がってしまっている。「何だか……その……感動です。富永先生にお会いできるなんて。サインしてもらおうかな、なんて言っちゃったりして」

「サインなら幾らでも書かせてもらうけど、私なんて大したことないのよ。ほんとに。そこらにいるおばさんと同じ」富永は少し赤らめた顔の前で大きく手を振った。「だから、その先生っていうのもやめて普通に呼んでください。慣れてなくって」

 お願いだからやめて、と富永は拝むように言う。

「分かりました。じゃあ、『富永さん』でいいですか?……富永さんのような有名な方がこんなところでお話してていいんですか?」

 私は少し声を潜め店内を見回した。平日の午後二時過ぎのファミリーレストランは客の入りは半分ほどだが、ここにベストセラー作家が座っていると知ればちょっとした騒ぎになるかもしれない。

「ほんとお構いなく。作家というと有名人扱いされたりすることがあるけど、実際世間に顔が売れてる人はほんのごく一部の超が付く売れっ子作家だけなの。それに私、こういう少しざわついたところの方が集中できるから毎日昼間はファミレスに入り浸ってるんだけど、それでも周りのお客さんに『作家の富永だろう』って言われたこともひそひそと指差されたこともこれまで一度もないのよ」

 富永の言葉に遠慮や謙遜はないのだろう。少し日に焼けた感じの彼女の肌は毎日のファミリーレストラン通いの証拠なのかもしれない。実際、本好きの私でも彼女の名刺を見なければ彼女が「富永硝子」だとは思いもよらなかった。真昼間に街中のこんなありふれたファミリーレストランで有名作家が仕事をしているなどとは誰も想像しない。

「それと、恥かしいけどこれ」

 彼女は鞄の中から一枚の写真を取り出し私の目の前に差し出した。

 それは結婚式の写真だった。紋付袴姿の男性と色打掛に身を包んだ女性が寄り添ってウエディングケーキにナイフを入れている。

 私は写真から目を逸らすことができなかった。照れたように微笑んでいる新婦の隣で男は喜びを隠しきれない様子で口を大きく開けた豪快な笑顔を見せていた。少し癖のある髪をセンターで分け、良く日に焼けた顔の右の目尻に印象的なほくろを有している。

 その男がテツオであることは間違いなかった。

 しかし、私が知っているテツオはそこにはいなかった。私の部屋で暮らした半年の間で常に青白い顔色だったテツオはこんな風に感情を外見に露わにしたことはなかった。無口で無表情で穏やかで。そういう性格だからこそ私はテツオと生活することができた。彼が纏っているひんやりと柔らかい少し憂いを帯びた空気に私は居心地の良さを感じていたのだ。

 この写真の中のテツオには私が共有できそうなものは何も見出せない。この結婚式の日から私の部屋に来るまでの時間が彼を別人に変えてしまったということなのか。一体何があったのだろう。それを目の前の女が知っている。私は胸の奥に熱いものが蠢くのを感じた。これが嫉妬の炎と呼ぶものなのか。

「一旦離婚してしまうと以前は結婚してたってことを証明するのって案外難しいものね。しかも、室谷との思い出の物はほとんど処分しちゃってたから本当にこれぐらいしかなくって。でもまずは松山さんに信用してもらわないと話が進んでいかないから持ってきたわ。顔が見えない戸籍謄本よりも信憑性が高いでしょ」

「テツオさんで間違いないです」

 それだけ口にして私は写真を富永に返した。戸籍謄本よりも信憑性もインパクトの度合いもはるかに高い。夫のある身だが、見ていて気持ちの良いものではなかった。彼女が写真を鞄に仕舞いこむまで私は気付かれないようにぐっと奥歯を噛み締めていた。

 富永の言葉を信じればテツオはこの世にもういない。

 テツオさんで間違いないです。今発した自分の言葉によってまるでテツオの息の根を止めてしまったかのような取り返しのつかない気持ちがして頭の中に繰り返し大きく響いた。鼻の奥がツンとして気を抜くとぽろりと涙がこぼれてしまいそうだった。

 店員がやってきてコーヒーとホットミルクを置いていく間、私は誰にも悟られないように静かに呼吸を整えた。

「さて」鞄から向き直った富永が少し困ったような顔をする。「こういうとき何から話せばいいのかしらね」

 そんなこと私の知ったことではない。

 私は半ば強引に呼び出されただけで、話をしたいと言ったのは富永の方だ。話しの切り出しを私に求めているような富永の視線に気付かない素振りで私はホットミルクに手を伸ばした。


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