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3(十四)

 テツオ。テツオ。テツオ。テツオ。テツオ……。

 あれから何度私は彼の名前を心の中で、時には口に出して呼んだことか。今の夫と結婚する前も、そしてしてからも。考えてはいけない、考えないようにしなくてはいけない。夫との生活の中でそう念じるようにして頭から追い払おうとしてきたが夫の子供を身ごもった今でさえテツオのことを考えると何も手につかなくなるときがある。

 テツオはある日ある時突然私の前から消えた。その去り方はあまりに唐突であまりに完璧でテツオと過ごした日々が実は私の妄想の産物だったのではないかと自信がなくなってしまうほどだった。事実テツオが隣にいた証拠は私の手元には何も残っていない。そして誰もテツオの存在を肯定してくれる人はいなかった。それは私がテツオとの付き合いを人知れず育み誰にも知られることのないように徹底していたからでもある。密やかな関係はテツオが切に望んだことであり、私も自分の恋愛を誰かに知ってほしい、話したいという類の人間ではなかった。テツオと別れ月日が経ち時間が過ぎて私の中で彼の姿はどんどん曖昧になりいつの間にかかつて読んだ小説に出てきた登場人物程度の現実感の乏しいものにまでなっていた。しかしその名前はいつまでも消えることなく心の中に存在し続けているのも事実だった。今、彼の名前を突然目の前にぶら下げられて私は飢えた回遊魚のように反射的に食いついてしまっていた。

 やはりテツオは存在したのだ。私のそばで現実に息をしていたときがあったのだ。

「よかったぁ。これで違ってたら、もうお手上げになるところだったわ」私に負けず劣らずトミナガも私がテツオの存在が確認できたことに喜んでいるようだった。事務的な口調を一気に弾ませる。「ねぇ。勝手なこと言って申し訳ないんだけど、今から会えないかしら。会って彼のことであなたとお話がしたいの」

 話をしたいと言われてハッと我に返る。知らない人と話をする。私の胸の内に怯えの気持ちがむくむくと真夏の入道雲のように広がっていく。

 この女性がテツオについて何か知っているのならやはり教えてほしいと思う。夫のいる身でありながら私は過去に付き合っていたその男の情報をすごく知りたい。

 振り返れば私の人生など我ながら出汁のきいていない高野豆腐のような味気も歯応えもない貧相なものだ。その私にとってテツオとの出会いは唯一のため息が出るほど甘い香りのする思い出であり、初恋の気持ちを綴った日記よりもはるかに他人の目に触れさせたくない秘め事なのだ。心の深奥に何重にも鍵をかけて、おいそれとは紐解くことなく仕舞っている私の人生の結晶のような一瞬の過去。もちろん夫も私の中にちっぽけだが光り輝いている宝石が胎内以外にも存在することは知らない。

 あのときテツオにはテツオなりの理由があって私から去ったのだろう。

 裏切られた気分でやり場のない怒りに駆られたときや、あまりの虚脱感に生きることにさえ無関心になったときもあった。しかしそんな私も今ではしれっと他の男の妻におさまり、その男との間にあと半年程で子供までもうけることになる。もう恨み言を浴びせたいとも思わないし、今さら未練があるわけでもない。それでもやはり私という人間に辿り着いたテツオのそれまでの軌跡、私の部屋を起点としたテツオのその後の道程を私は知りたいと思う。

 テツオが私の前から突然姿を消して私の身体の一部はぽっかりと穴があいてしまった。歯が抜けた後の歯肉のぶよぶよとした曖昧な感触を舌で確かめずにはいられないのと同じように、いつまでも私はそのぽっかりと開いた場所を心の舌で探ってしまう。そしてやはりそこに穴があることを感知し私という人間の不完全さを思い知るのだ。

 トミナガから彼のことを知れば私の中でテツオという人間が具体的な現実感を再び取り戻すことができるのではないか。そのことでやっとテツオを過去の人として整理をつけ、私の心の傷口をかたくふさぐことができるような気がする。

 しかしその喘ぐような欲求を押さえつけて余りある恐怖。

 彼女はどこかから私の名前を掴み、電話番号を探し出して私に連絡を取ってきた。彼女は一体何者なのか。そしてテツオの何を私から聞きたいというのか。

 おいしそうなにおいのする餌には鋭利に尖った針がついている。何も知らずに飲み込んだら彼女は私を私の意志とは関係なく獲物として自分の手元に引き寄せ白日の下にさらして歓喜するのだろう。私は身の危険を嗅ぎ取り本能的に穏やかで暗い海の底へ逃げたくなる。

 そもそも私はテツオについて知っていることはほとんどない。テツオが本当は誰なのか。そして今どこにいるのか。

「知りません」

「は?」

「私、その人のこと知りません」

 そう。知らないのだ。室谷という苗字だって今初めて知った。テツオという名前をどう漢字で書くのかさえ私は彼に教えてもらっていない。それに彼女が言う室谷という人物が実際にテツオではない可能性だって十分に考えられるのではないか。

「でも今、知ってるって……」

 そう言ってトミナガは再び黙り込んだ。私の突然の掌返しに戸惑っているのだろう。

 私はどうしたいのだろう。このまま知らないと押し通して彼女からの電話をなかったことにしてしまうべきなのか。しかし、そんなことをすれば私は二度とテツオという名前に触れることはないだろう。私は人知れずいつまでも塞がりきらない心の傷口を舌で舐める生活をこれからも続けるのだ。

 電話の向こうで何か紙を捲る音が聞こえた。トミナガが沈黙を破ろうとしている。

「9月29日」

「え?」

「一昨年の9月29日は金曜日だったのね」

「……」

 私は自分が追い詰められたことを知った。私の足場は脆く今にも崩れようとしている。何故かトミナガは私とテツオが出会った日を知っている。

「その日、あなたは怪我をしている彼を見つけて傷の手当てをした。それが彼との出会い。彼は怪我のせいか高熱を発していた。熱にうなされている彼をあなたは土曜、日曜と看病した。そのときあなたが彼に最初に与えた薬はバファリンで……」

「もういいです」これ以上しらを切ることはできない。トミナガは私とテツオしか知らないことを知っている。しかもどこかから覗いていたのかと疑いたくなるぐらい驚くほど事細かく正確に。「確かに私はその人と一緒に生活した時期がありました。でも……私が彼について知ってるのは彼が猫みたいな人だっていう本当に些細なことだけで……」

「猫?」

「とにかく、私、何も知らないんです」

 切ってしまおう。恐ろしい。この人は尋常じゃない。今さらだけど、何もなかったことにしてしまいたい。私は携帯電話を耳から離そうとした。そのときトミナガは私を通話口に呼び戻す決定的な言葉を強い口調で吐きだした。

「彼は死んだの」

「死んだ?」私は再び重い衝撃を頭蓋に受けた。視界がぐるりと回転して思わず空いている右手で頭を抱え込んだ。「……どうして?」

 無意識にそう訊ねていたが答えは分かっているような気がした。時が来たのだという感覚だった。思い返せばテツオは常にその背後に死の影を引き摺っているような人間だった。はっきりと口にすることはなかったが死を待ち望んですらいるような空気を身体全体から発しているようなときが私と生活している間に何度もあった。

「5ヶ月前に、スイゾウガンで」

「スイゾウガン?」

 すぐには言葉の意味を理解できなかった。テツオが死んだと聞いて私はてっきり自ら命を絶ったのだと思い込んでいた。

「私は昔、彼の妻だったのよ。五年も前のことになるわ。彼が私と別れてからどう生きたのかは興味ないの。でも彼が死ぬ直前にあなたと過ごした数ヶ月のことはどうしても気になる。彼が死を前にして何を感じ何をあなたに伝えたのか、それを私はほんの少しでも知りたい。彼に親類縁者はいないわ。この世で彼のことを深く知っている人間は私とあなたの二人だけなの。私とあなたが彼について話をする。古臭い言い方だけどそれが彼の弔いになると思うの」

「弔い……」テツオを弔うという言葉が私の腹にすとんと落ちた。死者は手厚く葬られなければならない。それは遺された者の決しておろそかにしてはならない務めだ。けじめとして死者との別れを全うしなければこの先浮かばれないのは実はこの世に遺された者の方だということを私は知っている。私は頭を抱えていた右手で今度は下腹をさすった。「分かりました。どこへ行けばいいですか?」

 台所で鍋がぐらぐらと煮えている音がする。私自身が料理されている。程よく煮込まれて意識が遠のき夢と現実の境でテツオとの生活が脳裏に蘇る。


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