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2(十三)

 生来私は人と話すのが苦手だ。その程度は尋常ではないと自分でも理解している。小学生のときなどは同級生に朝の挨拶をするだけで顔が赤くなっていた。初対面の人と何か話さなくてはならないとなると心臓はバクバク、掌にじっとりと汗をかき頭に血が昇ってクラクラしてくる。視界全体にラメが入ったようなチカチカ感が出現してきたら最悪。ラメだからと言って何も美しいわけではない。相手の顔を見て喋っているつもりなのにどこを見ているのか分からなくなり、こみ上げてくる悪心の強さのあまり立っていることができず、失礼ながら出会って間もないのにその人の目の前で口に手を当てしゃがみこんでしまうということを度々経験している。大学生になり社会人となってさすがにそういう最悪の事態を招くことはなくなってきた。しかし、それは自分なりに培ってきた経験則に従って少しずつ身体を慣らす方法を身につけてきたからで、根本のところは何も変わってはいない。二ヶ月ほど前に妊娠の兆候に気が付いて初めて産婦人科に行ったときも医師にあれこれ訊ねられているうちに気持ち悪くなって、座っていることもままならなくなり暫くベッドで横にならせてもらったのはおそらくつわりが原因ではないだろう。

 だから携帯電話に知らない人からの着信があった場合、今までは決して出ることはなかった。しかし、一時間おきに三回も鳴らされてはさすがの私も通話ボタンを押さざるを得ない気持ちになってくる。本当に間違い電話だとしてもそれを相手に知らしめない以上この着信は何度となく続くに違いない。

 もし万が一、間違い電話でなかったとしたら……。これだけ頻繁に掛けてきているのだから私にとって何か大切なことを伝えようとしてくれているのではないか。例えば夫が出張先で事故に遭ってしまい……。そんなことになっていたとしたらこの電話に出ないことを私は一生後悔し、半年後に産まれてくる子に対してただただ懺悔の人生を送ることになるだろう。

 私は意を決して携帯電話を掴んだ。それは私の手の中で痛いぐらいに激しく震えている。ありったけの力で私に何かを伝えようと泣き叫んでいる。

 ビールでも飲んで少し酔っ払っていたら大分気分が違うんだけどな。

 当然のことかもしれないが妊娠が判明してから私はアルコールを一切口にしていない。

 私は下腹部をさする手に力を込めながら携帯電話に負けないぐらいに震える指で通話ボタンを押した。

「もしもし?」

 我ながら自分の声のか細さに情けなくなってくる。しかし、怖いものは怖い。

「あ、松山さん?」

 予想に反して女性の声だった。年齢は私よりも少し高いぐらいだろうか。

 私は電話に出るまで相手は男性だと決め付けていた。男性と女性とであればやはりまだ同性の方が話すのに苦痛ではない。だから「今から私は知らない男性と会話をする」と自分にしっかり覚悟をさせて電話の相手が本当に知らない男性だった場合のショックを和らげようと無意識のうちに構えていたのだ。これも私が長年の経験に基づいて培った最悪の事態の回避方法の一つだ。

「もしもし?松山さん?松山由香里さんですか?」

「あ、はい、そうです」

 私は慌てて返事をした。肯定しながらも少し否定的な気分になる。松山は五ヶ月前までの私の旧姓だ。しかし今そのことは重要なことではないだろう。

「私、トミナガと申します。突然電話しちゃってごめんなさいね。今、お時間よろしいですか?」

 ごめんなさい、と言ってはいるが謝っているような口調ではなかった。一本調子で事務的だと言えなくもない。何かのセールスだろうか。だとしたら向こうのペースで喋られる前にこのまま何も答えず切ってしまいたい。あの手の次々に言葉を連ね畳み掛けてくるような勧誘は本当に苦手だ。コンコンと湧く泉水のように止めどなく繰り出される売り口上を聞いていると深い穴に落ち込んでしまった自分の足元から私を窒息させる凶暴な水が音もなくせり上がってくるような感覚になって気が狂いそうになる。

「ちょっと伺いたいことがあるんですけど、よろしいですか?」

 トミナガは私の返事を待つような間合いを見せずマイペースに言葉を続けていく。服の下で冷たい汗が脇から伝って落ちていく。

 アンケートということだろうか。化粧品?出産育児関係?不動産売買?私は少し携帯電話を耳から離した。どんな類のものであれ答える義務などこちらにはない。このまま切ってしまいたい。やっぱり出るんじゃなかった。

「ムロヤという男性をご存知ですよね?」

 トミナガの親しみのない声が冷たく響く。悪いことなどしていないのに何となく責められているような気持ちにさせられる。警察の事情聴取はこんな感じなのだろうか。ムロヤは指名手配中の凶悪犯で私はお前をその共犯と睨んでいる。言外にそういうチクチクした悪意に似た雰囲気が漂っている。

「知りません」

 逃げるように早口で言った。ムロヤという名前の人を私は本当に知らない。私は慎ましやかに日々の生活を営むただの平凡な主婦です。信号無視さえしたことがありません。

 意外にも電話の向こうで相手は押し黙ってしまった。まるで私の「知りません」の五文字を嘘発見器にかけて分析しているような間が息苦しい。このまま黙ってサヨナラしてしまおうか。でも相手を無視して切るには、それはそれでそれなりの決断力と勇気が必要だ。

「失礼ですけど知らないはずはないと思うんです。ムロヤです。教室の室に谷で室谷。室谷テツオです」

 テツオ。

 その名前に私は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。膝から力が抜けて身体が崩れそうになり咄嗟に私は椅子の背もたれに手を掛けて自分を支えた。そのまま椅子に腰を下ろす。携帯電話を持つ手がまた震えだした。

 夫がいない時で良かった。もし今リビングのソファに彼が座っていてテレビでも見ていたのなら私は平静を装うことができただろうか。いくら鈍感な彼でもきっと私の異変に気がついただろう。額にじわっと汗が滲みだすのが分かる。

 トミナガが電話の向こうから矢継ぎ早に繰り出してくる言葉は動揺する私の耳を素通りし中空で霧散する。

「困ったな。偽名を使っていたのかしら。身長は170ぐらいで、柔道をやってたから少しがっちりしてて。髪型は多分ほんの少し癖がある感じでセンターで分けていたと思うわ。右の目尻に黒子がある。見た目的には若く見えるけど……」

「知ってます」

「え?」

「その人のこと私、……知ってます」

 思わず言葉が口をついて出ていた。うわ言のように覚束ない口調で「知ってます」と繰り返していた。


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