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22(二十三)

 結局、あのメモから何かを導き出すことはできず、私と富永は互いに「それが遺志」だと無理やり自分を納得させて別れた。

 家に着きドアを開くと男物の革靴が目に入ってきて私の心臓は強く跳ねた。夫のものに違いない。出張はどうなったのだろうか。そのとき私の脳裏をよぎったのは今朝の遅刻だった。あれでとうとう上司から引導を渡され出張から帰らされてしまったのか。だとすれば夫は相当意気消沈していることだろう。いや、待てよ。もしかすると出張自体が作り話だったということはないだろうか。

 いろいろと思考を巡らせつつも私はこのまま後ずさりで逃げ出したいような気がしていた。私はどういう顔で夫と向き合えば良いのだろうか。夫のいない家で一晩冷静に物事を考えたいと思っていたのにこれではちっとも気持ちが落ち着かないまま夫と顔を合わせることになってしまう。

 玄関先で思案に暮れているうちに当の本人がスーツ姿で寝室からぬっと姿を見せた。ドアを開けて中を窺っている様子の私を見つけて驚いた顔をする。私は観念して伏し目がちに家の中に入った。

「わっ。お、お帰り。意外に早かったんだね」

 しどろもどろになっている夫を見ていると私は開き直ったような気分になってくる。ドアを閉めて正面に向かい合うと彼は何を言うでもなく所在なさげにネクタイを緩めながら寝室に戻っていった。

 どっぷり過去の思い出に浸かってきたであろう妻とばったり遭遇して泡を食うのは分からないではないが、意外に、などと口走ってはすべてがパーではないか。それでは私がどこに行っていたか知っていることになってしまうだろう。芝居をするのならもっと徹底してよ、と言いたくなってくる。「どこ行ってたんだよ。妊婦が夫に黙って夜遊びとは感心できないな」ぐらいのことを言って私を叱ってほしい。そうすれば私も詫びの一つも口にしてすんなり夫の芝居についていくことができるのに。どうしてこの人はこう間が抜けているんだろう。肝心なところで必ず躓いてしまうのは一つの才能とも言えるぐらいだ。しかも転んだことに本人が気付いていないことが多いから隣にいる私だけがいつもやきもきしてしまう。私は理不尽だと分かっていながらも要領の悪い夫に対してイライラがこみ上げてくるのを抑えられない。

 だけど、と小さく息をついて思う。そんな彼のことを私は愛している。彼が作り出す穏やかな空気にかけがえのない温かさを感じているのは間違いない。私は彼の後をついて寝室に入りその背中に頭を下げた。

「ごめんなさい」

 私はあなたのことを今日まで心のどこかで侮っていました。あなたの広い心に甘えていました。あなたの愛の上に胡坐をかいていたのです。

「え?何?」

 突然謝られて夫が戸惑ったような声を出す。

「急に友達から電話があって外で食べてきたの」

「そ、そうなんだ」

「お腹すいた?何か食べる?」

「いや。いいよ。僕も帰りの新幹線で駅弁食べたから」

 帰りの新幹線ということは上司に同行することはできたようだ。

「朝はどうだったの?完全に遅刻だったでしょ」

 私が訊ねると読書用の小さな机の前に腰を下した夫はワイシャツの袖のボタンを外しながらはじめて少し表情を緩めた。

「そうそう。それがさ」笑う準備をしてくれよ、という嬉しそうな目で夫が私を見る。「実は僕よりも課長の方が遅れちゃって。待ち合わせのホームに姿がないから、こりゃもう先に行っちゃったんだな、と思って途方に暮れてたら、課長から電話があって『すまん、すまん』って。冗談みたいな話だけどどうやら課長も昨日深酒して寝坊したみたいなんだ。新幹線の指定席切符が紙くずになっちゃったから課長が僕の分まで運賃払ってくれたよ」

 夫はこらえきれないように噴き出した。そうなの、とつられて私も笑う。安堵のため息とともに。どうやら出張自体は嘘ではなかったようだ。彼の表情にぎこちなさはなくなっている。

「次からは私がもっと気を付けるようにするわ。前もって時間を確認しておいて叩き起こすから」

 私が横に立ちにっこりと笑って胸を張ると夫はうっすら眼を潤ませて私を見上げ頷いた。

 ゆっくりと私のお腹に手を伸ばす。彼は私とそこにいるであろう自分の子供を慈しむように撫でながら少し震える声で呟いた。

「ありがとう。頼むよ」

 彼の手の温もりが下腹から全身に広がり心まで温められたような気がして私は彼の頭を抱き寄せた。彼が熱く湿った息を漏らす。彼の髪を搔くと畑の土くれを耕した後のような清々しく優しいにおいが立ち上った。その香りに包まれて私の思考は寸時ぼんやりと当てどなくふわふわと漂う。

 私にできることなんて限られている。それこそ時間になったら彼を揺すり起こすぐらいのことしかできない。でも彼にはそんな私しかいない。そして、私にも彼しかいないのだ。これからも私たちは二人で支え合って生きていこう。多くを求めず、互いを責めず、慈しみ合って暮らしていけばやがて生まれてくる赤ちゃんが私たちをより強くたくましく成長させてくれるに違いない。赤ちゃんを抱いていればきっと私だって知りもしない母子が大勢集う公園にでも飛び込んでいけるだろうし、夫も我が子が待っていると思えば嫌な上司との出張でも何とか乗り越えてくれるだろう。

 出張?ハッと我に返り夫の顔を起こさせる。

「そう言えば、今日の出張って一泊じゃなかった?」

「そうなんだよ……」途端に夫が顔色を曇らせた。私を見上げる表情はいつもの自信なさげなそれだ。「急に呼び戻されちゃって。何だか知らないけど部長から課長の携帯に電話が入ったみたいで、すぐに帰って明日までに資料を仕上げろって命令さ。さっき職場に戻って必要なファイルを取ってきたよ。今からやらなきゃ」

 夫はそう言って腕まくりをしながら机の上のノートパソコンを起動させる。鞄からファイルを取り出してその横に並べた。

「そんなところでやらなくてもリビングのテーブル使えば?」

「リビングの明かりだと手元が少し暗くて字を読むのが疲れるんだよね。目が悪いからここのスタンドの方が仕事向きで……あれ?」

 夫が電気スタンドの傘の部分についているタッチセンサーに何度も触れたり、電源プラグをコンセントから抜き差ししたりしている。

「点かないの?」

「壊れちゃったみたい。何だよ、こんなときに」

 本当に夫は不運な男だ。こういう小さなつまずきが毎日のように彼の身に起きる。

「諦めてリビングでやれば?」

「そうだなぁ。他に電気スタンドなんてうちにないもんな」

 渋々夫はファイルを手に立ち上がった。

 電気スタンド?なくはない。

「……要るの?」

「え?」

「どうしても電気スタンドが必要なの?」

「どうしてもってことはないけど、あると助かるかな」

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 私は物置用の部屋に向かった。去年引っ越してきたときからまだ梱包を解いていないダンボール箱をいくつも開いていく。次から次へとガムテープを剝すたびに胸の高鳴りが激しくなるのを止められない。

「ないならいいよ。リビングでもできないわけじゃないし」

 私は夫の言葉を無視して一心不乱に電気スタンドを探した。捨てたはずはない。あれだけは取ってあるはずだ。

「あった」

 とうとう見つけた。少し埃をかぶった状態で段ボール箱の中から発見した。私が父から中学の時に買ってもらい、テツオが修理しながらも使っていたあの電気スタンド。

「お、年代物だね」

 私の肩越しに電気スタンドを覗き込んでいる夫を振り返る。

「こんなのでいいかな?私が中学生の時から使ってるやつだけど」

「十分だよ。点きさえすればどんなやつでも」

 夫は私から受け取るといそいそと寝室に戻っていった。

 私は電気スタンドが入っていたダンボール箱の中にさらに工具箱を見つけ目が離せなくなっていた。

 私は何かを掴みかけている気がしていた。目には見えないが確固たる感触のある何か。

 電気スタンドと工具箱。電気スタンドと工具箱。電気スタンドと工具箱。

 テツオのメモを最初から思い出してみる。あれには私がテツオにあげたものが綴ってあった。そして確か、メモの最後に「電気スタンド」と書いてあったような。

 かつて今日の夫みたいに電気スタンドが点かなくなった時があった。それをテツオが直してくれた。この工具箱にある小さなドライバーを使って。あのとき私はテツオに、電気スタンドはあげない、と言わなかっただろうか。貸しているだけだ、とつまらない意地を張った記憶がある。確かにそう言った。間違いない。

「あれぇ、この電気スタンドも点かないよ」

 夫がまた困ったような声を出している。

 私は大きな力に操られているような気がしていた。私ではない誰かが私を動かす。私は震える手で工具箱を掴み足の赴くままにふらふらと寝室に向かった。

 テツオ。いるのね、ここに。そしてあの臆病だけど優しい猫のような目で私のことを見守っていてくれるのね。

「その電気スタンドは形見なの。これで何とか直せない?」

 この電気スタンド以外に父を、そしてテツオを思い出させてくれるものを私は持っていない。

 工具箱を差し出すとスイッチをカチカチさせていた夫は目を輝かせて私を見上げた。

「工学部の血が騒ぐなぁ」

 夫は嬉々として私から工具箱を受け取ると中を物色し一本の小さなドライバーを取り出した。

 テツオがそこにいた。夫に憑依してテツオが私に何かを伝えようとしている。自然と涙が浮かんできて私は口を両手で覆った。胸に迫る嗚咽を懸命に堪える。

 彼は私の表情の変化に気づいていない様子で鼻歌交じりにドライバーで巧みに電気スタンドの裏蓋を外しにかかる。

 やがて夫はそこに何かを見つけるだろう。それを私は富永に手渡すにことになるはずだ。彼女はそれを解読し世間に発表する。そしてテツオの遺志は完結される。そこで私と富永の弔いも終わるのだ。

「あれ?これ何だろう。……こんなものが挟まってたよ」

 夫は呆気に取られたような顔で私に一枚の黒いチップを示した。SDカードだ。

 これこそがテツオの遺志だ。彼は私を信用し私に全てを託したのだ。テツオの感謝の言葉が聞こえてくるようだった。テツオの姿が重なって見える夫から掌に小さく薄っぺらいそのSDカードを受け取ったとき私はこらえきれずに彼の膝にすがりつくようにしてその場に泣き崩れた。

 一通り涙を流しきると私は身体が軽くなるのを感じた。私が泣きやむのを黙って待っていてくれた夫を見上げると彼は優しく私の頭を撫でてくれた。そこにはもうテツオの面影は見当たらなかった。温かい掌はまさに夫のものだった。

 私は手にしたSDカードを見つめながらゆっくりとテツオという人のことを夫に話した。私がどんな風にテツオと出会い、テツオと暮らし、テツオと別れたのか。夫は仕事を仕上げなくてはいけないのに小さく頷きながら静かに私の思い出話に耳を傾けてくれた。

 語り切ったとき私にとってテツオが過去の人になったことがはっきりと理解できた。心の奥の目の届かない所へ無理に押し込みしまい込むのではなく、きちんと整理して思い出の引き出しに閉じることができた。

 さよなら、テツオ。今日からは安らかに眠ってね。

「でもその人よりも、もちろんあなたのことの方が好きよ」

 今の私の偽りのない素直な気持ちだった。彼の子を産めることを本当に幸せなことだと思えた。夫の胸にそっと身をゆだねると彼は「教えてくれてありがとう」と意外にたくましい腕で私を抱きしめてくれた。

 玄関の方で猫が一鳴きするのが聞こえた気がした。柔らかい、まさに猫なで声のそれはテツオの私たち夫婦への謝意と祝福のように私の心に爽やかに響いた。


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