20(二十一)
約束の時間よりも三十分も早く着いた。少しの間、一人で昔の思い出に浸り懐かさを噛みしめたいという思いがあった。それに昼間の経験から富永が待っているところに入っていくよりも呼吸を整えつつ彼女を待っている方が気楽なのではないかとも考えて早目に着くように家を出たのだ。
久しぶりにアドゥマンへの階段を見上げる。当たり前だが勾配のきつさは変わっていない。帰るときには細心の注意を払わないと、と右手で下腹をさすり左手を壁に添えながらゆっくり階段を上る。
ふとマスターの言葉が脳裏を過る。彼はこの木製の階段を踏む音で誰が来たのか見当がつくと言っていた。足音でその人の機嫌や調子まで判断できると。
コツコツと一段一段踏みしめる。私は少し緊張していた。彼は私を覚えていてくれるだろうか。自分でもよく分らない今日の私の機嫌や調子はどういうものなのかマスターに教えてもらいたい。もしかしたらあれから月日が経ちテツオを失い他の男と結婚し胎児を宿した私の歩き方は別人と言えるほど変わってしまっているのかもしれない。
「ほんとだー」
驚いたことに富永は私よりも先に来ていた。彼女はドアから顔をのぞかせた私を見て感嘆の声を上げて手を叩いていた。マスターは昔と変わらない聞こえるか聞こえないか程度の低い声で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。
「も、もう来てたんですか?」
「うん。私が聞いてなかったって怒ったからか思ったよりも撮影が早く終わったし、マスターと久しぶりに話がしたくなっちゃって」
富永は昼に会ったときと印象が違っていた。紺のワンピースに海老茶色のボレロと服装がまるっきり変わっているからだろうか。髪をアップにセットして際立ったうなじの白さや化粧で涼やかに見える目元から大人の女性の色気が漂っている。
彼女の前にはグラスビールと食べさしのパスタが置いてある。うっすらと頬が赤く見えるのはチークではなくアルコールのためかもしれない。
「ここ、開店は七時なんですよ。でも電話でこいつに呼び出されまして一時間前にあける羽目になっちゃいました」
「いいじゃない。久しぶりに古い友人が訪ねてきたのよ」
「いきなり押し掛けられた方の身にもなってみろって」
「お金は払うんだから少しぐらい融通きかせなさいよ」
二人はテンポよく言葉を投げ掛け合う。そこからは付き合いの長さ、深さが伝わってくるようだった。こんな風に軽い調子で語り合える異性の友達がいれば人生は華やかなものになるだろう。羨ましいかどうかは別として今の二人は楽しそうではある。
「大体、人と待ち合わせてるのに先に酒飲んでるなんてマナーに反するだろ」
「あっ。ごめんなさい」
喋っていたら楽しくなっちゃって。彼女はさすがに言い返す言葉がなかったのか先生に叱られた小学生のようにしょんぼりとうなだれた。
「いいんですよ、お気になさらずに」私は彼女の隣に腰かけた。「私もパスタ食べたいな」
マスターがすっとメニューを渡してくれる。
彼女はペペロンチーノのようだ。私の好きなパスタでもあるが唐辛子のような刺激のあるものは妊娠期間中は避けた方が良いと読んだことがある。私はキノコのスープパスタを注文した。バーに食事を求める人は少ないのだろう。パスタでメニューに載っているのはその二種類だけだったので迷わずに済んだ。
「飲み物は?まずはビール?」
彼女の問いかけに私は呼吸を忘れるほど愕然とした。迂闊だった。彼女の言葉は当然のものだ。ここはお酒を飲む場所なのだから。
「あの、私、ちょっとアルコールは……」
「え?そうなの?」
驚いた様子の富永の顔には、バーを待ち合わせ場所に指定したのに飲まない法はあるか、と書いてある。返す言葉が見つからない。悪いのは完全に私だ。テツオの思い出に浸りたいだけで安易にここを選んだのは明らかに失敗だった。
「ご懐妊とか」
鍋の湯に塩を振りながらマスターが呟くように言う。
「ええっ?そうなのっ?」
富永が同じセリフをさらに大きな声で口にする。
私はぐっと言葉に詰まった。流産を経験ししかもそれが離婚の遠因になっている彼女に自分が妊婦であることを告げるのは心苦しい。しかし沈黙はイエスだった。
彼女の顔が一瞬陰ったのを私は見逃さなかった。潮が引くように彼女の心が私から遠ざかっていくのが分かる。やはりテツオとの子を水子にしてしまったことが彼女の心の襞に大きなしこりとなっていて、それは今も痛みを発しながら存在しているのだ。
どうして私はよりによってショットバーなんかを選んでしまったのだろう。普通のレストランにしておけば仮に勧められても単にアルコールは苦手ということで切り抜けられたのに。
そこまで考えたところで私は一つの事実に思い至った。結婚する前。私は他人とのアルコールの場を忌避していた。飲めないと言い張り頑なに参加を拒否していた。それが今日は自分から富永を酒の場へ誘った。以前の私ではあり得ないことだ。私は変わった。何がきっかけだったのかはすぐには思いつかない。テツオとの別れ。入退院。結婚。退職。妊娠。きっとどれか一つではなく、これら全てを経験してきたからこそ今の自分があるのだ。逃げ出したい、辞めてしまいたいと何度も思った自分という存在だが、続けていれば知らないうちに変わっているということもあるようだった。その変化はほんのわずかで、外見からは見分けがつかず自分自身でもなかなか気付けないほどだが。
私は富永に向き直ってはっきりと告げた。
「すいません。四か月になります」
「謝るようなことじゃないわ」そう言って彼女は私に身体を寄せ真剣な眼差しで私の手を握った。彼女の手は華奢だけど力強かった。「おめでとうございます。くれぐれも大切にね」
「ありがとうございます」
私は思わず目頭に涙が浮かぶのを感じた。うれしいからではなかった。流産が富永にもたらした様々な艱難辛苦、そしてそれらを乗り越えて作家としての今の地位を築き上げてきた彼女の強靭な精神力の一端が彼女の温かい掌を通じて私に伝わったような気がして不意に胸が一杯になってしまったのだ。
「じゃあ、トマトジュース?」
「え?」
「私、つわりの間トマトジュースしか飲めなくなっちゃった時期があったの。もしかしたら松山さん……青木さんってお呼びした方がいいわね。青木さんもそうかな、と思って」
「私の名前ご存じだったんですか?」
結婚していることは指輪を見れば分かるとしても青木という姓を知っていたとは。
「まあね。元警察官で、今はマスコミ関係者でもありますから。それはもうあの手この手で」
彼女は悪びれもせず胸を張って言ってのけ、そのふてぶてしさに私は思わず笑ってしまった。
「汚い奴だな」
マスターはそう言ってくれたが、そこまではっきり告げられると気持ち良いぐらいだ。そもそも私の携帯電話の番号を知っていたのだから名字ぐらいばれていても今さら驚くようなことでもない。
「で、何にする?ここってあまりソフトドリンクは置いてないけど」
「私はつわりは軽いみたいなんですけど、……でもトマトジュースにします。もともと好きなので」
マスターは手早く真っ赤で少し粘り気のある赤い液体を細長いグラスに注いで出してくれた。乾杯をして冷えたトマトジュースを飲むと胸にこみ上げてきていたものが少し沈静された。トマトの酸味が舌だけではなく身体全体でおいしいような気がした。
「そういえば、私が来て何で驚いたんですか?」
「ああ、そうそう。青木さんが階段を上がってきたときにね、足音を聞いただけで彼がいきなり『待ち合わせの人が来たよ』って言ったの。私、彼には誰かと待ち合わせてるなんて言ってなかったのによ。それで振り返ったら本当に青木さんが現れて」
「覚えてくださってたんですね」
私はマスターを感謝の意をこめて見つめた。
「以前はよくお越しいただきましたから」
そう言われると恥ずかしくて何も言えなくなる。あのころ私はマスターに色々と愚痴をこぼしていたような気がする。
私の靴音は変わっていなかったようだ。それはそうか。歩き方なんて長年身体に染みついたものだからそう簡単に変わるものではないということなのだろう。いつまで経っても私は私ということだ。
「にしても、どうして私が青木さんを待ってるって分かったのよ」
富永はさっさとビールを空にしてグラスをマスターに突き出した。彼はグラスを受け取ると別の新しいグラスにビールを注いで返した。
「あの人と関係がある二人が同じ日に、しかも何年振りかに現れるなんて偶然にしては出来過ぎてるからな」
マスターの言葉は私の胸に深く鋭く突き刺さった。あの人とはきっとテツオのことだろう。
「私とテツオさんのこと知ってたんですか?」
「ええ。いつだったかな、一度だけあの人からここに電話があったんですよ。ズブロッカを注文する一人客の女性にあまり飲ませすぎるなって。言われなくてもお客様のペースが速いのでこちらでアルコールは抑え気味にさせていただいてましたけど」
思わず私は顔を赤らめた。マスターに気に掛けられていたとは私は以前どんな飲み方をしていたのだろう。
しかし、あのテツオが私のことを心配してマスターに電話を入れていてくれたなんて驚きだ。無頓着に見えて私のことを少しは見ていてくれたのかと思うと今度はじんわりと熱いものが胸に広がった。正直言って嬉しい。これが聞けただけでも今日はここへ来た甲斐があったというものだ。
「何だか妬けちゃうわ。私にはそんな優しいことしてくれなかったもの」
「お前は十二分に強いからだよ」
そう言ってマスターは私にパスタを出してくれた。
「褒め言葉ととっておくわ」
強気にそう返しながらも微妙に落胆の様子が垣間見える富永に掛ける言葉が見当たらず私は少し緩みそうになる頬を誤魔化すためにもフォークを取りパスタを口に運んだ。中途半端な時間におじやを食べてしまっていたがスープの味が絶妙で私は黙々と口を動かしあっという間に平らげてしまった。
「それだけ食べられれば安心ね。きっと丈夫な子が生まれるわ」
私が食べ終わっても富永はまだペペロンチーノを残していた。「ごめんね、私だけ飲んで」と言いながら一欠片も申し訳なさを感じさせず美味しそうにビールを飲んでいる。
「お酒、強いんですね」
「そうでもないけど。今日はなんだかすいすい咽喉に入ってくの。なんだか不思議。室谷が憑依してるのかしら」
「テツオさんって酒豪だったんですか?」
「そうよ。あれこそざるね。ビールだろうが、ワインだろうがウォッカだろうが何でもどれだけでも飲んじゃうの。ここでも何度も飲んだわ」
ね、と富永はマスターに同意を求める。そうだったな、とマスターは懐かしむように応えた。
「あなたの前では彼は飲まなかったの?」
「ええ、一滴も飲もうとしませんでした」
「そう。そう言えば室谷が私に横領事件の話をしてくれたときに飲みに誘ったんだけど、すげなく断られちゃったことがあったな。そのときは、きっと私の今の旦那に気を遣ったのかなって自分勝手に思い込んでたんだけど、今思えば私、酷なこと言っちゃってたのかもね」
富永の言葉に私はハッとした。
テツオは私が酒に溺れているのをどんな思いで見ていたのだろうか。次から次へと栓を開ける私をさぞかし妬ましく眺めていたに違いない。知らなかったこととは言え申し訳ない気持ちになる。
当時テツオはすでに末期ガンの宣告を受けていた。きっと体調的に酒を飲むことは難しくなっていたのだろう。飲めても少量程度ならいっそ飲みたくない。飲むなら思いきり、好きなだけ飲みたい。飲兵衛と呼ばれる人はたいてい同じように考えている。アルコールを断つまでは私もそう思っていた一人だ。きっとテツオもそうだったろう。そして昔はあんなにおいしく飲めていたのにと思うと彼は余計に酒のことを考えたくなかったのではないか。
全盛期のテツオと一緒に飲めたらさぞかし楽しかったことだろう。どちらが強いか競争したかった。しかし、大酒飲みの彼がマスターに注意を促すぐらいだったのだから当時の私の飲み方はさぞかし危なっかしいものだったに違いない。おそらくテツオと出会った頃には私は立派な中毒患者になっていたのだろう。
「ねぇ。聞こう聞こうと思ってたんだけど」
「何ですか?」
富永は自分に勢いをつけるかのようにビールを一気に呷りマスターに今度はシーバスリーガルのロックを注文した。
「青木さんって、室谷のことを哲夫さんって呼んでたの?」
「ま、まぁ、そんな感じです」
私は曖昧にごまかした。テツオと呼び捨てにしていたとは妻であった富永には言いづらい。
「いいわねぇ。私も一度でいいからそんな風に名前で呼んでみたかったわぁ」
富永は少し酔ってきたのだろうか。語尾が微妙に伸びてきている。見れば顔だけではなく首筋まで見事に紅く染まっていた。トロンと目じりを垂らして中空を見ているのはテツオとの夫婦生活を思い出しているのだろう。
「名前で呼んだことなかったんですか?」
「単なる同僚だった頃も、付き合っていた頃も、夫婦になってからも私はずっと『室谷さん』だったわ」
「結婚してからもですか?」
富永はため息を漏らすようにこくんと頷いた。
「どうして?テツオさんがそうしろって言ったんですか?」
「違うわ。彼は何も言わなかったけど私が何となく彼のことをさん付け以外では呼べなかったの。彼のことを尊敬していたからかな。もしかしたらただ単に怖かっただけかもしれないけど」
「怖かった……ですか」
私は夫をどう見ているのだろうか。少なくとも怖いと思ったことは一度もない。尊敬どころか見下している部分がまだどこかに残っている気がする。同僚だった頃から出来の悪い奴だとなめてかかっていたのが今でも続いているのだ。青木を夫として愛していないわけではない。しかしどうにも頼りなさが目に付いてしまう。彼についていって本当に大丈夫なのだろうかという意味での恐れは結婚生活の当初から常に払拭できないでいる。もうすぐ子供が生まれるのだ。彼にはもっとしっかりしてもらいたい。たとえ怖いと思わせるようでも頼りがいがあって尊敬できる人間と添い遂げたいと思うのは隣の芝生が青く見えるのと同じことだろうか。
「しかし、ここは本当に静かね。昔もそうだったけど全然お客さん来ないじゃない。よく潰れずにやっていけてるわ」
富永の感想には私も深く頷いてしまう。今日だって貸切ではないはずだが私たちのほかには誰も現れない。私がここに通っていた頃も数えるほどしかお客さんを見たことがない。客が少ないからこそ私は気安くここで飲んでいることができたのだが。
「心配ご無用。何とかなるもんさ」
マスターは苦笑するだけだったが富永は許さなかった。
「きっと何か悪いことをしてるのよ。ここは薄暗がりだから分かりにくいけど久しぶりに見たらあなた一癖も二癖もある顔してるもの」
「昼間バイトしてるだけだよ。誰かさんと違って他人様に迷惑をかけるようなことはしてません」
今日のマスターは私が知っている彼とは少し違っている。ほんのわずかだが確実に多弁で無害の毒がある。昔馴染みの富永を相手にしているから本来の彼が出ているのだろう。優しくて低い声も今日は微妙に透明度が高い。
「何よ、その言い方。私が何か悪いことをしてるって言うの?」
「胸に手を当てて自分に聞いてみろよ」
「こんな小さな胸の中に悪者がいるはずないでしょ」
思わずくすりと笑ってしまう。確かに痩せている富永の胸は小さかった。膨らみと言えるほどのものがない。
「今、笑ったでしょ?」
私は必死にかぶりを振る。しかし富永が笑いだしたのでつられて笑ってしまった。
私の中の何かが融けだしている。テツオを失ったときにどうにも持て余してしまい胸の奥にそのまま凍らせて封じ込めた当時の様々な感情が今じわじわと浸み出し私の心の壁を潤していく。それはあふれ出たものを目の前の富永が受け止めてくれるからだ。そして、それは私だけの感覚ではないような気もしている。
「私ね、青木さんに会うの本当は何となく怖かったの」
「どうしてですか?」
「作品づくりのためだと自分に言い聞かせてたんだけど、心のどこかで自分が惨めな気分になりそうな気がしてた。青木さんって私と別れた室谷が同棲したわけだから、私に足りない何かを持ってる素晴らしい女性なんだろうなって。そんな人と相対したら室谷に『お前に欠けてるのはここなんだよ』って言われてるような気になって悲しくなってくるだろうなって恐れてた。でも実際に青木さんに会ってみて今は違う感覚になってる。私と青木さんって全然タイプが違うじゃない?私はチャキチャキで色んなことにとりあえず手を出してみるような賑やかな人間だけど、青木さんは穏やかで落ち着きがあって大和撫子って感じ。ここまで違ってると割り切れちゃうって言うか。室谷にとって私と一緒にいたときは私みたいな人間が必要だったし、青木さんと過ごしてた時は青木さんのような女性を求めてたんだって今は思えるの。それにね、気が付いてなかったんだけど私って室谷と離婚したことで心に負い目を持って生きてたみたい。それが青木さんと室谷のことを話してると少しずつその重荷から解き放たれていくような身体が軽くなるような感覚を味わうことができるの。だから本当に青木さんに会えて、こうしてお話しすることができて良かったなって青木さんにも室谷にも感謝してるの」
私は深く頷いた。
富永もテツオを愛しながら彼と別れたという意味では私と同じだ。一度は家族にもなっており私よりも彼との歴史は長く深いと言える。テツオの死に接し心に重い喪失感を抱えていないはずがない。その彼女の表情が私と言葉を交わしているうちに少しずつ変わり柔らかさを湛えていくのは彼女が言葉にしたとおり背負っている重荷から解き放たれている証左なのだろう。
私たちはこれまで周囲に対してテツオの存在をタブーにして生きてきた。そんな生活の中でテツオについて語り合える唯一の人間を互いに見つけたのだ。私たちは恋敵であり同士でもある奇妙な連帯感を共有しているようだった。
ちょっと酔っぱらってきたかしら、と気だるそうに頬杖をつき少し朱に染まった目で富永が私の顔をじっと見てくる。
「ねぇ、室谷とはどういう風に出会ったの?あのメモを見る限り何だか劇的よね。傷つき高熱に倒れた男を救ったって感じ?」
「そういうことになっちゃうのかな。出会った瞬間のことは私も慌ててたからしっかりとは覚えてないんですけどね」
アルコールに蝕まれていたからということもあるのかもしれないが、テツオを助けた日のことはあまりに必死だったから記憶が整理しきれず今となっては順序立てて説明できる自信がなかった。私はとぎれとぎれに言葉を紡いだ。
このバーからの帰宅途中に公園でテツオがリンチされているのを発見したこと。その日の二日前の朝からテツオはその公園のベンチに座ってぼんやりと中空を眺めていたこと。警察に電話を掛けるふりをして三人組の暴行犯を追い払ったこと。テツオが警察も救急車も呼ぶなと言ったので仕方なく私の部屋で看病することになったこと。
「すごいわねー。事実は小説より奇なりだわ。その暴行犯は単に浮浪者にストレスをぶつけただけってことかもしれないけど、実は室谷が刑事だってことを知ってたのかもね。以前に室谷に逮捕されたことがあって恨んでたとか。そういうストーリーにした方が面白いかな」富永は楽しそうに空想を広げた。この辺りが小説家っぽい。「それにしても一人で暴漢に立ち向かうなんて怖かったでしょ」
「私、実は酔っぱらうと人格変わっちゃうんです。気持ちが大きくなっちゃうって言うか。だから怖いとか思う前に行動しちゃってたみたいです」
「そうなんだ。でも室谷のことも怖くなかった?はっきり言えば得体のしれないホームレスじゃない?実は詐欺師で巧みに部屋に上がり込んできたんじゃないか、とか思わなかったの?」
「浮浪者って感じではなかったんですよ。パリッとスーツ着てたから最初は仕事途中のサラリーマンだと思ってました。詐欺師とかはそこまで頭が回らなかったですね。今思えば確かにちょっと怖いかも」
「実は、最初見たときに一目惚れだったとか?」
「そんなことは」
手を振って否定してみたが、心の中で富永の鋭さには舌を巻いていた。言われてみれば最初に見かけたときから私はテツオのことを強く意識していたような気がする。だからこそテツオを躊躇なく部屋に引っ張り込んだのではないだろうか。
そのとき入口から誰かが階段を上がってくる音が聞こえてきた。低く重い音と軽く高い音が混じっているのはカップルの来店のようだ。
「お客さんなんて珍しいわね。誰か分かる?」
富永は試すような瞳でマスターを見上げる。
「一人は二度目だな。若いサラリーマン。女性の方はちょっと分らない。多分初めての人だと思う」
マスターはグラスを磨きながら彼女を見ることなく淡々と受け答えた。
「あっち、移ろうか」
富永が隅にある小さなテーブルに目をやる。確かにこの狭いカウンターに四人並ぶと少し窮屈で話しづらい。私と富永は各々のグラスと枝豆の皿を持って移動した。




