1(十二)
ガタガタガタガタ。
ダイニングテーブルの上で携帯電話が震動し着信を知らせている。私は小さくため息をつきながら鍋の火を弱める。下腹に手を当てテーブルのそばに寄った。お腹の周りに手を添えるようになったのはつい最近できた私の癖だ。見た目にはまだ分からないが私は妊娠している。
液晶画面には登録はないがすっかり見覚えのある4と9がやたら多い携帯電話の番号が表示されている。いかにも不吉な用件を暗示するかのように。
またか。
そう思うと子宮のあたりがキュッと小さな痛みとともに窄まるような感覚に襲われる。こんなときはいくら日頃頼りない夫でもそばにいてくれればと思う。
今朝、彼はこの世の終わりを迎えたような惨めな表情を残して駅に消えていった。二週間ほど前に急に決まった一泊の出張に向かったのだ。出張の目的は当然ながら命のやり取りをするような切迫したものであるはずがなく、モデル事業の視察というあまりに陳腐な内容だった。それだけを取り上げれば夫の表情は大げさに過ぎるのだが、彼にとってはまさに死地に赴くような悲愴な覚悟を要するものだったようだ。
昨晩彼は飲めない酒を口にした。誰が勧めたわけではない。同期の仲の良い職員から海外旅行の土産として貰ったまま食器棚に仕舞ってあったワインを彼自身が栓を抜き自分の手でグラスに注ぎ自分の意志で摂取したのだ。結果論的には安直だったというそしりは免れない。しかし、そのときの彼にしてみれば頼れるものは妊娠初期で体調が芳しくない妻ではなく苦手のアルコールだったのだろう。
「ちょっと寝付けなくて」
ふと目を覚ました私に蚊の鳴くような声でため息まじりに告げ夫は隣のベッドから起きだしリビングに消えていった。あれは何時頃だったのだろうか。可哀そうに、と思い、付き合ってあげた方が良いのかな、と考えているうちに私は再びずるずると眠りに引きずり込まれてしまった。そして彼がいつ寝室に戻ってきたか知らない。きっと彼は私が眠っている間に「今度こそは眠れる」「やっぱり駄目か」を繰り返しながら何度となくリビングとベッドを往復したことだろう。
彼が今回の出張が決まったときから気を揉んでいたのは私も知っていた。彼の役回りは視察者というよりも同行する課長の世話係という性格が色濃い。その課長は私も一緒に働いたことがあるが「切れ者」と評判の出世コースまっしぐらの人だ。「切れる」のは頭の回転のことだけではなく弁舌の巧みさもそうであり、また周囲への態度も合わせて表現している。彼はおよそ配慮という言葉とは縁遠い存在だ。部下のミスに対して「気にするな」とか「次、頑張れ」などの人として誰もが持ち合わせているであろう気休め程度の慰めすら口にすることはない。良くて無視、機嫌が悪ければ周囲の目など気にすることなく大きな声で面罵する。彼の同僚、部下で人事部門に配置転換を申し出た人は数多く、中には病気になって長期間休職した人もいるらしい。
私の夫は自分で自分の能力をわきまえている。できる範囲のことを自分のペースを守ってやればある程度きっちり仕事をこなす。しかし、できないことに手を出したりペースを乱したりすると途端にミスが多くなることは彼自身が一番よく理解している。遅いが失敗はしないということが彼の美点なのだ。
組織とは人間の集まりである。夫を見ていると妻である私でさえ歯がゆくて仕方がないのだが、彼のような人間だって存在して当然だ。逆に組織の中には彼の仕事に対する携わり方が安心感を生みだすような部署だってある。どんな仕事でもそつなくこなす完璧な人間などそうはいない。それに、優秀な人材ばかりを寄せ集めてチームを作っても必ずしもすべてがうまくいくとは限らない。だからこそ管理職という立場の人には人材を使いこなす能力が必要なのだと思う。
その課長は部下を使いこなすという能力が欠けている。そういう意味では仕事そのものに対する知識やスキルは高くても管理職としての器ではないのだろうと思う。しかし現実としてその人は私の夫の上司でありストレスの最たる原因となっている。気の弱い彼は出張先での空気を想像し昨晩容易に寝付くことができなかったに違いない。
もともと夫は朝が得意ではない。妊娠前は私が毎朝の日課として彼の布団を容赦なく剥ぎ大きな声をかけ強引に手を引いてなんとかベッドの脇にちょこんと座らせるところまでしてあげていた。そこからは彼自身が自分の体内にある澱んで視界のきかない沼の中に手を突っ込み底を浚って意識の切れ端を少しずつ搔き集めつなぎ合わせるようにして徐々に覚醒する。そうやって私は彼の毎朝の目には見えない作業に手を貸していた。しかし身ごもってからは何故かは分らないが私も朝起きることに非常に苦痛を感じるようになっていた。なかなか眠りの引力から脱しきれず、意識がはっきりしてきても手足にしびれるような感覚が残っていて身体に力がめぐらない。夫に勝るとも劣らないほど起床に困難を来すようになってしまっていた。
最近は二人して布団の中で毛虫のようにもぞもぞと蠢き互いに時間を掛けて独力で底なし沼から這い上がる日々が続いている。
今朝目覚ましに先に気づいたのは私だったのだろうか。鳴り続ける時計の音に眠りの淵で気づき目を開けることまではできないが途切れそうになる意識を必死に手繰ってぱくぱくと口を動かし絞り出すように何とか声を出した。
「起きてる?」
音声として夫に伝わったか心配だった。
「ああ。だい、じょう、ぶ」
その声は隣のベッドから聞こえてくる。語尾の明瞭でない返事は全然大丈夫そうではない。やはり彼もまだ泥濘にはまりこんだままのようだった。私は懸命に瞼を開き霞む時計の針を必死に睨みつけた。
「何時に出るんだったっけ?」
私の問いかけに彼はあやふやな声でいつもの通勤と変わらない時刻を返事をした。
時間はまだ余裕がある。それを確認すると私は力尽きたようにのしかかってくる重い眠りに身を委ねてしまった。
次に気づいた時には私は大分四肢に力が入る状態だった。隣を見るとそこには夫はいなかった。自分で起きだして出張に向かったのだろう。ほっと息をつき手で支えるようにして身を起こすと私の足元でベッドに腰をかけたまま舟を漕いでいる夫を発見した。ハッと息をのみ枕元の目覚まし時計を掴む。私は目を見開き声を上げた。
「時間よ!起きてっ!」
私の声に夫は飛び上った。しかしその時にはすでに彼は絶望の淵に立っていたことになる。
夫が先ほど私に告げた出発の時刻は誤りだったのだ。私が手渡した時計を見て今度は夫が眼を剥いた。見る見る色を失っていく彼の表情に接して私はありありと彼が置かれている状況を察知した。私が何時に家を出るのかを訊ねたとき、彼は半分眠ったまま身体に染みついた通勤の時刻を反射的に口にしただけだったようだ。実際に今朝彼が乗るべき電車はそのときまさに駅を発しようとしていた。
彼は、どうしようどうしよう、と念仏のように呟きながらも、もはやこれまでと居直る度胸もなくスーツに着替え水一杯飲まずに小走りに玄関に向かった。土気色の顔をした彼が自分のリズムを見失いキャリーバッグを抱えてドアから出て行く様子に私は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。きっと良くないことが起きる。今でも最悪と言える状況なのにこれでは終わらない予感が私を震わせる。私は何かに急き立てられるように部屋の中を点検して回った。
忘れ物が携帯電話ではなかったことが不幸中の幸いだった。靴を出した代わりに残していったのだろうか。あまりに予想通りなのが我ながら恐ろしい。下駄箱の中に今日の出張に使う資料と思われる茶封筒を見つけて今度は私の顔から血の気がひいた。
私は夫の携帯電話を鳴らした。現状を告げすっかり動転している彼に私なりに最善と考えた指示(ただ何もせずに駅の改札で私を待つこと)を伝えるとタクシー会社に電話してすぐさま彼を追った。
どう足掻いても遅刻は確定だった。私から茶封筒を受け取り改札を抜ける夫を私は祈るように胸の前で手を組んで見送った。あんなに急いでこけなければ良いが。と思っているそばから最後の段につま先を引っ掛けバランスを崩す。その拍子にキャリーバッグがまるで意思を持っているかのように彼の手からするりと離脱する。ガタンゴトンと階段の一番下まで転がり落ちるバッグを拾い、また階段を駆け上がろうとするときにこちらを向いた彼はまさに死相と呼べるような不吉な相貌を浮かべていた。
少し無理をしたのだろうか。駅から出ると全身が気だるかった。バスで帰る選択肢もあったが迷わずタクシー乗り場に向かう。
重い身体を引きずるようにして部屋に帰ると夫が昨晩使ったらしいグラスがリビングのテーブルに置かれているのを見つけた。そこに私は改めて夫の苦悩を覚った。朝の陽光差し込むリビングに所在なさげに佇むそのグラスを掴み、中に残された赤ワインを流しに捨てる。さして活躍もせず放置されそのまま捨てられる。排水管に流れていく赤紫色の液体を見つめていると私は不意に身を捩りたくなるような何とも切ない思いに駆られた。
彼のような性格の人間が生きていくには今の世の中は少し波が荒すぎる。給料と引き換えにそれこそ寿命が縮むような思いを彼にさせ続けるのは忍びないし、憎めないところがある彼だが現実の生活ではその「ところ」に頼って生きていくのは心もとない。やはり産後は私も働いて金銭的に少しでも夫に安心感を与え気持ちに余裕を持たせてあげなくてはならないだろう。
……そう。今日、私は一日の始まりから目眩がするような疲労感を味わったのだった。壁の時計に目をやった。もうすぐ正午か。
およそ一時間前にもこの番号からの着信があった。そしてその一時間前にも。
今から二時間前。私は産婦人科の待合室に座っていた。今日は月に一度の定期検診だった。周囲には数人の妊婦が育児本や雑誌を手に私と同じように検診の順番を待っていた。そのときに初めてこの番号からの着信があった。病院の待合室の壁には携帯電話の電源は切っておくようにとの張り紙がある。私はその張り紙に向かって頭を下げるようにして中で携帯電話が振動している鞄に覆いかぶさり早く切れてくれとひたすら祈った。やがて切れた携帯電話を確認して登録のない誰とも分からない人からの着信だったことを知った。留守番電話機能にはメッセージは残されていなかった。間の悪い人もいるものだと舌打ちしつつもいったい誰から何の用なのかと少し不安にもかられた。きっと間違い電話だろうと強いて思い込みこちらから掛けなおすことはしなかった。しかし、その後看護婦に呼ばれ内診台に上がって産科医に膣内を触診されたり観察されたりしている間中も何となく掛かってきた電話が気になっていた。
午前十一時頃、二回目の着信があったのは産婦人科からの帰り道だった。一時間おきに私に電話をしてくる人がいる。誰が一体、何の用で。間違い電話なら私が出ない限り何度でも掛けてくるかもしれない。そうは思いながらもどうしても電話に出る気にはなれなかった。登録のない不気味な番号を目にすると下腹部に冷たい圧迫感を覚えた。すがりついてくる子犬を強引に置き去りにするような罪悪感で振動し続ける携帯電話を鞄に戻した。やがて電話は息を引き取るように震動を止めた。