17(十九)
家に帰ると私は早速パソコンを立ち上げインターネットで警察の横領事件について調べてみた。検索エンジンでヒットした記事の見出しは眼に痛かった。
「転落刑事の放蕩三昧、配置転換・離婚の腹いせに刑事が横領」
私は震える指でマウスを操り、食い入るようにパソコンの画面を睨みつけた。
「室谷哲夫」
いきなりその名前が目に飛び込んできて網膜にくっきりと焼き付いた。テツオはネット上で「容疑者」という扱いになっている。昔の同棲相手が犯罪者として公に指弾されているという状況は予想していたよりも激しい動揺を私にもたらした。大きな鉛玉を受け止めたような重い衝撃が胸を打った。下腹がキュッと締まる感じがして私は思わず俯いて子宮のあたりに手を添える。全身を震わせるほどの動悸がして額にじんわりと汗が浮かぶのを感じる。身体中の皮膚という皮膚が粟立っていた。やっぱりそうなのかというのが正直な感想だった。嘘だと思っていたわけではないのだが、自分が富永の言葉を完全に信じていたわけでもなかったということに思い至る。
目を閉じて大きく息を吐き出す。肺一杯に吸いこんで大きく吐き出す。深く空気を取り込んでは時間を掛けて少しずつ絞り出す。何度も繰り返す。
ここまで来たら読まないわけにはいかない。私は私と出会う前のテツオの身に何が起きていたのか知りたい。私はゆっくりと顔を起こし瞼を開けた。
事件についての第一報とその周辺の記事を拾い読みすると次のことが書かれていた。
容疑者は元刑事であり現在は住所不定無職であること。在職中に数百万円に及ぶ公金に手をつけ姿をくらまし現在指名手配中であること。優秀だったが無類のギャンブル好きで多額の借金を抱え生活に困窮していた様子が見受けられたという同僚の話。望まぬ異動や離婚が彼を追い詰めたのかもしれないという噂。姿をくらます直前に勤務時間中に風俗街やパチンコ店に出入りする姿を数度目撃されており上司から譴責を受けていたこと。
最新の続報の記事は簡潔だった。
室谷容疑者が入院先の病院ですい臓癌により死亡していたことが判明。警察当局が室谷容疑者入院の情報を掴んだときにはすでに室谷容疑者は意識不明の状態であり結果として事情聴取を行うことができないまま捜査は容疑者死亡により終了。
私は一通りネットサーフィンをし終わってマウスから手を放すと腕組みをした。胸に生まれているのはこれまでの人生で感じたことのないほどの強い恐怖だった。
富永の言葉をすべて信用するとすれば警察はテツオが調査した横領の事実をねじまげ一方的にテツオを犯人に仕立てあげたということになる。そこには白いものでも黒いと押しつける絶対的な力を私に感じさせた。警察が言うのならそうなのだろうと思い込ませる圧倒的な信用度に息がつまりそうだ。
なるほど一刑事が手を染められる額とすれば数百万円が妥当だろう。それ以上多いと管理の杜撰さがマスコミからの激しい糾弾の的になってしまうことも予想できる。その数百万円の行方もギャンブルに消えたというのであればそれ以上追究しようがない。離婚で身持ちを崩すというのも一般的にあり得そうな話であり、この記事を読んでこの事件が巧妙に作り上げられた虚構ではないかと不審に思う人はいないだろう。富永の説明を直接聞いた私でさえまだ彼女の掲げる警察の嘘という旗に一点の曇りもないか判断がつかないのだから。
何とも恐ろしいことが他の記事とともに平然と並べられている。警察が保身のために故意に一人の男に罪をなすりつけようとしたかもしれない。こんなことを知ってしまえばこれまで毎日聞き流し読み流していたニュースの一つひとつが本当に正しいものなのか疑わしく思えてくる。こんなことが起きる世の中では真実を見極めるなどということは一般人には到底できはしない。
私は再び鞄からメモを取り出し開いた。
公園で三日間ベンチに佇んでいたテツオの姿が思い起こされる。静かで穏やかに腰掛けている様は泰然として見えた。しかし魂の抜けたような覇気のない顔だったようにも思う。あのときテツオが見ていたものは何だったのか。犯罪を取り締まるべき使命を担う組織に対してその使命を果たすべく犯罪の存在を訴えた結果、逆に容疑者の汚名を着せられて追われることとなり、さらに自分の余命が幾ばくもないという現実に直面したとき人は何を考えるのだろう。身も心もぼろぼろでまさに瀕死の状況で見ず知らずの私に助けられ看病されているときの彼の気持ちは?私の部屋から去っていくとき彼の胸に去来した感情はどのような種類のものだったのか。
私は無力だった。テツオはきっと足もとから手先から爬虫類のような死が這い寄ってきているのを感じ毎日心を凍らせていただろう。私はその彼のそばにいながら何も知らずただ無邪気にテツオの温もりに心地良さを感じて楽しんでいた。彼の体温を少しずつ奪っていたのは私なのかもしれない。
メモを最後の日の「電気スタンド」まで読み通し私は首を傾げた。
何か違和感がある。何だろう、この感覚。私は今何に引っかかったんだろう。
不意にチャイムが鳴り私は思わず声を出して驚いた。空想から無理やり現実に戻され自分が今どこにいるかも一瞬思い当らなかった。
インターホンに出ると母だった。ちょっと待って、と言い残し慌ててメモを鞄の中に仕舞うと玄関に向かう。
「今日も切り絵教室だったっけ?」
ドアを開けると勝手知ったる我が家のような顔で母がするりと入ってくる。
母は最近この近所にある地域コミュニティセンターで市が実施している催しに参加している。手話講座、手芸教室などを無料で受けられるし、友達が増えると言って喜んでいるのだ。暇を持て余した老婦人同士で仲良しグループをつくり同種の講座にちょくちょく顔を出しているらしい。先日、切り絵教室に行く途中にここに寄ってそんな話をしていった。
「今日はダンベル体操。それよりも検診の結果はどうだったの?それが気になって気になって居ても立ってもいられないのよ」
母は言葉とは裏腹に落ち着いた足の運びでダイニングテーブルに着く。私は仕方なく流しに立って急須にポットから湯を注いで茶を淹れた。
「前回の検診の結果でもう心配ないって言ったじゃない。今日も母子ともに健康だって言われたわよ」
「そう。なら良かった。でもやっぱり安定期に入るまでは油断しちゃだめよ」
母は小さく笑って私が淹れたお茶を美味しそうに飲んだ。
母の心配は分からないではない。私も今日の検診に何の不安もなかったと言えば嘘になる。
私は妊娠が分かってすぐにインフルエンザに罹ってしまったのだ。
その日は夕食を食べた後何となく身体がだるい気がしてソファで休んでいるとすぐに立ち上がるのもしんどくなりトイレで吐いた。これがいわゆるつわりというやつかとベッドで横になっていたのだが吐き気が治まっても一向に身体のだるさがとれず念のためと思って熱を測ったら三十九度を超えていた。慌てて夫に体温計を見せすぐにタクシーで産婦人科に駆け込んだのだが、検査の結果インフルエンザということが分かり気休めにもならない漢方薬を渡され帰ってきたのだった。
「高熱が続く場合、胎児については万が一ということも覚悟しておいてください」
迷惑な保菌者を追い払うような態度の医師に事務的な口調で一番聞きたくないことを告げられ私は熱が下がるまでの三日間本当に生きた心地がしなかった。
「由香里には本当に心配させられっぱなし」ため息交じりに母に言われても何の反論もできない。「もちろんお酒は飲んでないでしょうね?」
母の探るような暗い視線からインフルエンザによる影響よりも実はそのことの方が心配なのだと思い当たる。以前だったら母のこんなおせっかいが鬱陶しくて仕方なかったのだが、今は無下にあしらえない自分がいる。これが親になるということなのだろうか。
「当然でしょ。私にも人並に母親の自覚が芽生えてきてるのよ」
「それは結構なことね。あんなことは私はもう二度と嫌よ」
「ないない」
私は目の前で手を振って笑って見せた。母もようやく力の抜けた笑顔になる。
しかしさすがに小言を聞いているのにも飽きてきたので私は母に仕事を与えることにした。
「お母さん、昨日炊いたご飯が冷蔵庫に残ってるからさ、おじや作ってよ」
「何、由香里。あなたお昼食べてないの?」
確かに食べていない。しかし、それを言うと面倒なことになるので黙っておく。
「ちょっと食べたけど一度にがっつり食べられないのよ。だからすぐに小腹が空いちゃって」
「そっか。妊娠中は量を減らして回数を多くするんだったわ。もう、昔のことですっかり忘れちゃった」
母は私の言い訳をすっかり信じきった様子でキッチンに向かった。テキパキと鍋に水を汲みコンロに掛ける。シンクの引き出しから調味料を探り冷蔵庫から卵を取り出した。
料理をする母の姿は何故か私をゆったりとした気分にさせる。私は小学生に戻ったような気分で母の動きを目で追っていた。
「でも、あれよね」
手を動かしながら母はちらりとこちらを見た。
「あれって何?」
「あれはあれよ。あんなこととは言ってもあんなことがあったから今の生活があるんだから、人生何がいいのか分らないものね」
そう。あんなことがきっかけで私は結婚することになり、その結果妊娠もしているのだ。




