15(九)
結局私は見合いをすることにした。職場にまで電話をしてくる母の執念に根負けしたのだ。どれだけ言っても聞く耳を持たない母のことだからまた電話を掛けてくるかもしれず、職場から電話をなくすことができない以上、私は降参するしかなかった。それでも「今は仕事が忙しいから」とか「体調が良くないから」などとつまらない言い訳でのらりくらりと日程を決めたがる母をかわしてきたのだがそれも限界に来ていた。
母は兄をも動かしたようだ。妹の性格を知っている兄はお見合いに関しては私の味方だったのだが、今回に限っては「母さんの話を聞いてやれ」と電話してきた。
「親父の葬式のときの借りを返すと思えばできるだろ」
母に相当説得されたようだ。投げやり気味のうんざりしたような兄の声。確かに私はあのとき死んでも返しきれない借りを作っている。そう言われてしまえば私にはもう逃げ場所はなかった。
「電話済んだ?」
居酒屋の入り口から顔を出していた長谷川係長がいつにない笑顔で私を手招きする。いつからそこに居たのか。兄との会話を聞かれただろうか。聞かれていたとしても、もう今さらという感じもする。以前、職場に掛かってきた母からの電話で私はこれ以上ない醜態をさらしてしまっているのだから。私は長谷川係長の背中について打ち上げの席に向かった。
「今回の主役は松山さんだからさ」
長谷川係長は笑顔をさらに崩して私に座敷の中央、でっぷりと座っている課長の正面の席を指差す。
「いえ、私は幹事ですからこちらで……」
私が一番出口に近い末席の座布団に座ろうとすると、「ここは僕がやるからさ」と私より先に長谷川係長が座り込み、ほらほら、と私を中央に追い立てる。何の陰謀か空いている席はもうそこしかない。普段こういう場に出ることのない私が参加するということで課長が相手に指名したのか。
「松山さん、こっちに来て座りなさい」
満座の前で野太い声の課長に言われ、私は仕方なく彼が指さす向かいの席に足を運んだ。
両隣は青木と大河内だった。青木は物静かだから良いが、大河内はおしゃべりなのでさらに憂鬱が深まる。観念して腰を下ろすと酒豪と専らの噂の課長がビール瓶を凶器のように突き出してくる。
「あの、私、お酒は……」
「知ってる知ってる。形だけだから」
課長は強引に私のグラスをビールで満たした。
琥珀色の美味しそうな液体が目の前で爽やかな気泡を浮かび上がらせる。私は困ったという苦笑を浮かべながら静かに生唾を飲み込んだ。ああ、思い切り目の前のビールを飲み干したい。しかし、これまで一貫して下戸で通してきたのが嘘だとばれてしまう。
長谷川係長の発声で乾杯となると私はビールには一切口をつけずにすかさず店員にウーロン茶を注文した。振り返ると課長は一息でグラスを空にしている。社会人としての最低限のマナーとして上司に向かってビール瓶を傾ける。課長は頷いてグラスを差し出した。
「松山さんは一人暮らししてるんだっけ?」
課長が早速、私のプライバシーを覗き見ようとしてくる。
「はい、まあ」
さすがに、テツオという名のどこの馬の骨とも知れない男と同棲しております、とは言えない。
そういえばテツオは今頃何をしているだろうか。昨日作っておいたカレーをちゃんと自分で温めて食べているだろうか。
「何かと大変だろう?料理とかするの?」
言いながら課長はどんどんビールを胃に流し込む。すかさず私がグラスを満たす。
「我流ですけど」
「そうか。そりゃたいしたもんだ」
店員がウーロン茶を持ってきて私は漸くビール瓶をテーブルに置く。渋みしか感じないウーロン茶もカラカラに乾いた咽喉には美味しく感じた。係長相手でもかなり緊張するのにそのさらに上司と会話するのはまさに苦痛以外の何物でもない。早く場が和んで誰か私の代わりに課長の相手をしてくれないだろうか。
「松山さんはお酒は全くダメなのかね」
あっという間にグラスを空にして催促顔の課長にまたビールを注ぎながら私は困惑の表情を浮かべて見せる。
「全くと言うわけではないんですが、すぐに気持ち悪くなってしまうので」
ということにしておくのが無難だ。
「ふーん、そうなんだぁ」
大河内が横から何やら含みのあるような声で割り込んできた。アルコールがすぐに顔に出る性質なのかすでに顔がほんのり赤い。
「大河内さんはどうなの?」
課長がすばやく彼女に向かってビール瓶を差し出す。大河内は恐縮するような素振りは一切なくビールを受けた。
「私はいけますよぉ。すぐ顔に出ちゃいますけどね。仕事はダメですけどこっちならどんと来い」
「ほほー。それは頼もしい」
そこから課長は一気に鼻の下を伸ばして大河内と差しつ差されつやり出した。私は酒豪の課長とおしゃべりの大河内で毒をもって毒を制したような気分になり、ほっと胸を撫で下ろしてちびりちびりとウーロン茶で咽喉を潤した。
「よく分かります」
声の方へ顔を向けると青木が神妙に頷いていた。
何が良く分かると言うのか。私が怪訝な表情を見せると青木が自分のグラスを指差した。彼も私と同様に乾杯用のグラスはそのままで別にウーロン茶を頼んでいる。
「僕もダメなんですよ。こんなに飲んだら多分失神しちゃいます」
たかがビールをたったグラス一杯飲んだだけでダウンする人間がいるのか。私は心の中でくだらない男だと蔑みながら顔では共感の表情を示した。
もう、疲れてきた。早くこんなくだらない集まりから私を解放して欲しい。お見合いの日程が決まってしまい、私は一人で自棄酒を呷りたいのだ。
場は次第にくつろいだ雰囲気になっていた。あちらの席では男性陣が寄り集まって仕事の愚痴をこぼし合い、こちらの席では三人の女性が互いにネイルの装飾を誉めあっている。大河内は課長を相手にため口で今までの自分の男運のなさを語っていて、課長は課長で酸いも甘いも経験してきたような顔つきでそれに相槌を打っている。私はポツンと同じ席に座り続け胃がもたれそうな油っこい居酒屋のつまみを次から次へとウーロン茶で流し込んでいった。誰にも話しかけられないのは勿怪の幸いなのだが、きっと周囲の同僚は飲み会の場でも誰とも話そうとしない私をちらちらと盗み見て心の中で嘲っていることだろう。そう思うと私を幹事に指名した長谷川係長が恨めしい。幹事にさえならなければ課内の和気あいあいの場面で絵に描いたような孤立を痺れるほど味わわなくても済んだのに。
「松山さん、一杯どう?」
不意に声を掛けられて私はから揚げを咽喉に詰まらせた。心の中でめらめらと憎悪の炎を燃やしていたその対象である長谷川係長が少し顔を赤らめてビール瓶片手に私と青木の間に入り込んできたのだ。私はウーロン茶でから揚げを胃に落とし込み懸命に首を横に振った。すると彼は意外にもあっさり引き下がり反対の青木に凭れかかった。
「青木、ほら飲めよ」
ぐいぐいと肩で攻め立てる長谷川係長に青木がいつにも増して情けない声をあげる。
「長谷川係長、ほんと僕ダメなんですよぉ」
自分のグラスを両手で覆う青木にからむ長谷川係長はその手の甲にビールをこぼすぐらいに瓶を傾ける。この人って酒癖悪かったっけ?
「お前、いつも松山さんにカバーしてもらってるんだからせめてこういう場で松山さんをフォローして代わりに飲むぐらいのことできないのかよ」
お酒のことで青木にフォローしてもらうなんて私の沽券にかかわる。しかし、外野が「そうだ、そうだ」と長谷川係長の無理強いを面白半分に後押しし出した。
「松山さんのフォロー……」
「そう。松山さんのためだ」
「松山さんのため……」
青木が自分のグラスを見つめながら小さな声で私の名前を連呼する。目の座った青木に私は「やめて」とも言えずただ背筋が冷えていくのを感じていた。
「分かりました。飲みます」
青木が勢い良くグラスを掴む。おおっ、とどこからともなく歓声が上がる。場の誰もが青木が手にしている高々二百cc程度の液体の行方に注目している。
「お、おい。別に無理はしなくていいんだぞ」
言い出した長谷川係長が赤ら顔を少し強張らせた。今さらながら自分が部下に飲酒を強要しているパワハラの図に罪悪感を覚えているのだろうか。
「いや、飲みます。これで松山さんが救われるのなら」
そんなことを言われても困る。青木が飲む飲まないに関わらず私は何があってもここでは一切アルコールを口にしない。恩を着せるような物言いは迷惑千万だ。
「青木さん、飲んだら失神しちゃうんでしょ?」
私は何とか青木を止めようとした。私のために青木が昏倒したとあっては今日の晩酌がまずくなる。
「失神ぐらい平気です。では」
何が彼を失神ぐらい平気だと思わせてしまったのか。青木はグラスを握り締めると一気に呷った。勢いがつきすぎて口の端からビールがこぼれる。そのしずくが私の肘にかかったが私は彼の潔すぎる飲みっぷりに圧倒されて気にならなかった。長谷川係長も同じようで何も言葉を発しない。
青木は呷った反動でグラスをテーブルに叩きつけるように置いた。ブーッと大きく息をつき妖しい目つきで前を見据える。
「大丈夫か、青木」
係長が遭難者の頬を叩くような声を出す。しかし青木は何も答えずただ正面を見つめ続けている。誰もが固唾を飲んで青木の様子に注目していた。会場の動きがぴたりと止まっている。青木が両手を見下ろし、何かを確認するようにその手で自分の額や頬を触った。
「取りあえず大丈夫、みたいです」
青木のその返事で張り詰めていた会場の空気が一気に弛緩した。
「びっくりさせるなよ」
「お前はもう飲まなくていい」
「俺は泊めないからしっかり自分の足で帰れよ」
青木に向かって様々な野次が飛ぶ。青木は浴びせられる容赦ない声にへらへらと笑って応えた。
ひとしきりからかい切ると波がひくようにみんなまたそれぞれの集まりのそれぞれの会話に戻っていった。長谷川係長も青木と私の肩をぽんぽんと叩いてふらふらと去っていく。
空間は再び私と青木を置き去りにして雑然とした喧騒に包まれた。私は嵐をやりすごした気分でほっと息をつき大根サラダを箸で突付きながら青木の様子を盗み見た。彼は体内のアルコールを薄めようとしているのかがぶがぶとウーロン茶を飲んでいる。その姿が少し痛々しくて可愛く思えた。大丈夫?と声ぐらい掛けてあげようか。良く分からないが私のためにと思って飲めないお酒を飲んでくれたみたいだし。そう思って口を開きかけたとき私の右肩に誰かがしなだれかかってきた。
「青木さん、松山さんのためなら何でもできちゃうんですねー」
大河内が私にもたれかかりながら甘ったるい声で青木を冷やかす。私の横顔にかかる彼女の息が羨ましいほど酒臭い。
青木は何を慌てたのか激しくむせ返った。ウーロン茶が気管に入ったのだろうか。おしぼりを口にあて何度も咳き込む。
「いや、その、いつもお世話になってるから」
それだけを言うとまた暫く咳を続けた。
「だからって、飲めないビールを一気飲みするなんて、ちょっとおかしい気がするぅ」
「別に何もおかしくないよ……」
ぼそぼそと弱々しい青木の否定が逆に大河内の指摘を認めてしまったような格好に感じられる。その頬が赤く見えるのはさっきのビールのせいなのだろうか。
「松山さんも、青木さんに倣ってここは一つぐいっとどうですかぁ?」
大河内は空のグラスを私の前に置き、ビールをなみなみと注いだ。
「私は、本当に飲めないのよ」
この子は単純に酒癖が悪いのだろうか。それとも酔ったふりをして青木と私をからかって面白がっているのか。私の直感は後者に傾いていた。舌足らずな喋り方がより一層聞き取りづらくなっているが、それも計算のように思えてならない。
「本当にぃ?」
「本当よ」
「本当の本当にぃ?」
試すような大河内の目が気になる。勝ち誇ったように緩んだ口元が私を苛立たせる。彼女は何を言いたいのか。私は嘘をつくのが面倒になってきていた。いっそ一気に飲んでこの小娘を黙らせてしまおうか。ビールぐらいならピッチャーで一気飲みしても倒れることはない。それなのに私はこんなちっぽけなグラスの一杯を必死に断っている。馬鹿みたいだ。
「大河内さん、いい加減にしろよ。松山さんは飲めないって言ってるだろ」
青木は先輩として窘めたつもりなのだろうが、悲しいぐらい威厳に欠ける。
「青木さんはぁ、松山さんのことになるとすぐむきになるのよねぇ」
全く怯むことなく受けて返されるとあっさり青木は「そんなこと……」と口ごもりながら引き下がってしまう。それは、「松山さんのことが好きです」と言わんばかりに見えてしまう。何?何なの、この展開。青木はいったい何を考えているのだろう。
「私、松山さんは本当は飲める気がするんですよね。だって、前に私の仕事ヘルプしてもらったとき、松山さんから少しお酒のにおいがしたんだもーん」
頬がカッと熱くなるのを感じた。委員会資料作成のとき大河内のフォローと打ち上げの幹事を長谷川係長に頼まれてほとほと困った私はウィスキーの力を借りた。ブレスケアを飲むのを忘れなかったが大河内には気付かれていたのか。
「そんなの、そんなの大河内さんの気のせいかもしれないじゃないか」
青木も思い当たるところがあるのか語尾があやふやになっている。いかにも鈍そうな青木にまでばれているということは他の皆も感づいているに違いない。必死に隠してきたつもりが、知られていないと思っていたのは自分だけだったのか。私は急に色々なことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「そう言う青木さんだって怪しいと思ってるんじゃないんですかぁ?」
「もういいわ」
私は目の前のグラスを軽く摘むと二口三口で咽喉に流し込んだ。炭酸の気泡が咽喉の奥で弾けていく。冷えたビールが火照った身体に気持ち良い。
空のグラスをテーブルにそっと戻すと私はすっくと立ち上がった。
「ちょっとトイレに」
鞄を掴むと私は人の間をすり抜け振り返ることなく飲み会の場を後にした。長谷川係長に声を掛けられた気がしたが私の足は止まらない。小走りでレジの前を通り過ぎ慌てて引き返した。今日の幹事は私だった。会計だけは済ませておかないと課のメンバーがここで皿洗いのアルバイトをすることになる。
「一番奥の座敷の松山ですけど、先に支払いだけしてもいいですか?」
コース料理に飲み放題のセットなので何の問題もなかった。お金を支払っている間に誰かが捕まえに来ないかと心配だったが杞憂に済んだ。「時間になったら長谷川というものに伝えてください」と店員に言い残し外へ出た。戸外の空気を肺いっぱいに吸い込むと背負っていた重荷を放り出したような解放感に私の足取りは軽くなった。
通りに出てタクシーを捕まえる。電車を乗り継いで帰れなくもないがそんなまどろっこしいことをしている気分にはなれなかった。少しでも早くこの辺りから姿を消し部屋に帰って浴びるように飲みたい。私は車道に身を投げ出すようにして止めたタクシーに乗り込んで行き先を告げた。
「松山さーん」
遠くから青木の声が聞こえる。追いかけてきたのが彼だったことにホッとした。課長や係長が追いかけてきたのでは無視しづらいところだった。
バタンとドアが閉まりタクシーが夜の道に滑り出すと私は大きく息をついて深くシートに座りなおした。手鏡を取り出して背後を確認すると膝に手を当て肩で息をしている青木の姿がそこにあった。後ろから来た車にクラクションを鳴らされて慌てて道路脇に寄ったところまで見て私は手鏡を鞄に仕舞い窓の外を見やった。彼は追いかけてきて私に何を言いたかったのだろうか。ふとそんな考えが過ったがすぐにどうでも良くなった。
タクシーはまだ更け切らない夜の街を快調に走り抜けていく。等間隔に並んだ街灯の現れてはすぐに背後へ消えていくスピード感が心地よかった。




