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12(十七)

 テツオのメモに「T字カミソリ、週刊誌2冊」とあるのを見つけて私はそれ以上先を見るのをやめた。

 おそらくテツオは私の前から消えた日までの記録を綴っていたのだろう。読み進めていけばどうして彼が忽然と私の部屋を出て行ったのか窺い知ることができるかもしれない。本当のところ彼が私のことをどう思っていたのかも。だとすればここではこれ以上読み進めたくない。叶うなら富永の前ではなく一人で静かにテツオとの思い出に浸りながらメモを開いていきたい。少なくともテツオのことで感傷的になる自分の素の顔を他人に見られるのは避けたかった。

 私は紙片を封筒に戻しそっとテーブルの上に置いた。

「見ないの?」

 不思議そうに首を傾げる富永に私は曖昧に笑って頷いた。同じ女ならば私の気持ちを察してはもらえないだろうか。

「心の準備ができていないって言うか……。こういうものを遺してるなんて思ってもみませんでしたから」

「そう……。室谷のことまだ好きなのね」

 言われて不意に顔が火照ってしまう。

「そんなこと……」

 否定のニュアンスで苦笑して見せたが、「ない」と最後まで言い切れなかった。

 好きなのかどうなのかは分からない。しかし、私の心の一角に未だにテツオの姿を垣間見るのは間違いない。富永の指摘に頬が赤らんだことで私は封印の向こうにある自分の気持ちの存在に気付いてしまった。ひとたび紐解かれ白日の下にさらされてしまったら、その情念を私はこれからどんな風に整理し直すことになるのか。

 顔を上げると井戸の底のコインを探るような富永の眼差しとぶつかる。その射るような視線は私の心の微妙な照り陰りを逃すことはないだろう。人の感情の機微を言葉に変えて文章と成すのが彼女の仕事だ。愛した男の手跡を手にして心を揺さぶられる女が目の前にいる。その心情を余すことなく掌中に入れ今後の作家としての活動の糧にするチャンスを得たとも言える。きっと彼女は私が今ここでメモを開き最後まで目を通すことで長い間押し隠してきた感情に血の色を取り戻させたいのだ。そして私が彼のことについてより饒舌により明確により細かく語ることを望んでいる。そう思うのはうがち過ぎだろうか。

「ありがとうございました」

 そう言って突然富永が私に頭を下げた。

「え?」

「そのメモを見ると室谷は随分あなたにお世話になったことが分かるわ。言うまでもないことだけど室谷はあなたに感謝してたんだと思う。そして私も室谷にこんなに尽くしてくれたあなたにお礼を言いたい気持ちなの」

 私は何も言えなかった。私ができたのは小さく首を横に振ることだけだった。彼女の言葉は明らかに私の気持ちを逆なでた。今口を開けばきっと氷よりも冷たい感情しか零れてこない。

 私は礼を言われたくてテツオと同居していたわけではない。テツオとの生活が好きだったからそうしたまでだ。全ては私とテツオの問題で、元妻だか何だか知らないが感謝だの同情だのという自分本位な感情で割り込んでこないでほしい。

 それに……。富永は私を下位に見ている。かつては夫婦として公に認められた人間としてテツオの代弁者の役を勝手に受け持ち感謝の気持ちを述べることで一時の同棲相手に過ぎない私との絶対的な立場の違いを感じさせようとしたのではないか。彼女自身がそれを意識しているかどうかは分からないが見下ろすような視線を私が感じた以上、彼女も少なからず優越感を覚えているのは間違いない。

「私が知ってる室谷って日記を書くようなマメな人間じゃなかった。その彼が毎日を事細かに書き残したのはどういう理由があったのかなって。あなたはどう思う?」

 私にもさっぱりわからない。私が知らなかったということはテツオにはこのメモのことを私から隠す意図があったのだろう。なぜわざわざこっそりとこんなものを。

「室谷はいつかあなたにお返しをしなくてはいけないと思ってたんじゃないかって私は考えるの。だからしっかりとメモを取っておいていつか返そうと……」

 富永の目が脇に置いてある鞄に向けられたのを私は見逃さなかった。

「いりません。そんなもの」

 私はきっぱりと言った。きっと彼女の鞄の中にはお金が入っているのだろう。私に見返りを求める気持ちなんて一切ない。彼女が銀行の封筒でも出そうものなら私は即座に席を立つつもりだった。

 富永の推理はおそらく正しいのだろう。私から与えられた生活を享受するだけではテツオの中に心苦しい気持ちがあったとしても不思議ではない。彼が私から受け取ったものを覚えておきいつの日か私に報いたいがために綴っていたメモ。遺品として富永の手に渡ることをテツオが計算していたとすれば彼女に代わりに役目を果たしてほしいとテツオが託したということになる。

 しかしそうだとしても、私には富永から金銭を受け取る言われはない。やはり私にとって彼女は第三者でしかない。もうこれ以上私とテツオの日々に関係者然として入り込んでくるのは遠慮してほしい。

 再び私と富永の間に重苦しい空気が広がろうとしている。彼女はそれを鋭敏に察知したのだろう。すぐに明るい口調で話題を変えた。

「私ね、今、新作の小説を書いてるの」

「そうなんですか」

 だからどうした、という気分だった。私は抑揚なく相槌を打った。

「あらすじを聞いてくれる?」

 何で私が。しかも感想を求められたらどう答えたものか。

「私なんかに話しちゃっていいんですか?」

「あなたに聞いてほしいの」

 富永の顔には否とは言わせない気迫が浮かんでいた。私はこの場は気押されるように小さく頷いた。

 余程の自信作なのだろう。それとも彼女の性格なのか。彼女は私が聞く体勢になったのを確認すると悦に入った様子で自分が手掛けている作品の内容を語り出した。

「主人公は刑事。彼は仕事の虫で、離婚をきっかけにさらに犯人を追いかけることに没頭するようになった。でも必死になりすぎて周りが見えてなくて、あるとき些細な失敗を犯すの。もともとスタンドプレーが目立つ人だったからそのちょっとしたミスで散々に指弾されて彼は経理課に異動させられる」

「それって」

 富永の新作のあらすじは先ほど彼女が言っていたテツオを描いているとしか思えない。

「そう。室谷が主人公なのよ」

「そういうことですか」

 私はため息混じりに呟いた。今日、ここに呼ばれた理由が明確になった気がしたのだ。

 富永はテツオの遺品から私の存在を知った。そして私とテツオとの関係に興味を持ったのだろう。つまりそこにドラマ性を感じ、これは面白いネタになると売れっ子作家の勘を働かせたのだ。「弔い」などという言葉は私をおびき寄せるための撒き餌でしかなかったのか。

 私が話す内容が富永によって様々な色彩で飾り付けられ面白おかしく書きたてられる。私は軽い目眩に襲われた。富永の目に私はどのように映っているのか。富永の筆によって私はどんな風に紙の上で踊らされることになるのか。その小説を知り合いに読まれでもしたら……。ああ、気が遠くなりそうだ。

 やはり来るべきではなかった。私は何度目かの後悔の念に顔を俯け唇を噛んだ。しかし、私の気持ちなど全く斟酌する様子もなく先ほどと変わらない夢見るような口調で富永は言葉を続けた。

「彼は経理課に異動しても仕事の虫だった。慣れない仕事を毎日必死にこなしたわ。今までデスクワークなんてしたことのなかった人が、日々パソコンと書類に囲まれて過ごすの。それでも彼は不満一つ言わず黙々と経理の業務を全うした。周りに愚痴をこぼす友達もいなかったのね。そんな彼がルーチンワークの中で偶然帳簿上に一つの奇妙な支出と遭遇するの。数字上は一見辻褄があってるように見えるけど何かがおかしい。彼の天性の勘が彼にそう言っているのよ。彼は仕事の合間にその数字の持つ意味を探り始めた。寝ても覚めても彼の頭の中はその帳簿のどこがおかしいのかということばかりを考えてる。そして彼はとうとう一つのほころびを見つけるの。そのほころびから手繰り寄せたのは警察内部の多額の横領事件。規模は数千万円。何者かが巧妙な手口で警察の予算を一旦正しく支出させると見せて架空の請求により金銭をどこかへプールしている。これは一人でできる犯行じゃない。彼は組織立った警察内部の黒い影を追った。彼は上層部に資料を見せて組織内の粛清を訴えたわ。だけど上層部はのらりくらりと受け答えするばかりで本気で取り合う姿勢を見せなかったし、逆に、一職員が機密に触れることは許されない、と叱責する人も出てきた。当然よね。上層部の彼らが黒幕なんだから」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 多額の横領?組織内の粛清?黒幕?まさに富永硝子の小説の中に出てくるような現実感のない言葉が目の前に次々と現れて私はまた気が遠くなるような感覚に襲われる。これは本当にテツオが追いかけた事件なのだろうか。それとも富永硝子が作り出す完全なるフィクションなのだろうか。

「どうしたの?」

「あの……横領がどうのこうのとか上層部がどうしたこうしたっていうのは……」

「全部事実よ」

「事実……」

 下腹部に一瞬鋭い痛みが走る。私は思わず顔を歪めた。

「どうかした?」

「いえ、何でも」

 痛みはすぐに治まり私は顔をゆっくり横に振った。そして話の続きを求めるように富永に視線を返した。

 小説の中のどこで私が出てくるのかが気になった。警察内部の横領事件に一人で立ち向かうテツオがどうして私の前に現れたのか。富永が言うように、狂犬が借りてきた猫になるまでに何があったのかを私も知りたくなっていた。

「幹部職員に時間稼ぎをされる中で、彼は体調不良で倒れた。そして精密検査で癌が発見されるの。宣告された余命は……」淡々と言葉を紡いできた富永もさすがにリズムを詰まらせた。「もって一年」

「そんな……」

 思わず息が詰まる。

「彼って面倒臭がりで健康診断なんてまともに受けたことがなかったの。私と離婚したことで守るべきものがなくなったから余計に自分の身体のことなんてどうでもよくなっちゃったのかもしれないわ」

 私は彼女の話にすっかり引きずり込まれて、うんうんと首を縦にしていた。

 そういうものかもしれない。私もテツオが出て行ったときは心にぽっかりと大きな穴があいてしまったようで自暴自棄でさらに酒に溺れた。こんなに飲んだら毒だなと頭では理解しつつも逆にいっそ一思いに毒でも呷りたいような心境でもあった。

「癌は彼が気付かないうちに彼の中で増殖を続け発見されたときにはもう医者もお手上げの状態だった。彼に残された時間はあとわずか。死ぬ前に何とかこの横領事件を解決したい。追い詰められた彼は最後の手段に出るの」

 富永はいかにも物騒な事柄のように声を潜めて言った。私は彼女の語り口に吸い込まれるように話の続きを求めた。

「最後の手段?」

「そう。彼にとって運がよかったのか悪かったのか。実は彼の離婚した元妻はそこそこ名前の売れた小説家になっていたのよ」

「なるほど」

 思わず私は唸っていた。

 彼女は小説以外に雑誌や新聞にエッセイを書くこともある。ペンで活躍する彼女なら彼が調べ上げた警察内部の膿を一般市民に暴露する伝手を持っている。組織内の無言の圧力で捜査の進展が妨げられてしまうのなら、マスコミの言葉の力で外側から組織を揺さぶる方が解決が早い。テツオはそう考えたのだろう。しかし、一匹狼が別れた女房に頭を下げて頼みごとをするというのは苦渋の選択だったに違いない。だからこその最後の手段だった。

「彼女にはそのとき付き合っている男性がいるんだけど、その彼氏が出版社に勤めてるの。彼女は彼がいる関係もあって基本的にその出版社から本を売り出してる」そこまで喋って富永は眉根を顰めた。「ねぇ。室谷は私に付き合っている人がいて、その彼がマスコミ関係の人間だって知ってたと思う?」

「そんなこと分かりません」

 即答していた。分かるはずがない。

「人それぞれだと思うけど、概して男ってプライドが高いじゃない。昔付き合ってた女を介してその女の今の彼氏に頼みごとをするのって相当屈辱的だろうなって想像しちゃうのよね。少なくとも私と一緒に暮らしていた頃の室谷にはそういう行動は似合わない。でも私の所へ来たときには室谷にはもう体力も時間もなかった……。あなたの直感で良いの。あなたのテツオさんなら、私に頼むことは私の今の彼にお願いすることと同じだってことを知ってたと思う?」

 テツオなら……。考えてみても結論は一緒だった。同棲していたときでさえ、あの人の考えていることなんて私にはさっぱり理解できていなかった。何を考えているのか分らなかったからこそ私は今でもこんなに彼のことが気になるのかもしれない。

「余計に分かりません」

 私は頑なにかぶりを振り、富永は「そう」と毒気を抜かれたように微笑を浮かべた。その表情を見て私は、適当にでもどちらか答えてあげるべきだったか、とチクリと胸が痛んだ。小説を書くに当たって彼女が一番悩んでいるのはこの場面の設定なのかもしれない。しかし、そう考えるとやはり私なんかが迂闊にどちらかを示すことはできないと思った。

「あの時、彼はどこかさっぱりした笑顔だった。すまんな、って。こんなこと頼める奴はお前しかいないんだって。一番頼んじゃいけない相手なのかもしれないけど、とも言ってたわ」

 はじめ彼女は彼の申し出を断ったらしい。別れた男への腹いせなどではなく、そんなことをしたら彼はますます警察のなかに身の置き場がなくなってしまうからだ。

「彼は彼女に癌だとは教えなかった。ただ、もう俺は警察には残る気はないから大丈夫だって答えた。だから彼女は単に彼がもう警察に嫌気が差しちゃったんだって思ったの。組織の中で生きていくのは向いていない人だって一緒に生活していた彼女が最も理解していたから。結局彼女は彼の依頼を受けたわ。彼の頼みを受けることは彼女にとっても相当の覚悟だった。一人であんなに大きな組織に立ち向かうなんて相当の恐怖よ。でも、彼の表情にはNOと言わせない凄みがあった。自分の死を悟った人って誰しもああいう顔つきになるのかしら。それに、あの刑事一筋に生きてきた彼が引退して他の仕事に就くと言うのならその花道を飾ってやりたい。彼女はそう思ったの」

 心なしか彼女の目が潤んで見えた。頬に少し赤みがさしている。湿り気を含んだ吐息が彼女にとってテツオがまだ特別な存在であることを物語っている。

「富永さんも、まだテツオさんのこと……」

 私の問いに富永は曖昧に首を振りごまかすようにコーヒーカップに手を伸ばした。ぼんやりとカップの中を眺めている富永の脳裏には何が浮かんでいるのだろうか。

「敵もさるものだったわ」

「何かあったんですか?」

「警察は逆に彼を横領の犯人に仕立て上げようとしたの。それを察知した彼は警察の手から逃げ出した。警察は行方をくらました彼の口をふさぐために躍起になって彼を追ったわ。マスコミに室谷を横領犯として発表し彼を指名手配した。元妻の私も徹底的にマークされたから、彼は私にも連絡を取ることができず、そして完全に姿を消してしまった」富永に正面から挑むような眼で見つめられ私は息を飲んだ。「それが二年前の九月なの」

 私の胸に富永の言葉が鋭く突き刺さった。

 とうとう私が登場する。松山という名のパッとしない独身三十路の女が警察から無実の罪で追われる末期癌の男と出会ってしまうのだ。

「驚きました」

 私は知らず知らずのうちにすごいことに関係していた。まさか私が酔っ払いながら助けた男がそんな事情を背負っていたとは。しかも私は明日をも知れぬ彼に恋をして彼の隣に居心地の良い空間を見つけて片時の幸せを味わっていたのだ。胸がドキドキして呼吸が上手にできない。富永の言葉は事実だろうか。本当にこんなことがあるのだろうか。現実とは本人の知らないところでこうもドラマチックに事件が展開していくものなのだろうか。

「あのぅ……」

「ん?」

「テツオさんは、本当に横領を見つけて犯人を捕まえようとしてたんですよね?」

「そうよ」

 富永はまつ毛一本動かすことなく当然だという表情で私を正面から見た。しかし、私の中にはどこか割り切れない部分があった。

「その……警察が言っていることの方が正しいってことはないんですよね?」

 客観的に見て警察が罪を犯し隠蔽しようとしているなんて即座には信じがたい。富永の言っていることは彼女の主観でしかない気がする。言ってしまえば全ては室谷という男性が作り上げた虚構なのかもしれないのだ。

「松山さん」

 私の問いかけに富永は今日一番の真剣な表情を見せた。

「はい」

「私は室谷のことを信じて室谷の名誉のために小説を書くつもり。元夫の身の潔白を題材にした小説なんて今の彼氏はいい気はしないわ。それでも拝み倒して書くことに決めたの。私が知ってる室谷は絶対に犯罪に手を染めるようなことはしない。そういう点で私は室谷を完全に信用してる。松山さんは今日会ったばかりの私は信用できないかもしれない。でもお願いだからあなたのテツオさんを信じてあげて」

 そのとき富永の鞄の中で携帯電話が鳴った。彼女が携帯電話を取り出すと意味ありげな視線を私に送ってきた。

「その彼女の現在の彼からよ。ごめんなさい、少し席を外します」

 そう言って彼女は携帯電話を耳に当てながらトイレの方へ小走りに去っていった。

 私は呆然と彼女の背中を見送りながら彼女が私生活について答えている雑誌の記事を思い出していた。

 同棲しているパートナーはいるけど今は結婚は考えていないの。彼も同じ気持ち。彼も私もバツイチで、だからってこの人ともいつか別れるんだろうなっていう気持ちが前提にあるわけじゃないけど、友人知人の前で永遠の愛を誓いあい手を繋いで役所に婚姻届を出すような瑞々しいエネルギーはもう残ってない。ひっそりと人知れず森の木の穴ぼこに肩身を寄せ合って温め合う番の鳥のような今の関係が気に入ってるの。

 たしか、そんなようなことが書いてあったと思う。人目のつかない穴ぼこで平穏に生活していた彼らにとって、眼下に突然現れた手負いの狼はどんな風に見えたのだろうか。

 戻ってくるなり富永は申し訳なさそうに私に向かって手を合わせた。

「ごめんなさい。急に仕事が入っちゃったの。彼が手掛けてる雑誌に私がエッセイを書いてるんだけど、そのエッセイのページに使う写真の撮影が今日だったみたい。あいつが私に伝え忘れてて。今日を逃すと次号に大きく穴が出ちゃうみたいなの」

「私のことはお構いなく。仕事に行ってください」

「私から呼び出しておいて本当にごめんなさいね。それじゃ、また今度携帯に連絡……。そうだ。今晩って空いてるかしら?」

 今夜の予定は……。夫は出張で帰ってこない。今晩ならどっぷりとテツオの思い出に浸ることができる。

 返事をしない私を不安そうに富永が見つめてくる。

「やっぱり急には無理?」

「いえ、大丈夫です」

「よかった。じゃあ7時に。場所は、そうねぇ、どうしようかしら」

「もし、もしよかったら」

「どこかいいところある?」

「バーなんですけど。静かな、あまりお客さんのいない店です。A駅から東に五分ほど行ったところの雑居ビルの二階にあるんですけど」

「もしかしてアドゥマンじゃないわよね?」

「ご存知なんですか?」

「ご存知も何も」富永は心底驚いたように目を見開いた。「あそこのマスターは大学で私と同じゼミにいたのよ。私、一応だけどフランス文学を専攻してたの。フランス語なんて全然分らないんだけどね。私もよくあのバーに行ったわ。本当にいつも客がいなくて心配だったけどまだやってるのね。懐かしいわ。そう言えばあのマスターってね」

 言いかけて富永は慌てたように立ち上がった。もう行かなきゃ、と言いながら鞄に資料を詰め込み代わりに財布を取り出した。

「本当にごめんなさいね。ここはこっちの経費で落ちるから松山さんは気にしないでゆっくりしていって。それじゃ、また後でね」

「はぁ」

 つむじ風を巻き起こして去っていく彼女を呆気にとられて私は見送った。しかし、彼女はレジで会計を済ませたあと、再び私のところに戻ってきた。

「ねぇ。松山さん、最初は私と会うことを避けてたでしょ?でも私が『彼の弔いになる』って言ったら急に会ってくれるように変わった感じがしたんだけど、『弔い』って言葉に何か……」そう言って彼女は言葉を切った。「ごめんなさい。失礼よね。忘れて」

 富永は少しばつの悪そうな顔をして今度はゆっくり踵を返した。私はその背中を見送りながら「弔い」という言葉を心の中で反芻していた。


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