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9(三)

 テツオの姿を初めて見たのは二年前の秋晴れの朝だった。見ていると吸い込まれそうな感覚になる一点の曇りもない青空で、こんな日は何か良いことがありそうだと素面でも足取りが軽くなるぐらいに清々しい朝だった。私は普段なら一ミリも心を動かされることのない、元気一杯に飼主を引っ張って歩いていく柴犬や楽しげに笑いあいながら自転車で私を追い抜いていく高校生たちを微笑ましい気分で見やりながら職場への道を歩き出した。

 公園のベンチにポツンと四十がらみのサラリーマンが一人座っていた。保険か何かの営業マンだろうか。白いワイシャツが良く似合っていて、ズボンの折り目がパリッと美しい。得意先周りの前のリラックスタイムというところだろう。

 私も今日はあんな風にベンチに座ってぼーっとしていたいな。日差しは柔らかく丁度暑くも寒くもない。心地よい風が私の横顔を滑らかに撫で、そのサラリーマンの髪を微かに揺らしていく。こんな陽気なのに古びたコンクリートの建物の中で黴臭い空気を吸いながらパソコン相手にあくせくと仕事をするなんて何か間違っているような気がする。今日は休暇を取ってあのベンチで彼と一緒に昼間からビールを飲めたらどんなに気持ちが良いだろう。できもしないことを想像して私は小さく首を振り後ろ髪を引かれる思いで仕事に向かった。

 おかしいと思ったのはその日の帰り道だった。公園に差し掛かると朝のサラリーマンが朝と同じ姿勢でベンチに座っているのだ。変わったのは青みがかった陽光が今は茜色の西日になっただけで彼は十時間ほど前と全く同じ様子で公園の中央をぼんやりと眺めている。

 一日中あのベンチに座っていたのだろうか。私は不自然ではない程度に彼の様子に目を凝らし早朝から夕暮れまで公園のベンチで時間を潰す中年サラリーマンの身の上に思いを馳せた。

 もしかしたら突然会社からリストラされて、それを家族に打ち明けられずいつもどおり出勤するふりで家を出てみたものの何もすることを思いつかずに通りすがったこの公園のベンチで一日を過ごしたのかもしれない。想像力に乏しい私の発想はその程度のもので、実際のところはきっとそんな単純で陳腐なストーリーではないのだろうが、少なくとも彼はこの公園に何か用があって座っているというようには見えなかった。自分という存在にほとほと嫌気がさしている私が言うのも何だが彼の顔には覇気というものが全く感じられない。彼は移りゆく空の様子を仰ぎ見るでもなく地面に群がるアリの行進を見下ろすでもなく、ただ魂の抜けたような顔でぼんやりと公園の真ん中あたりを見つめている。きっと彼は公園の真ん中など見てはいない。心はどこか違う世界に行ってしまっている。実は彼はよく出来た彫像で誰かが私のような気の小さい人間をからかうために置いていったのだと言われた方が納得できるほど彼という存在から動物らしい生命力を感じられなかった。

 きっと自殺する人はみんなこういう顔をしているのだろうな、と思い当たった瞬間私は背中に悪寒を感じて慌てて目を伏せた。見てはいけないこの世の陰の部分に触れてしまったような気がして私はマンションに小走りで向かった。

 次の日も晴天は続いた。前日と比べると大分温度が高く風もなくて日中は汗ばむような天候になりそうだった。私は降り注ぐ日差しから顔をそむけるようにしてマンションを出た。

 彼は相変わらずそこに居た。やはり昨日と同様にベンチに座って公園の中央に目をやっていた。私は彼の姿を確認して気味の悪さの中に少しだけ安心感を覚えていた。それは今朝になったらベンチのそばにぶっ倒れるなり、脇に立ち並んでいる桜の木に首を括ってぶら下がっているなりして彼が死んでいるのを私が見つけてしまうことを怖れていたからだ。昨日の夕方に見た彼はそれぐらい生気が失せているように私の目には映っていたのだ。

 とにかく彼は生きていた。それだけを確認すると彼の方を、怖ろしい現世の暗部を見ないように私は極度の猫背になって足元を睨みつけながら足早に職場へ向かった。

 いるなよ、いるなよ、と念じながら帰り道に公園に差し掛かると、何と、と言うべきなのか、やっぱり、と言うべきなのか彼はまだそこに座っていた。この二日間彼は何か口にしているのだろうか。このままでは本当に死んでしまう。心持ちやつれたような横顔に私は思わず駆け寄って話しかけたくなった。誰かに話しかけたくなるなんて生まれて初めての感覚だった。

 でも、どうやって言葉を投げかければ良いのか。そして何を語れば良いのか。

 無理だ。私は彼に話しかける術を知らない。それに……。それに彼も私なんかに話しかけて欲しいとは思っていないだろう。無力な私が彼にしてあげられることなんて何もない。結局私は猫背になって彼の背後を通り過ぎることしかできなかった。

 さらに次の日は朝から雨だった。夜明けごろから振り出した雨は大粒だったらしく地面を叩くその音に常日頃から眠りの浅い私は目が覚めてしまい、目覚ましがなるまで何度となく寝返りを打った。寝不足でぼやけた目で適当に化粧を済ませ、ぼやけた頭で部屋を出た。傘を差してマンションの外へ足を踏み出す。途端に傘を大きく揺さぶるほど激しい雨が降り注いできて私は柄を抱え込むようにして両手で支えた。地面を打つ雨の飛沫で足元がすぐに濡れそぼつ。代えのソックスを持っていない。取りに帰ろうか。いや、それも面倒だ。私はため息をついて歩き出した。風邪をひいたらひいたときだ。病気になれば大手を振って休暇を取れる。私には平日の昼間に惰眠をともに貪る彼氏もいなければ仕事に優先してでも没頭したい趣味があるわけでもなく有給休暇が売りたいほど残っているのだ。半ば自棄になりながらいつもより大股で歩を進める。何気なく傘の外の様子に目をやる。誰もが同じように身を屈めながら傘に隠れるようにして早足で歩いている。公園には……。私は驚いて声をあげそうになった。あのサラリーマンがベンチに座っていた。もちろん傘など差していない。全身濡れ鼠になって、それでもやはり公園の中央をぼんやりと眺めていた。

 彼には何が見えているのだろう。土砂降りの雨の中で彼が待っているものは何だろう。そう考えたときに私には一つの考えが浮かんだ。

 彼は自分が朽ちることを待っているのかもしれない。公園の桜の木が葉を落とし、その葉は微生物によって分解されゆっくりと時間をかけて土に還っていく。それと同じ自然界の摂理に自分の身を委ねようとしているのではないだろうか。死ぬという能動的な動作ではなく、朽ちるという受動的な作用。私にそう思わせるほど彼はこの公園に静かにひっそりと同化し、落ち葉のように無防備に全身を雨に叩かれ、流れ過ぎていく時間に微量だが確実に命を溶かし込んでいる。

 きっと彼も自分というものを扱いあぐねている。自分の力ではどうしようもない状態に陥ってしまった自分に囚われ自分から逃げ出せず、最終手段としてこのまま自分を害するつもりなのだろう。

 それは非常に潔い姿に見えた。尊敬に値する美しさだった。

 私が存在するこの世界はいくつものルールで成り立っている。

 過ぎた時間はさかのぼれない。一度死んだ生物は生き返らない。一度生を享けた人間は他者にはなれない。

 誰が決めたのかは知らないが真理と呼ばれるこれらのどうにも動かしようのない事実に気づくたびに自分のことが嫌で嫌でたまらない私は深く深く失望してきた。それでもいつまで経っても絶望までできない私は自分という存在から何とかして脱却できないかといつまで経っても心のどこかで考えることをやめられないでいる。それは結局神の救いとか奇跡というような万に一つ、億に一つ、兆に一つも起こりえない超常現象の発現が自分の身に降りかかることを期待し、そして失望することの繰り返しであって、その期待とそれに対する失望がもたらす苦しみの連なりが人生というものなのだと悟ったような顔で私は自分と付き合い今日も自分の口を糊してやるために出勤している。

 こんな失望しかない現世にしがみついて自分であり続けることを放棄できないでいる無様で醜い私。私は彼の声が聞いてみたかった。彼はきっと自分の人生というものへの執着を捨て切った透明で清々しい声をしているに違いない。

 私がこの傘を彼に差し出せば彼は何と言うだろうか。ありがとう、と微笑を返してくれるだろうか。それとも余計な真似はするなと怒り出すだろうか。いや、きっと彼は何も言わないだろう。彼はあのベンチで自分に降りかかるもの全てを甘んじて受け入れ、そのまま少しずつ風化されていくことを願っているように見えた。

 私は傘を持つ手にさらに力を込めた。とにかく私にできることはない。私が彼に話しかけることは静かに眠っている猫に調子はどうかと肩を叩いて無理やり揺り起こすようなものなのだ。

 その日は帰り道を変えることにした。きっと公園にいるであろう彼の後ろを通るのが何となく億劫で私は遠回りをしてバーに寄った。金曜日だから翌日のことを考えずに深酒ができる。私は髭のマスターが作るカクテルをうっとりと眺め次々にグラスを空にした。

 降り続いている雨が原因なのか、週末だというのにやはりバーは空いていた。酔った目で薄暗い店内をぐるりと見渡すといつから居たのか隅のテーブルにいかにも訳ありそうな親子ほどの年の差カップルを見つける。過ぎ去る時間を惜しむように熱っぽい視線を絡ませあっている彼らの様子がろうそくの灯りに浮かび上がっていて私は慌てて視線を戻した。他に客はいない。マスターは百戦錬磨の落ち着きでいつもどおり静かにグラスを磨いているが、ザ・不倫とも言うべき二人と同じ空間に居るのかと思うと私はお尻がむずむずしてくる。見てはいけないような気がして思わずもう一度盗み見てしまう。若い女の手が男の手をテーブルの上で捉えている。男がキャンドルグラスに手を伸ばし銜えた煙草に慣れた手つきで火を点す。彼が吐き出した煙が危険な香りとなって小さな店内に漂った。私も道ならぬ身を焦がすような恋というものに憧れがないわけではない。酔いなのか照れなのか顔が逆上せてくるようだった。

 私は鞄から煙草を取り出しながらマスターに話しかけていた。

「マスターはどんな恋をしてみたいですか?」

 どうしてこんなことを聞いてしまったのだろうか。酔いとは本当に恐ろしい。恋愛経験なんてまるでないくせに恋なんて口走っている自分が恥かしかった。しかし俯いてしまったら二度と顔を上げられなくなりそうで私は根性で飼主に餌を求める犬のように幾多の恋愛をこなし酸いも甘いも知り尽くしたようなマスターの顔をひたすら凝視し続けた。

「恋、ですか」

 マスターは相変わらずの低く渋い声で呟いた。軽く眉間に皺を寄せ物思いに耽るような表情になったがグラスを磨く手は変わりなく動き続けた。

 目が乾き、息が苦しくなる。永遠かと思うような沈黙が続くほどに私はどんどん後悔の淵に沈んでいく。それでも何とか私はマスターの顔を正面に見ていた。

「できれば二度としたくないですね」

 マスターは一度も私に視線をくれることなく、小さいがはっきりとした声でそう答えた。答えた後も眉間の皺は消えなかった。

 私はようやく永遠の沈黙からは解放されたが、触れてはいけないものに触れてしまった後味の悪さが心に苦かった。どんな恋を、と訊ねれば誰でもはにかみつつも華やいだ表情で明るく答えてくれると安直に考えていた。マスターの何かを踏みにじった感触が足の裏に痛い。

 私はこれ以上バーの中に居場所を見つけられず取り出した煙草をそのまま鞄に戻してそそくさと勘定を済ませ逃げるように店を出た。

 いつの間にか雨は止んでいて、私は傘の先で雨に濡れたアスファルトをコンコンと突きながら歩き出した。頭の中では初恋のことを思い出していた。

 私が初めて人を好きになったのは幼稚園のときだった。同じクラスのたっくんに恋をしたのだ。私は幼稚園児の頃から人見知りだった。今ほどではないが他の子と比べてやはり友達も少なかったと思う。たっくんはいたずらっ子だった。先生の言うことに逆らうことでみんなから笑いを取る目立ちたがり屋だった。ある日私はたっくんにスカートを捲られた。たっくんのスカート捲りは有名で同じ幼稚園に通う女の子は大抵一度は被害にあっていて私もその洗礼を受けたに過ぎないのだが、私は何故か人前でパンツを露わにされたことでたっくんを好きになってしまった。私はその日からたっくんのことを常に目で追うようになってしまっていた。今思えば人前で羞恥心を煽られた心臓の高鳴りを恋の始まりと勘違いしていたのかもしれない。スカートを捲られないようにたっくんを見張っていただけなのかもしれない。しかし、私がたっくんを常に意識していたのは間違いない。しかも好意を持って。正直に言えば多分もっとスカートを捲って欲しかったのだ。私のことをもっとかまってほしかった。でもそれからすぐにたっくんはご両親の仕事の都合でどこか遠くへ引っ越してしまった。

 道の向こうから秋の虫の音に混ざってうめき声のようなものが聞こえたのはその時だった。方角はあの公園を指している。私は嫌な予感に胸を揺すられて公園に向かって走り出した。

 薄暗い公園で何かが蠢いている。何かは人だった。三人いる。いや、その三人の足元にうずくまるようにしてもう一人。四人のシルエットはもみ合うように絡まりあっているが構図は明らかに三対一だった。そのうずくまっている一人があのベンチと同化していたサラリーマンであることは直感的に理解できた。私は咄嗟に鞄から携帯電話を抜いていた。

「もしもし、警察ですか?」

 私は電話にと言うより公園に向かって声を張り上げた。自分でも驚くほど大きな声だ。

 リンチをしていた三人が一斉に私を振り向く。一人がこちらに向かおうとするのを残りの二人が止めるような動きをしている。

「傷害事件です。公園で三人の男が一人によってたかって殴る蹴るの暴行を加えています。場所はA駅から北東に三百メートルほど行ったところにある公園で、あ、男たちが逃げ出しました。西の方に走っていきます」

 暴漢たちは公園を突っ切って私がいる方とは反対の方へ去って行った。

 我ながらよくも咄嗟にあんな芝居が打てたものだ。今までの人生で一度も警察に電話を掛けたことがないというのに。私は胸を撫で下ろすとどこにもつながっていない携帯電話を鞄に仕舞いベンチの横に這いつくばっている男のそばに駆け寄った。

「大丈夫ですか」

 私が抱きかかえるようにして起こそうとすると男は唸りながら私の膝にすがり付いてきた。

 ウッ、ウワァ、ウゥ。

 私はタックルされたような格好になってバランスを崩し、ぬかるんでいる公園の地面に尻餅をついた。すぐにお尻が冷たく濡れてくる。男はそんなことにはお構い無しに私の膝の裏に隠れるように潜り込んでくる。

 その仕草に私は驚くよりも安心していた。きっと彼は暴漢が逃げたことに気付かず何でも良いから身を隠そうとしているのだ。それは彼が生きることをまだ諦めきってはいない証拠だ。彼の動物的本能が生きることへの最後の執着を見せているのだ。

「大丈夫よ。もう大丈夫」

 私は男の前に膝をついて座りなおし彼の頭を胸に抱き何度も、大丈夫大丈夫、と囁きながらその小刻みに震える背中をさすり続けた。男は饐えたにおいを放っている。そのにおいも生きている事の証だった。

 胸の辺りから男の声がした。警察は、警察はどうした、と掠れた声で私に訊ねている。

「あれはお芝居よ。警察には掛けてないわ。今からでも掛けた方がいい?」

 私の問いに男は懸命に首を横に振ると大きく息を漏らして私の胸の中にもたれてきた。

 私は彼をこれ以上この公園に放っておくことはできなかった。このままにしておけば初めて生への執着を見せた彼も遠からず死んでしまうだろうし、先ほどのように暴漢に再び襲われないとも限らない。私は彼に肩を貸して自分の部屋に招き入れた。男の伸びた髭が首筋に痛かった。

 部屋の灯りの下で改めて男の様子を観察すると眼窩の落ち窪んだ青ざめた顔には擦り傷と痣ができていて着ているスーツはボロ雑巾と化していた。私は男にシャワーを浴びるように勧めた。男は無言で私の言葉に従い身体を引き摺るようにして浴室に入っていった。やがて水の流れる音がしてきたのを確認して私は財布を手に部屋を飛び出した。

 一目散にローソンに駆け込む。傷の手当てに必要そうなものと男物のTシャツ、トランクスを無造作に籠に放り込んでレジのカウンターに載せる。余程私が怖い顔をしていたのか、いつものチャラチャラした店員が少し腰を引き加減で私に金額を告げる。私は代金を支払うと来た道を急いで駆け戻った。

 部屋に戻ると浴室からまだ水が流れる音が聞こえていた。ほっと息をつくと胃の中のアルコールが逆流してきそうになりぐっと堪える。酔った身体に全力疾走はきつかった。頭がぐらぐら揺れるような感覚を目を閉じてやり過ごし、そっと脱衣場の扉を開け買ってきたTシャツとトランクスを脱衣籠に入れると、再び静かに扉を閉めた。

 私は冷蔵庫からビールを取り出すとソファに腰掛けた。尾てい骨のあたりに鈍痛がある。公園で尻餅をついたときに打ったのだろう。瞼を閉じると先ほどの暗い公園での情景が脳裏に浮かんできた。男に殴りかかる三人組。男のうめき声。走り去る靴音。肩に寄りかかる男の重み。酔っていたとは言えこれまで徹底的に事なかれ主義で生きてきた私によくあんなことができたものだ。やはりこの三日間ベンチに座り続けていた彼の存在が相当気にかかっていたということだろうか。

 私はプルタブを引きビールを咽喉の奥に流し込んだ。飲んでみて初めて咽喉がカラカラに渇いていたことを知る。飲み干した頃に丁度男が浴室から出てきた。私が買ってきたTシャツを着てくれている。腰にバスタオルを巻いているが、その下にはローソンのトランクスを履いているだろう。三日間飲まず食わずだったと思うのだが意外にも男の身体はがっしりとしていた。濡れた髪の向こうから捨て猫のような臆病そうな目がこちらの様子を窺っている。

 ビールの缶を見てどう思っただろうか。名も知らぬ男を部屋に上がりこませ酒を呷る女。しかし、酒の力でも借りなければ私はあなたのことを介抱することなんてできない。

「ここに座って」

 私が立ち上がりソファに招くと男は無言のまま私に従った。

 私は男の前に屈み消毒液で傷口を拭った。額、両目の縁、口の端、あご、肘、掌、手の甲、脇腹、太腿、膝、くるぶし。一応の手当てが完了した頃には男の身体はガーゼと絆創膏で覆われていた。

「何か食べる?」

 返事をしないので私は湯を沸かしインスタントスープに注いだ。即席のコーンポタージュを差し出すと男はやはり無言で受け取り、ゆっくりとカップに口をつけた。熱さに少し顔を顰めながらスープを飲んでいく。あっという間に男はスープをきれいに飲み干すと部屋に上がって初めて言葉を発した。

「少し眠らせてもらってもいいかな」

 私が頷くと男はそのままソファに丸まった。私が毛布を持ってくると男はすでに寝息を立てていた。無防備な寝顔の男の身体を包むように毛布を掛けてやると不意に胸の辺りに温かいものが広がった。その温度の正体は良く分からなかったが私はどこか満ち足りたような気持ちになっていた。

 酔いはすっかり醒めてしまっていた。私はキッチンで日本酒を銚子に注ぎ燗にしてリビングに戻った。ダイニングテーブルの椅子に腰掛け男の穏やかな寝顔を見ながらお猪口を傾ける。胸の温かさはさらに心地よくなり全身がとろけていくようだった。ガーゼと絆創膏だらけのその顔は不思議とずっと見続けていても飽きなかった。私は一風変わった自分の部屋の景色を肴に時間を忘れて飲み続けた。

 翌朝、私はダイニングテーブルに突っ伏した格好で目が覚めた。私の顔前に私と同じように銚子が横たわっていた。気持ち良さそうに眠っている男を見ながら酒を飲んでいたのがいつの間にやら自分も寝てしまったらしい。慌てて時計を見る。時刻は既に九時を回っていた。遅刻だと慌てて身体を起こした瞬間、今日は土曜日だと思い至った。いきなり立ち上がったからか頭が割れそうに痛み少し胸にもやもやとした悪心がある。咽喉がカラカラに渇いている。これがいわゆる二日酔いというやつなのだろう。

 以前はどれだけ飲んでも翌日にこんなに激しい頭痛や吐き気で悩まされるようなことはなかったのだが、昨年三十路に突入した頃からこういう症状が現れるようになった。要は少しずつ無理がきかなくなってきているということなのだろう。私は壁に手を突きながらよたよたと台所に向かった。顔にかかる髪から汗と埃の臭いがする。シャワーも浴びずに寝てしまったのかと自己嫌悪に陥りながら蛇口を捻りコップに水を汲む。立て続けに二杯空にすると漸く咽喉の渇きが収まったが、逆に胃の辺りに広がるむかつきが強くなってきた。私はもう一度コップに水を汲むとリビングに戻った。通勤に使っている鞄をダイニングテーブルにひっくり返した。化粧ポーチ、手鏡、携帯電話、定期入れ、デオドラントスプレー、煙草、アドゥマンのマッチ。掻き分けて見つけたピルケースから鎮痛薬を二錠取り出して口に含み水で流し込んだ。

 口の端から伝う水を手の甲で拭いソファに丸まっている男を見下ろす。男は昨晩のままの姿勢で毛布に包まっている。毛布で顔は良く見えないが、まだ眠りの中にいるらしい。

 さて、どうしたものか。私の部屋に他人がいる。それだけで十分異常事態であるのにその他人が異性でしかも私は名前すら知らないときている。

 この三日間の観察で得たイメージでは彼が私に危害を加えるような感じはしない。そういう意味では彼から恐怖感は覚えないが、その反対にあまりの覇気のなさにこの部屋で面倒なこと(たとえば自殺)を起こさないかという不安は残る。だからと言って今すぐに叩き起こして部屋から追い出すというのは違っている気がする。そもそも酔っ払っていたとは言え部屋に担ぎ込んでしまった以上その責任において私がしてあげられることはしてやらないといけないという思いはあった。取りあえず、男が起きるまで待ってみよう。起きたら彼も何か喋るだろう。何か喋ればそこから私のできることが見えてくるかもしれない。痛む頭で考えることができたのはそこまでだった。

 私は男の顔を覗き込んでみた。三日間朽ちるのを待っているかのように硬いベンチに座り中空を眺めていた男は今どんな顔で他人の家のソファの上で眠っているのだろうか。

 安らかな顔を想像していた私は完全に裏切られることになった。毛布の端から見える男の顔は明らかに苦悶に満ちていた。顔は青ざめ、息遣いも荒い。良く見ると全身が小刻みに震えているようだった。もしやと思い、恐る恐る額に手を伸ばす。額に触れた瞬間、私は驚いて声をあげそうになった。男の身体が恐ろしく熱い。人間の身体はこんなに熱くなれるものなのかと思うほどだった。

「救急車、救急車」

 私は子供のように慌てながら携帯電話を探した。携帯はどこ?どこにやった?

 ダイニングテーブルに携帯電話を見つけ焦る気持ちを抑えてフリップを開く。

 救急車って何番だっけ?一一〇?一一七?一一九だ。

 救急車を呼ぶのも生まれて初めての経験だった。私は震える指でボタンを押して携帯電話を耳に当てた。

「やめてくれ」

 振り返ると男が私に向かって手を伸ばしていた。訴えるような目で首を横に振っていた。

 どうしました?火事ですか?救急ですか?

 電話の向こうから若い男性の落ち着いた声が聞こえてくる。

「あ、いえ。すみません。間違えました。何でもありません」

 私は逃げるように電話を切って放り投げるようにダイニングテーブルに置いた。一一九に間違い電話を掛ける人もそうそういないだろうが、男は私の行動に満足そうに小さく頷くと再び毛布に丸まって震え出した。

 私はロフトの上に駆け上がった。病院に連れていくことができないのなら私がここで看病するしかない。物置と化しているこのスペースから布団を一組リビングに向かって放り投げる。母が一度泊まりに来たときに使った布団だ。ろくに干していないから黴臭いかもしれないがそんなことは言っていられない。ダイニングテーブルを壁際にずらしソファの前のカーペットの上に布団を延べる。男を転がすようにしてソファから布団の上に落とした。その上から羽毛布団を掛けても男の震えは止まらない。私は再びロフトに上がり湯たんぽを探り出した。今度はキッチンに向かいヤカンを火に掛ける。さらにダイニングテーブルに戻りピルケースから再び鎮痛薬を取り出す。水の入ったコップを持って男の枕傍に腰を下ろした。

「バファリンしかないけど飲まないよりはましよね」

 私は男を抱え起こし錠剤を飲ませると再び横にした。男はまるで胃の中で薬の成分が少しずつ溶け出し自分の身体に吸収されていく様子を感じ取ろうとしているかのように険しく眉間に皺を寄せて静かに目を閉じている。

「あなた、名前は?」

「……」

 私の声が聞こえていないはずはない。しかし男は私の問いかけがうるさいとばかりに沈痛な面持ちをさらに深めた。私は少し苛立ちを覚えた。私だって名前も教えてくれない赤の他人を看病するほどお人好しではない。

「私は一応あなたの恩人よ。名前ぐらい教えてくれてもいいんじゃないの?」

 職場ではこんなに強い口調で周囲に接したことはない。自分の部屋の中だからか心にゆとりがある気がする。私が彼の危機を救ってあげているという自負も彼への態度を強くさせているのかもしれない。

「……」

「警察に電話してもいいんだからね」

 公園で彼が警察という言葉にやけに敏感だったことを思い出してかまをかけてみた。どういう理由かは分からないが彼は警察を避けている。警察と関わりあいたい人などいないだろうが彼の場合はその度合いが強すぎるように私には感じられた。

 男は右の眉尻をぴくりと動かしたかと思うと観念したように薄く目を開いた。

「……テツオ」

 足元で横になっている男よりも公園で騒いでいる小学生たちの声の方が余程大きい。

「苗字は?何テツオなの?」

 男は私の質問には答えず黙って目を閉じた。それが男の意思表示のようだった。

 答えたくないのなら答えなくても良い。今は体調を治すことが先決だ。

 やがて湯が沸くと湯たんぽに注ぎ、寝ているテツオの足元に差し込んだ。

 ああぁっ。微かだが温泉につかったような嘆息が聞こえてくる。

 キッチンに戻り冷蔵庫からアイスノンを取り出しタオルに包んで氷枕を作る。男のそばに戻ると既に柔らかい寝息が聞こえてきた。震えはおさまっている。頭を持ち上げられ氷枕を差し込まれてもテツオは眠りから覚めることはなかった。

 私はそこまでやりおおせてどっと全身に疲れを感じテツオの枕元に座り込んで動けなくなった。カーテンの隙間から休日の朝の日差しが入り込んできている。一日は始まったばかりのようだが私の身体は既にくたくたになっていた。ポタポタと何かが私の手の甲に落ちてきた。何故かは分からないが涙が次から次へと溢れてきているのだ。しかしその涙を拭うことさえ億劫なぐらいに疲労感が私の身体を支配していた。


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