4:闇の女神?
胸の左側に、まだぼんやりとした痛みが残ってる。
刺すような鋭さじゃなくて、鈍い疼き。息をするたびに、胸が重く締めつけられる感じ。
まるで火種が心臓の奥にくすぶってるみたい。
でも……俺、目を開けた。
まだ生きてる?
息が荒い。ハアハアと、溺れかけた人間みたいに何度も繰り返す。
胸が激しく上下して、冷や汗がこめかみを伝い、顎を伝って、白い床にポタポタ落ちる。
深呼吸しようとする——鼻からゆっくり吸って、口からゆっくり吐く——けど、肺が重い。
長く死んでた心臓が、急に無理やり動かされたみたいに、不規則にドクドク鳴ってる。
目の前は……ただの白。
部屋は完全に空っぽ。
壁も床も天井も、真っ白。境界線すらない、無限に広がる白。
影も線も何もない。まるで果てしない白い紙の中に閉じ込められたみたい。
ドアも窓も、目印になるものすら一つもない。
俺一人だけが立ってる。
足元の床は冷たい……はずなのに、肌に触れる冷たさじゃない。頭の中で感じる、精神的な冷たさ。
足はもう疲れてないけど、心地いいわけでもない。
全部が……無菌すぎる。完璧すぎて、逆にゾワゾワする。
瞳がキュッと細くなる。
パニックが喉まで這い上がってきて、息が浅くなる。
「ここ……また何だよ……?」
俺、死んだよな?
さっきの小さなナイフが、心臓の左側を正確に刺した。
指の間から温かい血がどくどく溢れて、黒いTシャツを濡らして、背骨まで突き刺さるような痛み。
それからゆっくり、確実に闇が来た。
なのに今、ここにいる。
路地の地面に倒れた体も、血まみれの服もない。
ジャケットもパンツも綺麗なまま。血の匂いも土の匂いも、全部消えてる。
胸に残るのは、かすかな疼きだけ。
突然。
足音が聞こえた。
優雅で、気品があって、ゆっくり。
でもその一歩一歩が、この虚無の空間に響く。
トン……トン……トン……
ハイヒールの細い音が、どこからともなく、でも全部の方向から同時に聞こえてくる。
俺は反射的に振り向く。体がカチッと固まる。
そこに……彼女が立っていた。
背が高くて、俺と同じか少し上くらい。
肌は陶器みたいに白く、毛穴一つ見えない。
姿勢は完璧——優雅で、計算された美しさ。まるで最高の彫刻家が作った生きた彫像。
髪は長いストレート、ラベンダー色に淡い青のグラデーションが混じって、風もないのにゆっくり揺れてる。
目は……深いインディゴブルー。底なしの海みたいで、薄い霧がかかってるから、魅力的だけど……危険。
着てるのは長いドレス。濃い藍色と深い紫と純白が混ざり合った、夜の星雲みたいな複雑な模様。
布地に小さな星が淡く光ってて、まるで生きてるみたい。
袖の先は少し透けてて、完璧な肌が覗く。
近づくと、かすかなラベンダーの香りが漂う。
落ち着くはずの匂いなのに、なぜか背筋がゾクッとする。
まるで、こんな場所に咲くはずのない花の匂い。
彼女は薄く微笑む。
唇は薄いピンクで完璧に曲がってるけど、目は冷たい。
まるで高価な骨董品を値踏みしてるみたい。
「ようこそ、死後の世界へ。秀夫さん」
声は柔らかくて、優しい。
でもその奥に、毒が混じってる。
蜜のように甘いけど、飲みすぎたら死ぬ毒。
俺の名前を、まるで昔からの知り合いみたいに自然に呼ぶ。
俺はまだパニック。
心臓がバクバクして、胸から飛び出しそう。
こんな美人——突然現れて、名前を知ってて、「死後の世界」って……?
「……あんた、誰……?」
声が掠れて、ほとんど聞こえない。
喉がカラカラ。
何時間も叫んでたみたいに乾いてる。
彼女は少し首を傾げて、ラベンダーの髪が波のように揺れる。
「私はエラリア・オブスキュラ。闇の女神です」
……闇の女神?
俺、ビクッとする。
頭が一瞬で信仰に飛ぶ——俺は一神教で、唯一絶対の神を信じてる。
女神? 闇?
こんなの、ありえない。
安っぽい異世界アニメの展開そのまんま——美人女神が出てきて、チートくれて、世界に送るやつ。
でも今、俺がその主人公。
頭がぐるぐる回る:夢か? 出血多量の幻覚か? それとも本当に……?
でも光があるなら、なんで「闇」なんだよ? もっと明るい何かじゃなくて?
数秒、沈黙。
彼女は深いインディゴの目で俺をじっと見つめてる。
まるで魂の底まで見透かされてるみたい。
俺は視線を逸らして、白い床に目を落とす。
裸にされたみたいで、隠れる場所がない。
彼女は優雅に右手を上げる。
掌を俺に向ける。
顔はまだ小さな微笑み——美しいけど、氷みたいに冷たい。
突然、背後から二つの光の球が現れる。
一つは鮮やかな青、もう一つは血のような赤。
ゆっくり回りながら、紫の残光を引いて、まるで小さな惑星が軌道を描くみたい。
青いのが右へ、赤いのが左へ。
俺は凍りつく。体が動かない。
そして……二つが急に動く。
歩くんじゃなくて、磁石に引かれるように。
まっすぐ、俺の胸の中心へ。
触れた瞬間——紫の閃光が全身を包む。
青と赤が混ざって、深い紫になる。
そのまま胸に吸い込まれる——さっきナイフが刺さった場所に。
感覚が変。冷たいのに熱い。
電流が血管を駆け巡るみたいに、体がビリビリ震える。
俺、パニック。
膝がガクガクして、崩れそう。
「何だよこれ!?」
エラリアはまた小さく微笑んで、首を傾げる。
まるで可愛い子供を見るみたいに。
「それが、あなたの力ですよ……」
力?
俺、首をブンブン振る。
頭がクラクラして、白い世界がゆっくり回り始める。
「俺……ただ帰りたいだけだ……」
声が弱い。ほとんど懇願。
もう弱く見えてもいい。
この「女神」の前で。
ただ家に帰りたい。
母さんが台所で材料待ってる家。
父さんが新聞読みながら小さく頷く家。
PCが待ってる、夜通しランク上げてラーメン食う家。
突然……彼女が消えた。
ふっと。
煙が風に流されるみたいに。
星雲のドレスも、ラベンダーの香りも、一瞬で消える。
また一人、白い部屋に取り残される。
そして……
チク。チク。チク。チク。
大きな時計の音が、両耳から同時に響く。
頭の中に直接、ドクドクじゃなくて、チクタク。
まるで巨大な時計が脳みその中に設置されてるみたい。
毎回、頭がズキンと痛む。
ゆっくり、でも確実に。
俺、パニックが再燃。
周りを見回すけど、白い部屋は変わらず空っぽ。
右手で胸を押さえる——傷はないのに、時計の音がどんどん速くなる。
チク。チク。チク。
目が一瞬、瞬きする。
そして、世界が変わった。
俺は戻った。
さっきの村に。
足元は柔らかい緑の草——少し湿ってて、朝露がついてる。
そよ風が頰を撫でて、土と野花の匂いが運ばれてくる。
空はまだ青くて、太陽は暖かいけどきつくない。完璧な朝。
遠くで、人々が普通に動いてる。
川でキラキラ槍で魚突いてる奴、紫に光る変な果物を売ってる市場、螺旋の角がついた牛みたいな獣で田んぼ耕してる奴。
何も変わってない。
俺が死んだことも、刺されたことも、女神に会ったことも。
俺、深く深く息を吸う。
何度も。
胸はまだ詰まるけど、痛くない。
さっきのパニックの余韻で、視界がシャープすぎる。
感覚が全部、強化されたみたい。
俺、すぐにあの狭い路地の方を見る。
……まだいる。
子供は無垢な顔で、目をうるうるさせてる。
二人の若者がまたやってる——襟首掴んで、脅して、嘲笑ってる。
セリフも同じ。「おいガキ、金出せよ!」
声がここまで聞こえて、背筋がゾワッとする。
……ループ?
それとも……時間を巻き戻した?
俺、ゴクリと唾を飲む。
左手が震えてる。
二つのビニール袋——まだ持ってる。
重さも同じ。軽く揺らすとカサカサ鳴る。
母さんの味噌の匂いが、かすかに漂う。
俺、長く息を吐く。
震える息。
苛立ち。怒り。恐怖。全部混ざって、胸に酸っぱいものが上がる。
俺、一つ決めた。
もう、あの路地には近づかない。
罠だって、一回で証明済み。
同じことで二度も死にたくない。
俺、くるっと背を向けて、市場の方へ歩き出す。
足早だけど、慌てず。
口はへの字に曲がって、眉間に皺。
心臓はまだドキドキしてるけど、足を止めたくない。
後ろを振り返らない。
あの声を聞きたくない。
あのバカな間違いを繰り返したくない。
もう死にたくない。
ここが本物の異世界なら……
あの「闇の女神」が言った「力」が、本当に俺にあるなら……
チート……あるのか?
アニメみたいに。
でも今はまず……安全な場所を探す。
食べ物、休む場所、この世界の情報。
そして一番大事なこと——誰一人、簡単に信じない。
あの美しい「闇の女神」も含めて。
俺、薄く、苦い笑みを浮かべて歩き続ける。
市場の喧騒の中に溶け込みながら。
……まあ、ゼロから始めようか。




