3:善意は仇となり、死に至る
ゆっくりと村の中心へ足を進める。
左手にはまだ二つのビニール袋がぶら下がったまま——さっきのポータルから落ちたはずなのに、なぜか中身は無事。
歩くたびにカサカサ、クシャ……小さな音が鳴る。それが、この世界のざわめきの中で妙に浮いてる。
周りの人々が話す言葉——本来なら完全に異国語のはずなのに、なぜか意味が頭にスッと入ってくる。
頭の中はまだぐちゃぐちゃだ。
異世界に来れた興奮、心臓をバクバクさせる恐怖、頭がクラクラする混乱……全部が混ざってる。
でも、この世界は夢みたいにぼやけない。
雨上がりの湿った土の匂い、どこかの家から漂う焼きたてパンの香り、遠くで子供の笑い声——全部が細かすぎる。
夢なら、とっくに醒めてるはずだ。
俺は平静を装う。
視線をキョロキョロ。
村の小さな市場は賑やかだけど、混みすぎてない。
商人たちが大声で呼び込みしてる——真っ赤でツヤツヤのリンゴ、色とりどりのウール布、淡く光るガラス瓶入りの薬。
人々がチラチラこっちを見る。
まあ、そりゃそうだ。
黒ジャケットに青ライン、黒Tシャツ、黒パンツ、トレッキングシューズ、二つのスーパー袋……完全に浮いてる。
まるで長く寝て起きたばかりの変な奴みたい。
市場のど真ん中で、視界の端に狭い路地が入った。
藁葺き屋根の家の脇、薄暗い石畳の隙間。
そこに、小さな子供——十か十一くらいの男の子——が、二人の若者に引きずられてる。
二人ともくたびれた灰色シャツに薄緑のボロベスト。一人は長ズボン、もう一人は短パンで、どちらも擦り切れた革ブーツ。
子供は必死でもがいてる。小さな手が相手の腕をバシバシ叩くけど、力の差は明らか。
顔は真っ青、鼻水垂らして泣きそうだけど、まだ我慢してる。
……どう見ても、ゆすりだ。
俺は知ってる。
今は慎重になるべきだ。
武器なし、スキルなし、何もない。
持ってるのは調味料とインスタント食品と菓子と、電波ゼロのスマホだけ。
この村の名前すら知らない。ルールもわからない。
ゲームみたいにステータス画面が出るならまだしも、今はゼロ。空っぽ。
なのに——
なんで俺にチート能力が来ないんだよ!
でも……こんな小さな子供を見捨てられない。
異世界の主人公みたいに、ヒーローにならなきゃ。
俺はそっと近づいて、近くの石壁の陰に隠れる。
壁は湿ってて苔臭い。
隙間から覗く。
心臓が今度はドクドクじゃなくて、バクバク鳴ってる——興奮じゃなく、恐怖とアドレナリンの混ざったやつ。
背の高い方——髪がボサボサで櫛なんて通してなさそうな奴——が、子供の襟首をぎゅっと掴んでる。
指は汚れてて、爪が伸び放題。
「おいガキ、金出せよ!」
声は荒々しくて、脅し丸出し。
でも、どこか普通の不良っぽいトーンだ。
子供は首をブンブン振る。体がガタガタ震えてる。
目がうるうるしてるけど、まだ諦めてない。小さな声で、でもはっきり。
「いやだ! 出さない!」
今度は背の低い方——体はガッチリしてて、素人筋トレ臭い奴——が顔を近づけてニヤニヤ。
「おいおいおい、ガキ……早く出せよ。後悔するぞ?」
もう、考える間もなく——本当に頭真っ白——俺は影から飛び出した。
「やめろ!」
声が予想以上にデカく響く。
狭い路地に反響して、二人ともビクッと振り向く。
子供もこっちを見る。目が丸くなる。
背の高い方が俺を上から下まで舐めるように見る。
埃まみれの黒ジャケット、黒T、黒パンツ、二つのスーパー袋、変なシューズ……
完全に怪しい外人だ。
「てめえ、誰だよ! 変な奴!」
俺は無理やり自信ありげに笑う——内心パニックなのに。
頭に浮かんだ最初の言葉をそのまま口にする。
「俺の名は……マキウズブラーノ!」
……ゲームのハンドルネーム。
なんでこんな時にそれ出すんだよ……超恥ずかしい。
完全に中二病発動。
ランク高い時だけカッコいい名前が、現実じゃただの痛いやつ。
二人は顔を見合わせて……クスクス笑う。
嘲笑だ。完全にバカにしてる。
「マキ……なんだって? ハハ、こいつ頭おかしいんじゃね?」
背の高い方が一歩踏み込んで、右拳を振り上げる。
動きは速いけど、単純。素人喧嘩の典型。
「てめえみたいな変な奴が!」
反射。
左手が袋を離す——カサッと地面に落ちるけど、中身はこぼれない——
右手で相手の右手首をガッチリ掴む。
パンチの衝撃が掌にズンッと来て痛い。でも離さない。
アドレナリンがどこからか力を出してる。
そして右手が……勝手に動いた。
まっすぐ、こめかみにストレート。
家で毎日やってたシャドーボクシングの成果。
相手は一瞬で崩れ落ちて、頭抱えてうめく。「うっ……」
今度は背の低い方が突っ込んでくる。
右のフック、結構重そう。
俺は左にステップ——狭い部屋で練習したサイドステップ、机にぶつからないように——
腹に拳を叩き込む。
相手はグッと折れて、両手で腹押さえて息が詰まる。
その隙に、思い切り頭に蹴り。
少し強すぎたかも。
ブーツが固く当たって、相手は転がって倒れる。
俺は息を荒げて立ってる。
胸が激しく上下する。
背中に冷や汗が流れる。
「これが……俺の自宅トレの成果だ!」
……言っちゃった。
超ダサい。なんでこんな恥ずかしいセリフが出るんだよ。
頭がまだ正常に働いてない。
すぐ子供の方に振り向いて、しゃがむ。
彼はまだ路地の隅で震えてるけど、目がキラキラ。
まるで物語のヒーローを見るみたいに。
「大丈夫か?」
小さく頷く。声はかすか。
「うん……ありがとう、お兄ちゃん」
突然、子供が飛びついてきて、俺の胸にぎゅっと抱きつく。
温かさが伝わってくる。
胸が……締め付けられる。
痛いんじゃなくて、なんか……嬉しいような、ホッとするような。
俺もそっと抱き返して、背中をポンポン叩く。
髪から草と土の匂いがする。
でも——
突然、胸の真ん中に、灼けるような激痛が走った。
心臓のあたりを、熱い鉄で刺されたみたい。
見下ろす。
小さな折りたたみナイフ——木の柄の粗末なやつ——が、俺の左胸に深く刺さってる。
血がじわじわ染み出して、黒いTシャツを暗く濡らす。
赤と黒のコントラストが、妙に鮮やか。
俺はよろめいて、地面に崩れ落ちる。
体が勝手にのたうち回る。
「痛っ! 痛い!! 痛い!!!」
叫ぶ。
自分の声が遠くに聞こえる。
子供が……笑ってる。
さっきの怯えた顔じゃない。
冷たい、満足げな笑み。
目が鋭くて、獲物を仕留めた獣みたい。
「アホだな。ちょろすぎ」
二人の若者もゆっくり立ち上がる。
大した傷じゃない——全部演技だった。
動きがのんびり。まるで芝居が終わった役者みたい。
……罠か。
まだ胸を押さえてる。
指の間から温かい血がどくどく溢れる。
息が浅い。短い。
「痛い……痛いよ……マジで痛い……」
叫ぶけど、声が弱くなる。
なんで……
俺はただ助けたかっただけなのに。
通りすがりの普通の奴なのに。
なんでこんなことに……
まだ生きたい。
家に帰って、母さんと父さんと夕飯食って——味噌汁の温かさ、白米、卵焼きかも——
ゲームやって朝まで起きて、寝て、明日またあの退屈だけど安全な日常を繰り返したい。
目が霞む。
色が薄れて、音が遠くなる。
さっきまで冒険みたいだった世界が、今はただの悪夢。
リアルすぎる悪夢。
体が重くなる。
意識が薄れていく。
最後の瞬間、俺は思う。
……もしこれが終わりなら、
せめて……一瞬だけでも、ヒーローになれたよな?
たとえ……超アホなヒーローだったとしても。
視界が完全に暗くなる。
痛みだけが、残る。
……そして、闇が全部を飲み込んだ。




