第1章 さくら
いつも同じ渡り廊下を通る。
その渡り廊下は夕方になると、少しだけ静かになる。
ここを歩くと、いつも時間の進みが遅い気がした。
私は、いつもと同じように渡り廊下を通ると、桜が輝いて見える。
ガラス越しに差し込む光が、白い壁に反射して色がついている。
晴れている日の夕方は、少しだけ色が多い。
白かったはずの壁が、淡いオレンジに見えた。
私の前を歩く背中に、見覚えがあった。
会ってからずっと制服の着方が、ほんの少しだけ雑で、でも不思議とだらしなく見えなかった。
それは佐倉先輩だった。
声をかける理由は、特になかった。
同じ部活ではあるけどあまり話さないし。
それなのに、距離が縮まると、心臓の音だけが大きくなる。
渡り廊下の真ん中で、先輩は足を止めた。
窓の外を見ている。
私も、同じように動きを止める。
追い越すこともできたのに、そうしなかった。
声をかけることも……できたのに。
「……今日、暖かいね」
先に言葉を落としたのは、先輩だった。
振り返らないまま。
「そう……ですね」
それだけ返すと、少し間が空いた。
会話と呼ぶには、短すぎる。
「もうすぐ俺、引退だよ」
ボソッと呟くような声だった。
風がサクラを撫でていく。
私は、何て返していいか分からなかった。
引退、という言葉の意味を、ちゃんと考えないふりをしたかったから。
考えたら、何かが変わってしまいそうだったから。
「……そうですね」
また、それだけ。
先輩は、ようやくこちらを見た。
目が合って、すぐ逸らされた。
「じゃあね」
それだけ言って、歩き出す。
引き止める理由は、やっぱりなかった。
渡り廊下の端まで来たところで、先輩の背中が夕焼けに溶ける。
制服の影が、床に長く伸びていく。
私は、その影を踏まないように歩いた。
意味はない。
ただ、そうしたかった。
廊下を抜けると、外の空気がぬるい。
さっきまでの暖かさや光が、嘘みたいだった。
今日も、何も起きなかった。
それなのに、胸の奥に、静かなものが残っている。
名前を呼ばなかったことも、
引き止めなかったこと。
その全部が、心残りだった。
晴れの日の夕方は、やさしい。
それは、先輩も一緒だった。
私は、また明日も明後日も、この場所を通る。
先輩がいなくなっても、
ここだけは、変わらない気がした。




