第三幕
九月六日。
老人の計らいによって、なんとか明日、九月七日に取材できることになったが、ひよりはまたも公園のベンチで頭を抱えていた。
カメラマンがいない──。
ふと、空を見上げる。空には一筋の飛行機雲──。
「あっ!」
ひよりの脳裏に、カメラを構える大家の息子が浮かんだ。ダメかもしれない。でも──。
「お願いします!」
ひよりは驚く大家の息子、大作に頭を下げた。当然、急な話に、大作は目を剥いている。しかし──。
「光栄です。是非」
そう言って大作は微笑んだ。
* * *
九月七日。
ついにその日がやってきた。
大作はカメラを構え、何枚か訓練場の写真を撮ると、「記者って大変なんだな」と笑う。
ひよりは「でも、やりがいがあるの」と答えた。
そう、今まさにそのやりがいを感じている。
「週刊アヲゾラさん」
「はい!」
日本航空の広報に呼ばれ、ひよりは手の中のペンをぐっと握りしめた。
いよいよだ──。
* * *
「空を飛ぶなんて……まるで映画の中みたいですね」
「ええ。でも現実なんですよ」
初代スチュワーデスの山本百合子は、そういうと魅力的な笑顔を浮かべた。スチュワーデスの採用条件には「容姿」も重要な要素なのだと聞いていたが、目の前の百合子も、映画女優のような美しさだった。
「お客様をお迎えして、笑顔で空の旅をご案内する。それが、私たちの仕事です」
「危なくないんですか?」
「危ないこともあるかもしれません。でも……怖いより、誇らしいんです。制服を着て空港に立つと、不思議と胸を張れます」
胸を張れる──。
百合子の言葉に、ひよりの心がきゅんと跳ねた。
彼女は自分の仕事に誇りを持っている。
だからこそ輝いているのだ──!
* * *
翌日。九月九日。締め切り当日。
「出来た……!」
ひよりは朝から編集部でペンを走らせ、そしてようやく出来上がった記事を改めて見直した。
見出しは「空を飛ぶ淑女たち」。見開き二ページの記事だ。
百合子をはじめとするスチュワーデス達の訓練姿を始め、彼女たちのインタビュー、そして、女性読者へのエールを綴った。
そして、記事の結びには、『スチュワーデスは夢を運ぶ。あなたも、自分の空を見上げてみませんか?』と、読者へ語り掛けてみた。
悪くない……と思う。
たった二ページだというのに、自分でも信じられないほど何度も書き直した。
達成感と安堵のため息をつき、壁の時計を見る。
十九時──。
「ウソっ!」
慌ててバッグを引っ掴み、編集部を出る。
記事に添える写真は、大作の知り合いの写真屋に現像を頼んだ。それを取りに行かねばならない。
雨の中、ひよりは路面電車に乗りこみ写真屋へと向かった。
着いたときには、二十時を回っていたが、なんとか写真を受け取ることが出来た。
あとは編集部に戻って記事とともに写真を提出すれば、ひよりの記者デビューがついに果たされる。そう思うと、途端にお腹がすいてきた。
「そういえば、朝から何も食べてなかったわ……」
すぐ目の前に、蕎麦屋の暖簾が見える。出汁の匂いがひよりを誘惑するが──ぐっとこらえ、駅へと向かった。
路面電車は雨で遅れてやって来た。座席にどさりと腰を下ろしたところでホッとしたのか、猛烈な睡魔が襲ってきた。
電車の揺れも心地よい。何度か重い瞬きをしたのち、ひよりの視界は真っ暗になった。
* * *
勢いよく体を引っ張られて座席に体が倒れこみ、ひよりは目を覚ました。
「お客様にお知らせ致します──」
車内に車掌のアナウンスが流れた。雨によりスリップした自動車が、ひより達が乗るこの路面電車の前で止まってしまったようだ。
先ほど、体を引っ張られるような感覚は、急ブレーキによるものだったのだ。
窓の外は、いつの間にか激しい大雨となっている。
ひよりは思わず腕の時計を確認した。
二十一時十五分──。
「お客様に置かれましては、座席にて待機いただき──」
どうやら、車が撤去されればすぐに発車出来そうだということである。
──と、いうのが、一時間前の話だ。
ここから編集部まで、歩いていける距離ではない。しかし、車掌を捕まえて聞いたところ、この雨では、救助が来るのもいつになるのか分からないという。
「そんな……」
電車の外は、視界を阻む大雨だ。だが、これ以上ここでじっとしていることは、もはやひよりには出来なかった。
ビニール袋に包まれた写真をバッグに入れ、ひよりは電車を飛び出した。
道路の雨水は排水が間に合わないらしく、ひよりのくるぶしを超える高さになっている。そんな中、ひよりはひたすら走った。
草に足を取られて転び、そして立ち上がるとまた走る。
顔を濡らすのは、もはや雨か涙かわからない。
「ひよりちゃん!」
激しい雨音の中、大作の声が聞こえたような気がして、ひよりは足を止めた。
通りの向こうから、小さなライトがこちらへ向かってくる。
「ひよりちゃん、乗って!」
「大作くん!」
ひよりの目の前に現れたのは、自転車に乗った、同じくずぶ濡れの大作だった。
「捕まって!」
自転車の荷台にひよりを乗せ、大作は雨水をかき分けるようにして自転車を走らせる。
二人は無言のまま、雨の中を進んだ。
* * *
「行って! 早く!」
「有難う!」
出版社のビルの前で大作と別れ、ひよりは階段を駆け上った。途中パンプスが片方脱げてしまったが、もう片方も脱ぎ捨て走った。
心臓が、破れそうに痛い。
お願い! 間に合って──!
ようやく三階のフロアまでたどり着く。
編集部のドアは目の前だ。
ひよりは勢いよく、ドアを開けた。 デスクに、田口の姿が見える。
「お待たせしました!」
肩で息をするひよりと目が合った田口は、冷ややかに「遅えな、鈴木」と呟き、ゆっくり拍手を送った。
「ありが──」
「お前の負けだ。鈴木」
そう言って田口が指さす時計は──。
零時三分。
締切を、オーバーしていた──。