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第二幕

 八月二十一日。


「おい、どうした、鈴木。取材に行かねえのか」

 蒸し熱い部屋の中、扇子で仰ぎながら、薄ら笑いを浮かべた田口の嫌みが飛ぶ。ひよりはバッグを手にすると、無言で編集部を飛び出した。

 ひよりは早くも壁にぶち当たっていた。

 意気揚々と日本航空に取材を申し込んだところ、あっさりと断られてしまったのだ。

 

 ──申し訳ありませんが、今回はご遠慮させていただきます。

 

 電話口の男性の声は丁寧だったが、その向こうに冷たい壁を感じた。

 記者だと言えば取材できると思っていたが甘かった。

 なんのコネクションも持たない自分に、いきなり取材などさせて貰えないのだ。

「どうしよう……」

 ふと隣を見ると、知った顔がカメラを構えて空を撮っていた。ひよりのアパートの大家の息子で、写真が趣味だと聞いたことがある。ひよりに気付くと、彼は軽く会釈をして去って行った。

 はて、なにを撮っていたのだろう。ひよりは青いベレー帽を押さえて空を見上げると、一筋の飛行機雲が見えた。

 あんな大きな鉄の鳥が空を飛ぶ。そこに、今をときめくスチュワーデスたちが乗る。

 大正から現代にかけて、職業婦人は増えた。ひよりの母のような専業主婦が当たり前の時代ではなくなったのだ。

 だからこそ、主婦のための生活雑誌ではなく、政治・経済、社会など、幅広い分野の情報を扱う総合週刊誌にも、女性にスポットを当てた記事を載せたかった。

 そんな中での、日本初のスチュワーデス誕生は、女性の地位をきっと上げる。

 ひよりは、バッグから新聞記事を出した。あの制服を纏ったスチュワーデスたちは、まるでスクリーンの中の女優のように見える。

 紺の生地に赤いスカーフ、それだけで知性と上品さが漂っている。自分が着ている、くたびれた白いブラウスとヨレた青いチェックのスカートを見下ろすと、思わず笑いが漏れてしまった。

「ううん。私は記者なんだから! 光り輝いている女性の姿を伝えるのが仕事!」

 空を飛ぶ彼女たちのように、ひよりは背筋を伸ばした。

「……服装なんか」

 そう呟きながらも、その日の帰り道は銀座へと足が向いていた。


 *   *   *


 八月二十七日。


 『けふ、日本発のエア・ガール、空を飛ぶ』


 退社後に立ち寄った公園で、そんな見出しが躍る夕刊を握りしめ、ひよりは途方に暮れていた。

 田口にあんな大口をたたき、しかし何も出来ぬままのひよりを置いて、スチュワーデスは今日、空を飛んだ。

 新聞に載ったスチュワーデスたちは、飛行機の前でずらりと一直線に並んでポーズをとっている。その眩しいほどの笑顔が、なんだか自分を笑っているようで、ひよりは泣きたくなった。

「帰ろ……」

 公園のベンチから、力なく立ち上がる。通りの向こうにある精肉店で、揚げたてのコロッケを買って帰ろうと横断歩道へと向かう。

 すると、右手からトヨタのボンネットトラックが走ってくるのが見えた。なんだか車体が振れていて、様子がおかしい。

 その様子に気付いていないのか、和装の、杖を突いた老人が、向こう側から横断歩道を渡ってきた。

 次第にトラックと老人との距離が縮まってくる。


 ──あぶない!


 ひよりは反射的に飛び出した。

 驚く老人を押し倒すようにして道路になだれ込む。その直ぐ脇を、トラックは黒い排気ガスを吐きながら通り過ぎ、車道わきの電柱に勢いよくぶつかった。

「大丈夫? おじいちゃん!」

「あ……あんたこそ大丈夫かい、お嬢ちゃん」

 ひよりは全然大丈夫だと言ったが、老人は薄い羽織をひよりの肩に掛けた。羽織からは、ふわりと樟脳のにおいがした。

「ありがとう。助かったよ」

 老人は、そう言って目を細める。何も出来ない自分にがっかりしていたが、人の命を助けたのだと思うと、ひよりはちょっぴり誇らしくなった。

「せっかくのブラウスが破けてしまった。お礼をせねばならんな」

「そんな! 元々ヨレヨレなんで大丈夫です」

「欲のない娘さんだな」

 老人はそう言って笑い、よっこいしょと立ち上がった。

 救急車も到着し、運転手を運び出している。担架に乗せられた運転手は、「居眠り運転しちまった」と言い残し運ばれていった。

「大丈夫かしら……。最近、居眠り運転の事故が多いですよね」

 救急車を見送りながら、ひよりはぽつりと言った。

「サマータイムのせいだろうな」

 老人はため息交じりにそう言った。

 ひよりも同感だった。サマータイム導入のせいで、時間がずれ、それによって寝不足や体調不良を訴える人が増えている。

「まあ、それも今年で終わるがね」

「一体何だったんでしょうね。そういうことも記事にしたいな」

「お嬢ちゃん、記者なのかね?」

「はい! 『週刊アヲゾラ』の記者です!」

 胸を張るひよりに、老人は「ほう」と声を上げた。

「そいつはすごい。『週刊アヲゾラ』ならよく知っているぞ。……で、何を追っているのかね?」

「追っていたんですけど、飛んで行ってしまって……」

 ひよりはしょんぼりと肩を落とした。事故のドタバタですっかり忘れていた不安と焦燥感が一気に押し寄せる。

 これからどうしたらいいのだろう──。

「ふむ。あんたは命の恩人だ。このジイサンに、話を聞かせてもらえんかな?」

 深いため息をつくひよりの前で、老人は、茶目っ気たっぷりにウインクをしている。

 ひよりは少し迷ったが、誰にも悩みを吐露できずにここまで来てしまい、最早心が悲鳴を上げていた。

「私……」

 それだけ言うと、ぽろりと涙が零れた。

 

  *   *   *


「なるほど」

 直ぐ近くの喫茶店で、老人はカップをソーサーに戻すと腕を組んだ。

 店内には静かにジャズが流れており、珈琲と煙草の匂いがする。深緑のビロード張りの椅子はふかふかで、老人がご馳走してくれたプリンアラモードは、ほっぺだけではなく、目玉が転げ落ちそうなほど美味しい。

 しかし、そんなプリンアラモードよりひよりを驚かせたのは、老人の一言だった。

「このジイサンに任せなさい」

「えっ……?」

「日本航空だろう? そこの社長ならワシのサロンの友人だ。話をつけてあげよう」

 ひよりは、開いた口が塞がらなかった──。

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