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第一幕

 昭和二十六年、八月二十日。

 東京──。


 コツコツとパンプスの音を立て、鈴木ひよりはモデルのように背筋を伸ばして歩いた。

 女性の就業率がまだ少し低かったこの時代に、この冬二十歳の誕生日を迎えるひよりは、憧れの東京で小さな出版社の記者として働いている。

 とはいえ、まだやんわりと男尊女卑が残る昭和初期で、ひよりがさせてもらえる仕事といえば──。


「お茶、お持ち致しました〜」


 ──お茶汲みだった。


 東京はこの日、最高気温二十八度。

 この頃、家庭用エアコンが普及し始め、去年からなんとか、この旭出版の「週刊アヲゾラ」編集部にも導入された。しかし、家庭用の小さなエアコン一台では地上三階にある室内を冷やすことなどできず、室内では五台の扇風機が生ぬるい風をかき回し、男性社員の汗と煙草の煙をまき散らしていた。

「くっさ……」

 レースのハンカチで鼻を押さえ、ぐっと我慢する。白いブラウスの下では汗が流れ落ちた。

 職業婦人、それも「雑誌記者」としての夢を抱き、北陸からひとり、この大都会へやって来た。

 そしてこの弱小出版社に就職したものの、現実はお茶汲みと電話番。入社して一年半が経つが、タイプライターも触らせてもらえない。

 それでも、男性優位の空気の中、何とか仕事を得たいと、ひよりは日々奮闘していた。

 幼いころ、「女のくせに」と、なにかと父や祖父に言われていた母にもやもやしていた。自分も、「女なんだから」と言われることに反発していた。悔しかったのだ。

 ひよりは机の引き出しから新聞の切り抜きを取り出した。今年、日本初のスチュワーデスが誕生する。それを報じた記事だ。このスチュワーデス誕生に、自分を含めた全女性の地位向上の夢を乗せ、週刊アヲゾラの特集のひとつとして上げたいと思っていた。

 しかし、今、編集部はいつもにましてひよりの話など聞いてくれる雰囲気ではない。

 四年前から導入されたサマータイム制度のお陰で、この時期になると、皆、睡眠不足をはじめとする体調不良で苛ついている。

 その上、昨日の八月十九日に、名古屋の中日スタジアム(現・ナゴヤ球場)で行われた、名古屋ドラゴンズ対読売ジャイアンツ戦の試合中に火災が発生し、球場がほぼ全焼。死者三名、負傷者三百名以上を出す大惨事となったことで、週刊アヲゾラも、この取材だなんだで猫の手も借りたい状態なのだ。

 しかし、日本初のスチュワーデス誕生は八月二十七日。既に後一週間しかない。特集とまでいかなくとも、何とかしてこれを話題に上げたかった。

 ここはダメ元で、直訴しなくては、もう二度とこの機会はやってこない。

 ひよりは立ち上がると、机で二台の電話機を抱え込んで話している編集長の田口の前に立った。

「──いいか、病院に入って怪我人の写真撮ってこい! あと、家族を捕まえて、精一杯批判を言わせろ! お前は球場の関係者をとにかく追っかけろ!」

 田口は、それぞれの受話器を顔の前でそろえると、「分かったな!」と言って乱暴に架台に受話器を置いた。

「なんだ、鈴木」

 灰皿に煙草をねじ付けながら、田口はひよりを睨んだ。

 田口は年中青い顔をした中年男で、朝晩関係なく編集部にいるモーレツ社員なのだが、他の記者たちの話によると、親指族でもあるらしい。つまり、仕事の合間を縫っては、ちゃっかりパチンコに行っているという訳だ。一体いつそんな暇があるのか……。

「麦茶のお替りならもういい。水腹になっちまう」

「いえ、あの、そうじゃなくて……」

「じゃあなんだ! お前と違って、こっちはメシを食う暇もねえんだ!」

 田口はそう言うと、蠅でも払うように手を振った。しかし、そんなことで引き下がるひよりではなかった。もう、時間はないのだ。

「女性向け記事を書かせてください!」

 ひよりは単刀直入に言って腰を折った。

「鈴木……」

 頭の上で、田口の驚いた声がする。ひよりは思った。これは……ひょっとするとひょっとするかもしれない。

 しかし──。

「バカかテメーは!」

 返ってきたのは田口の唾と怒号だった。

「今みんな、球場の火災事故を躍起になって追ってるんだ。ンな時に、そんな女の記事なんかやってたら、他の出版社に出し抜かれちまうんだよ! そんなことも分かんねえから女だっつーんだ! 女はお茶汲みでもやってろ!」

「でも! 今度、日本初のスチュワーデスが誕生するんです!」

 田口は立ち上がると財布をポケットに入れた。食事を摂りに行く気か、それともパチンコか。ひよりは田口の後を追った。

「日本初ですよ? もう二度と巡ってきません! 編集長!」

「うるせえッ!」

 聞いたことのないような怒鳴り声に、ひよりは思わず首をすくめ、騒がしい編集部は、水を打ったようにしんとなった。

「鈴木よ」

 苛ついた田口の声に、ひよりは恐る恐る顔を上げた。

「そこまで言うならやってみろ。ただし、締め切りは九月九日の午前零時。一秒だってまけねえ」

 ひよりは咄嗟に壁のカレンダーを確認した。

「九月九日って日曜日じゃ──」

「文句言うな! いいか、九月九日の零時だ。間に合えば採用してやる」

「本当ですか!」

「出来るもんならな。それが出来ねえようじゃ、結局、女なんか役に立たねえってこった。山田! 飯行くぞ!」

「有難うございます!」

 頭を下げるひよりに目もくれず、田口は煙草を咥え、部屋を出て行った。


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